生徒たちには言えないこと - 教師の矜持とは何か? (中公新書ラクレ 419)
- 中央公論新社 (2012年6月7日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121504197
作品紹介・あらすじ
「真実」を子どもに伝えるのは危険だ。教師は「真理」を生徒の感性や知識や現実に合わせて組み替え、「建前」を教える必要がある。だが、このような教師業の"アクロバティック"さを、教師自身も世間もわかっていない-「プロ教師」の著者が教師業の知られざる本質を解き明かす。
感想・レビュー・書評
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「学校」という場所が近代においてどういう場所であり、そこで「教師」はどのような存在としてあるべきなのか、ということを三十年以上の教師生活から分析したもの。正しいことを教えるのではなく、近代人として成長するための建前を教える場所である、学校は強制の場である、といった論が展開されている。
帯には、「教師業が、かくも困難でアクロバティックだとは!現場発!『プロ教師』渾身の教育論」とあり、教師という仕事が色んな意味で(教師を演じる人間、教師という仕事に対して生徒や保護者、校長、政治、社会のそれぞれが求める像など)矛盾に満ちていることを述べている。ただ、著者は1941年生まれでこの本を書いた時には既に70歳近くだし、2001年には退職している。「現場発」と言ってももう10年以上前の話で、実際著者の言いたいことを支える部分は、「60年代は」「70年代は」「90年代になると」といった、昔話に終始している。しかもだいたいは当時を振り返っての、周囲に対する不満を吐露しているだけのような感さえある。K女子高と名前を伏せて、内情を暴露しているが、著者の経歴が川越女子高と書いてあるのだから、伏せている意味もないし。「いま公教育の教師はあまりにも正当に評価されていないように思います。本書は社会の根底を担っている無名の教師たちへのエールの書」(p.222)となっているが、「今までおれよく頑張って来たよね」という本でしかない気がする。(13/11/16)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
元公立高校教師である著者が、学校教育についてかなり赤裸々に語っている。
日教組のことやら、組合派閥のことやら。
そんなこと書いて大丈夫!?と思わず心配したくなる内容も。
大きくいうと、「学校は建前を教えるところである。教師は決して真実を教えてはならない。大人になるにつれて、子どもなりに世の中の真実をつかんでいくものだ」という内容。
また、80年代以降、いじめや軽犯罪をした子どもに話を聞くと「そんなつもりではなかった」などの答えが多くなる。決して、「やったこと」に対して述べず責任を取ろうとしない・・・という内容も書かれていた。けっこう納得。「やったこと」より「思ったこと」に親も重きを置きがちなのでは。
読了になかなか時間かかった。。-
「責任を取ろうとしない」
大人が、そうだからかな?
「学校は建前を教えるところである」
ナルホド、勉強を教える先生と、処世術を教える先生の二...「責任を取ろうとしない」
大人が、そうだからかな?
「学校は建前を教えるところである」
ナルホド、勉強を教える先生と、処世術を教える先生の二種類は必要なんだ、、、2012/09/03
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学校は【真実】を教えるところではなく、【建前】を教えるところである。
70年代〜90年代っと過去のことをうじうじ、
あの時代はこうで、、俺たちはこんな風に行動してたなぁーっと、昔話が嫌気がさし、
また、他の考えを否定してあたかも自分の意見は正しい!っと記載されている事につまらなさを感じた。
しかし、現場の経験から通した言及や、
学校現場での生徒・教員同士の熾烈な戦いが、
この方の人としての厚みを出していると思う。
教育・学校に携わる身として、忖度なしで良し悪しを、
冷静に説いてる一冊だ! -
「いじめ」、「引きこもり」、「自分探し」、「校内暴力」や「学級崩壊」がなぜ起きるのかに対する問題提起の本。エキセントリックなタイトルの本だが、概ね賛同できる。
・「真理」は自ら見つけるものであって、教えるものではない。独善的な「真実」(と勝手に親が思いこんでいる事柄)を子どもに教えてはいけない。
・教師には権威が必要。
・誤った個性重視偏重の教育が、引きこもりや自分探しを助長させている。
<目次>
第一章 理屈じゃ学校は成り立たない
第二章 「ほんとうのこと」を伝えるのは危険である
第三章 子どもは親の好きに育てていいのか
第四章 善し悪し以前に、学校とは「強制」の場だ
第五章 「生徒未満」の子どもたち
第六章 校長という権力ーすぐれた教師はどう向き合っているか?
あとがき
<メモ>
理論と現場との中間に「現実」は生じるという因果律(11)
ダメな教師はいわば書き言葉でしゃべる教師である。(14)
「真理」は教えられない。「真理」は自ら発見していくものである。(15)
教師は「真実」と「建前」と生徒(社会)という「現実」のなかを漂流しているのである。(17)
「真実」は成長するにつれて、わかる者にはわかっていくであろう。わからない者には永遠にわからない。(19)
「建前」は人間を傷つけないようになっている。これに対し「真実」は個人を傷つける。(77)
世の中の良識の八割ぐらいが「建前」には含まれており、こういう「建前」をまず間流せることから始めるべきである。(77)
戦後インテリ、とりわけ、団塊の世代あたりの子育ては、かなりの確率で社会的に失敗しているように思う。彼らは学校の教師たちの浅薄な「建前」の強制を嫌悪して、家庭で子どもに自分の考える「真実」を教え込んだらしい。(78)
全共闘世代は自分たちの提示したものは「真実」であったとまだ思い込んでいるふしがある。私はそういう確信のがわ子への提示が、登校拒否(不登校)やひきこもり(社会的つながりや家族との切断)を生み出した、大きな要因のひとつだと考えている。(104)
しつけや子育ての世間的な客観値がなくなり、親たちはみんな一人ひとりで自分の親としてのあり方を評価しているからだ(108)
七十年代末に高校進学率が95%を超えるようになると、もう高校進学は一人ひとりの選択肢ではなくなり、とにかく高校へ行かなくてはならなくなった。(中略)高校進学の自由は逆の意味でなくなったのである。行かない自由がなくなったのだ。(132)
市民派や人権派の人たちは、近代の子どもは純粋で、変容するはずがないと思っている。子ども・若者問題はすべて学校(教師)の責任であると一方的に主張する。(138)
市民派・人権派の教師たちとの基本的な対立点は、やはり教師のあらかじめの指導性を認めるかどうかにあった。私たちは教育には必ず強制がともない、まずもって教師の権威が確立されていなければ始まらないと思っていた。(139)
私たちが教育や教師の強制的な性格を指摘するのは、教育的な力や教師の指導が絶対的に正しいなどと思っていないからなのである。(142)
教育の近代化とは国民形成重視ではなく、一人ひとりの個人を重視せよということである。(147)
臨教審や文部省と対立した論客たちは、昔ながらの自由主義や保守反動の類ではなく、資本主義社会の基本である個人の経済活動の自由を、教育・学校にまで持ち込もうとする超進歩主義者たちであった。(147)
市民社会は人間はみんな合理的に自律した存在ということになっているので、法や生活習俗を具体的に犯さない限り、この共同体性は見えない。ところが、学校は市民社会のような消極的な監視ー管理ではなく、子どもの社会的成長をめざすべく積極的に介入する(教育する)ため、その共同体性がよく見えるのである。(153)
「個人」と「自己」はどう違うのか?
「社会的な個人」はみんなと同じように、みんなにわかるように外部に表示する「私」である。私たちの内面にもともと形成されている「かけがえのない私」とは違う質のものである。(171)
教育業界では、「社会的な個人」と「内的な自己」とが区別されていない。(171)
「自己」が確立していれば、社会的な「個人」も閑静するように教育業界では考えている。だから、よく「自分探し」とか「自己実現」といったような言葉が使われるのである。本人の自覚を異常に重視している。(171)
他の人とは違う独自の「自己」を確定すれば、社会に表示する「自分」も完成するかのような見方が根強い。(171)
2011.11.02 読書開始
2011.11.06 読了 -
諏訪哲二は「オレ様化する子どもたち」のイメージだけが先行しがちである。しかし本書を読めば、一番「オレ様」なのはこの諏訪哲二自身であることがわかる。
現代の教師は質が低下しているとよく言われるが、本著に書かれている諏訪哲二の自分語りが本当ならば、80年代の教師でさえも「リアルにこのザマ」である。
筆者はとにかく「してやったり感」と「自分はとにかく被害者」意識が強い。とくに最後の数ページは完全なる濡れ衣でひどい目に遭った、と自らのたまっているのはもはや見るに堪えない。
こんな本から教師像を大真面目に学ぼうという人がいないことを強く願う。 -
このひとの本読んでると、ほんまにわくわくする。
たとえば、人間は平等である、というのが建前だとすると、人間は不平等にならざるをえない、というのがこのひとのいう真実。で、教育のたぶん、初期段階のことを言っているんやろうけど、そこにおいては真実ではなく建前を伝える必要がある。
わかる気もするけど、そういう論理になる理由をもっと見せてほしかったな。「真実を教えると、子どもはそれ以上学ぶ気を失う」というふうな記述があって、かろうじてそういう理由なのかな、と思ったけど。
うん、やっぱりもうちょっと深めてほしかった。 -
「建前」が大切なのだということ、「社会的な個人」と「内面的な自己」を分けて考えるべきだということ。転職して10年ほど、教えるということに携わっている。いずれも、その中で体感していることと一致している。
それでも、いくつかの点は、どうかなぁと思うところもある。その背景にあるのは、社会の方がもっと急速に進んでいて、教える側のある種の権威を回復するためには、結局のところ、教える側の一人ひとりの力量に依存するところが多いのではないかという点、もうひとつは、この本の文脈で言えば、「それ、ありかよ」っていうような先生をどう対処していくのかが弱いという点にあるように思う。
それは、警察官の不祥事に例えるとわかりやすい。単に権力を握っているというだけではなく、「警察官はエライんだ」というシンプルな権威がなければ、警察官という職種は成立しない。とはいえ、毎回のように不祥事が続くと、「エラソーに言ったって…」という風になってしまうのが普通の感覚だと思う。教えるという職種も同じなのではないだろうか。どこから始めるのが正解とはいえないけれど…
とはいえ、日頃もやもやしていたことを理論的にすっきりさせていただいた感じがする。 -
文章中に()が多くて、少し読みづらかった。
・子どもにはまず建前を教える必要がある
・教師も生徒も同じ人間だという真実は子どもからまなぶ姿勢を失わせる可能性がある -
教師としての矜持。もってなくちゃやってられない。よがらず持ち続けたい。
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自分の教育観の脆弱さを思い知らされた本。耳触りの良い「建前」と、直面している「真実」を区分けして考える視点を、この本から得た。