- Amazon.co.jp ・本 (236ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122024885
感想・レビュー・書評
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本書は、小説や戯曲を含む文章を対象とするものであり、現代文、特に、実用文には特化していません。
日本語のもつ性質について、小説家三島由紀夫が、文章を読む側から解説をしているものです。
そのところどころに、三島由紀夫が思う、文章に対する態度が垣間見えてくるのです。
気になったのは、以下です。
【目的】
・小説の読者を2種類に分けています。1つはレクトゥールであり、普通読者と訳され、他1つは、リズールであり、精読者と訳されます。私はこの「文章読本」を、いままで、レクトゥールであったことに満足している人を、リズールへに導きたいと思って始めるのです。
・最もよい文章とされていたのは、直叙する文章、修飾のない文章、ものごとを淡々とそのままに描写することの深い文章が、いい文章と教えられました。
・私は、なるたけ自分の好みや偏見を去って、あらゆる様式の文章の面白さを認め、あらゆる様式の文章の美しさに敏感でありたいと思います。
【文章のさまざま】
・平安時代には、漢字は男文字とされ、ひらがなが女文字といわれていました。当時の社会では、論理と感情、理知と情念とははっきり男女にわかれていました。そして、女子は、感情と情念を代表し、男子は論理と理知を代表していました。
・文章は公共的機能と、私的機能の両方の側面を持っておりました。
・日本語の特性に帰ると、日本人は奇妙なことに男性的特筆、論理および理知の特質をすべて、外来の思想にまったのであります。
・日本独特の抽象概念というものがなかったので、平安朝の昔から男性は抽象概念を、すべて外来語によって処理してします習慣になっていました。
・日本語の特質が韻文と散文というようなはっきりした種別を不可能にさせたのであります。なぜならば、日本語には頭韻に類したものはつけるのがむずかしく、脚韻もありません。
・日本語は詩というものを作るのに、万葉集の長歌の時代をすぎてからは三十一文字だけになりました。
・のちの戦記物が一種の韻文で綴られるようになったときも、やはり、七・五調に類したもので綴られました。
・日本の散文は韻文とそう遠くない抒情的基盤から発生して、情念を解説し、情念を描写し情念を構成しつつ発展しました。
・私も根本的にいって、日本では散文も韻文とを、それほど、区別する必要はないと思っています。
・日本語にはなおかつ長い散文・韻文の混淆(こんこう)の歴史が日本語の特質の背後に深く横たわっているのであります。
・言葉は絶えず時代の垢をつけて死に絶え、また生き変りしながら発展していくものであります。
【小説】
・森鴎外は人に文章の秘伝を聞かれて、一に明晰、二に明晰、三に明晰と答えたと言われています。森鴎外は大長編というものを一生のうち書きませんでした。非常に知的な明晰な人はあまり大作を書けないのではないかと疑われるふしがあります。
・日本ではヨーロッパ的なロマンはなかなか生まれませんでした。しかし、文学というものは何もジャンルに拘泥する必要はないので、ロマンという考えを別にすれば、源氏物語は立派な長編小説であり、ただ長さという点からは、新聞小説をはじめ現在も大長編は次々と書かれています。
・長編小説の理想的文体というのは、筋に拘泥しあい文体であります。ものにとらわない文体であります。鷹揚な文体であります。
【戯曲】
・戯曲と小説との間には多くの中間形態があります。
・われわれは会話の出てこない小説はよく退屈だと申します。それならば会話が好きかというと、会話ばかり続いた戯曲を、一般読者はほとんど読みづらいと言って敬遠します。
・小説の会話の名人が、戯曲の名人であるとはかぎりません。
・小説には会話と準備するために、会話の必然的にでてくる真理や、情景描写がすでになされていて、さもなければ会話が途絶えた後で心理や情景の解説がこれにつづきます。しかし、戯曲では会話が出てくることに対して一切の説明がないので、読者はいちいち想像で補って読まなければなりません。
・さらに戯曲の会話というものは、過去の状況を説明すると同時に、現在の行為が進行していかなければなりません。さり気ない会話には、現在と過去の二重の意味が含まれております。
【評論】
・私は小説にもまして、文章の悪い評論というものを読むことに難渋します。
・おそろしくひどい悪口が素晴らしい力強いみごとな文体で書かれているということは、いつも私を下手な小説を読むよりも喜ばせます。
・評論の文章の困難は、日本語における論理性の希薄さであります。
・日本の評論家は日本語の非論理的性質と、また対象の貧しさとによって深い知的孤独を味わわなければなりませんでした。
・一人の天才が日本における批評の文章というものを樹立しました。それが小林秀雄氏です。
・小林秀雄氏の文体の特長は、あくまで論理的でありながらも、日本の伝統の感覚的思考の型を忘れずに固執したという強さにあります。
【翻訳】
・翻訳の2つの対照的な典型的な態度があります。
①多くは個性の強い文学者の翻訳。どうせ外国の文物、風俗が完全にそのまま日本語に移されないことを承知で、自分の個性の強い歯で外国文学を咀嚼して、原作者に対する自分の精神と感覚の深い底からの愛情をそのまま翻訳に移してあたかも自分の作品であるがごとく癖の強い翻訳文を作る態度
②オーソドックスなやり方。到底不可能ながらも原文のもつ雰囲気、原文のもつ独特なものを十のうち一つでも、能うかぎり日本語で再現しようとする良心的な語学者と文学の鑑賞力を豊富に深くもった語学者との結合した才能をもつ人の試みる翻訳
・一般読者が翻訳文の文章を読む態度としては、わかりにくかったり、文章が下手であったりしたら、すぐ放り出してしまうことが原作者への礼儀だろうと思われます。
・日本語として通じない文章をただ原文に忠実だという評判だけでがまんしいしい読むというようなおとなしい奴隷的態度は捨てなければなりません。
【文章技巧】
・心理描写は平安朝の時代から日本文学の十八番の一つでありました。
・まず人称ですが、小説は、一人称か三人称で書かれるものと決まっていました。
・擬音詞は日常会話を生き生きさせ、それに表現力を頭菅、同時に表現を類型化し卑俗にします。森鴎外はこのような擬音詞の効果を嫌って、その文学は最も擬音詞の少ないものであります。
【文章の実際】
・文章の不思議は、大急ぎで書かれた文章がかならずしも、スピードを感じさせず、非常にスピーディな文章と見えるものが、実は苦心惨憺の末に長い時間をかけて作られたものであることです。
・問題は密度とスピードの関係であります。文章を早く書けば密度は粗くなり、読む側からいえば、その文章のスピードは落ちて見えます。
・私にとっては推敲は、原稿用紙一枚一枚の勝負です。
・私は短編小説ばかり書いていたときには、文章のなかに、凡庸な一行が入り込むことがひどく不愉快でした。しかしそれは小説家にとって、つまらない潔癖にすぎないことに気がつきました。
・私はまた、2,3行ごとに同じ言葉が出てこないように注意します。
・私はまた、行動描写を簡潔にすます目的で、、その前に長い準備的な心理描写や風景描写をすることがあります。それぞれの目的にしたがって、文章の苦心はさまざまな形をとるのであります。
・私はまた途中で文章を読み返して、過去形の多いところをいくつか現在形になおすことがあります。これは日本語の特権で、現在形のテンスを過去形の連続の間にいきなりはめることで、文章のリズムが自由に変えられるのであります。
・文章の格調と気品とは、あくまで古典的強要から生まれるものであります。
目次
第1章 この文章読本の目的
第2章 文章のさまざま
第3章 小説の文章
第4章 戯曲の文章
第5章 評論の文章
第6章 翻訳の文章
第7章 文章技巧
第8章 文章の実際 結語
附 質疑応答
解説
ISBN:9784122024885
出版社:中央公論新社
判型:文庫
ページ数:236ページ
定価:552円(本体)
発行年月日:2018年02月15日改版15刷発行詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
三島氏の文章は特に読みやすい。
さまざまな文章、小説と戯曲の違い、批評の文章。そして、技巧的な説明...等、
三島氏が良いと思う文章と、そうではない文章を具体的に取り上げ、なかなかに鋭く、辛辣なコメントがまた面白い。
ワタシクもそんな素敵な文章が書きたいものだ。 -
短編小説と長編小説とで表現技法が自ずと変わってくることなど、文学をより味わうための視点を提供してくれる。各章の最後には色々な小説からの抜粋があり、読んでみたいと思わせるものに出会えた。
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三島の文章へ対する姿勢が窺える1冊。男文字と女文字の歴史的な考察から始まり、西洋と日本の文学の違いにも言及しながら、二葉亭四迷以降、文章は革命的変化を遂げたとして手始めに森鴎外と泉鏡花の文章を比較する。森鴎外の極限まで研ぎ澄まされ、無駄を削ぎ落とした文章は文学的素人には決して書けないと言います。また泉鏡花の文章は森鴎外と対照的で眼も綾な色彩の氾濫があり、自分の感覚で追っていくものに対する誠実な追跡があると言います。個人的には過剰なまでの鏡花の文章が好きなのですが、それは森鴎外のような簡潔で明晰な文章の味わい方を知らないからかもしれません。短編小説、長編小説、戯曲、評論、翻訳の文章についても触れられていて、あまり興味のなかった戯曲が俄に気になりました。戯曲はかなり高度な文章技術がいるのだなと改めて思いました。後半は文章技巧について、人物描写、自然描写、心理描写、行動描写、文法と文章技巧、第8章では三島自身の文章への拘りを吐露しています。どうしても小説を読んでいると話の筋ばかりを追ってしまい、文章そのものを味わうことが二の次になってしまいます。三島が言うように文学作品のなかをゆっくり歩いて文章を味わうことを大事にしていきたいなと思いました。
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言葉は不確かなものである限り、この読本も三島の言葉から抜け出すことは不可能。
よって、この本の内容を全てに通ずるものとして読むよりも、三島曰く美しい文章とはこれこれのものだといってんだなくらいの理解に留めておくのが吉。
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あんまり感心しない
いままで文章読本のたぐひは谷崎・丸谷・井上・小谷野と読んできて、しかし三島はなんとなく敬遠してゐた。井上が『自家製 文章読本』で三島の文章読本を批判してゐたし、そもそも三島は『葉隠』を偏愛するなど、どこかひねくれた文学観を所有してゐた(これは小谷野の『日本恋愛思想史』でも指摘されてゐる)。それが念頭にあって喰はず嫌ひしてゐたのだ。
しかし三島由紀夫の『文章読本』を読んでゐる。きっかけは野口悠紀雄の『「超」文章法』を読んで感心し、末尾の《非常に有益なアドバイスが得られる》文章読本リストに挙げられてゐたのを見たからだ。
冒頭から三島は、実用文ではなく藝術文こそ至高だと主張してゐる。そして小説の文章として、森鷗外「寒山拾得」と泉鏡花「日本橋」の文章を対比する。たしかに私は鏡花の文章には、はっとした。
だが井上が指摘したとほり、三島は《私はなるたけ自分の好みや偏見を去って、あらゆる様式の文章の面白さを認め、あらゆる様式の文章の美しさに敏感でありたいと思います。》と書きながら、実用文や大衆小説・娯楽小説などには歯牙にもかけない。また、齋藤美奈子が『文章読本さん江』で指摘したとほり、三島が様々な藝術文の見本を陳列するのは《訪問先で家族のアルバムやコレクションを披露されるのと同じである》。三島が《短篇小説の模範的なものを東西から一作ずつとりました。》として、川端康成「夏の靴」とメリメ「トレードの真珠」を引用する。しかし《読み比べて、短篇小説がいかなるものであるかをよく味わって下さい。》とあるばかりで、結局この二作を読んでも《短篇小説がいかなるものであるか》はわからずじまひである。
そして最後にふたたび《文章の最高の目標を、格調と気品に置いています。》と書いた。文章の伝達についてはまるきり無視してゐる。
まづこの点で文章読本といふより藝術文読本だし、文章の中身よりも見てくれ・美しさにばかりこだはってゐる。これは三島の性格である。
また、冒頭の日本文化論も私には少し疑問に思へた。西洋と日本とを比較して、これは西洋にあるが日本にないだの、あるいは昔と今を比較して、昔はかうだったが今は堕落しただのとやってゐる。
たとへば、日本人と比較して外国人は《印刷効果の視覚的な効果》を考へたことがないと書いてゐる(「第二章 文章のさまざま」)。しかし、これも井上が指摘したとほりで、外国人も《印刷効果の視覚的な効果》を考へてゐるのは明らかである。
三島は《印刷効果の視覚的な効果》が日本と外国とで異る理由を、象形文字といふ一点においてのみ求めてゐる。では、たとへば象形文字ではない英語圏の人は「視覚的な効果」を考へてゐないのか。いや、ちがふ。たとへば英語でも、文章によってはしつこいぐらゐ同じ単語の繰返しをきらふ(行方昭夫『英語の発想がよくわかる表現50』「5 類語辞典はどう使う?」岩波ジュニア新書)。あるいは強調したい英単語はすべて大文字で書くこともある(たとへばyes→YES)。これらは「視覚的な効果」ではないのか?
だいいち三島の文章読本には《先ごろある外人のパーティに私は行って、一人の小説家にこう尋ねたことがあります。》といふやうな人づてで聞いた話が多く、実證的ではない。だから間違ひや怪しいものが多い。
だがこの文章読本でよかったのは、説明する時に用ゐる比喩である。わかりやすくて、すぐに理解できる。達意のレトリックだ。文章よりも、もっぱら三島レトリックの見本帳として読むほうが何倍も効果がありさうだ。 -
文章を味わうことを伝えたいと第二章にあるが、豊富な実例とその解説は味わい方を体得するのにちょうど良い。
言葉の織物を一つ一つ味わう大切さを伝えてくれている。 -
谷崎版より引用も豊富で、選り抜かれた上質な文章を一冊で味わえるのが魅力。かつ指南本的要素も強く、文学青年に対する三島の愛を感じる一冊です。技巧で描く描くゆう前にまずは美文の味わい方を知らなければ、ですよね。
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2013/01/10
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古今東西たくさんの文章を読んでいるからこそ批評出来る。
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観賞用の果実というものがあるーー
最高の出だしで始まる文章読本
その後の説明は難しいし、出てくる小説も難しいけれど、改めて川端康成を読んでみようと思った