メルロ=ポンティ: 哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス)

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  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (118ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140093252

作品紹介・あらすじ

世界をめぐる経験をことばに紡ぎ出す。意味が分泌される現場に立ちあい、その現場をとらえようとすることで哲学者は詩人の辛苦をも引き受ける。

感想・レビュー・書評

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  • 結論から言えば哲学的思考は決して詩になることはできず、哲学者は詩人にはなり得ない。しかしこの理由が分からない。詩の言葉は瞬間を捉え、哲学の言葉は永遠に追いつこうとするのか、それは一体なぜだろうか。もう少し勉強してから読み直します。
     身体図式(ボディースキーマ)という概念を初めて知れて良かった。

  • メルロ=ポンティから派生して現象学関連2冊。昔から
    なぜか惹かれる現象学だが、昔からなぜか本を読んでも腑に
    落ちることが少なかった。今回の2冊は今までに比べて割合
    と読んでわかったと思えることが多い、実りある読書だった
    と思う。大学生時代、半分わからずに受けていた講義を思い
    出すな。

  •  イメージとは違ったけど,興味の持てる一冊でした。『知覚の現象学』読もうかな。フランス語完全に忘れてるな~,と思いましたが。。。

  • メルロ=ポンティの『知覚の現象学』における思索を参照しながら、「哲学者は詩人でありうるか?」というサブタイトルの問いについて考察している本です。

    「哲学者は、いつでも世界を見つめなおし、絶えず経験そのものを更新することをこころみる」と著者はいい、このような努力は詩人が言葉を探し求める努力にほど近いと述べています。そしてメルロ=ポンティは、こうした反省的な思惟に先立つ、われわれの身体と世界との生きられた関係のただなかから、ことばが紡ぎ出されてくる現場に降り立つことをめざした哲学者だったとされます。

    メルロ=ポンティ哲学の解説書というよりも、豊かなイメージを描き出すことで、メルロ=ポンティの思索がもっている性格を読者に伝えようとしている本ではないかと思います。

  • 名付けられていないものを思考するのが困難。
    答えなきことに答えらしきを与えるのが詩の領域である。

    ことばで切り取ることとしての世界からの意味の分泌。

    贈与ではなく、交換という感覚の構図。
    知覚を問うことは身体を問うこと。その両義性。

    真の反省は、「反省の反省」をすること。

    手を伸ばせば逃げていく知。
    その意味では哲学者は知者ではない。

    ことばの無い領域についての知。

  • (不)断の現在を大切にしよう。

  • 「生きている」「世界と向き合っている」ことを、あらためて深く思索させてくれた本。読後に痺れるような喜びがあった。

    主体と客体が二項対立的に存在しているのではなく、相互に交換している、との主張は、ギブソンのアフォーダンス理論を哲学的にさらに精緻にしたような印象ももった。

    ・シェラーがすでに指摘しているように、およそ外的とされる経験に固有で、内的なそれには帰属しないような性質は、なにひとつとしてありえない。
    ・世界と世界をめぐる経験、世界を語ることばが、そもそも根本的に隠喩的なしかたで成り立っている。
    ・知覚された対象に意味が宿るのではない。世界がうちにはらんでいる相貌が、対象のそれぞれに意味を配分しているのである。
    ・感覚するとは、性質に生命的な価値を付与することであり、性質をまず、私たちに対しての意味、それが私の身体である、重みある塊にとっての意味のなかでとらえることなのである。
    ・(幻影肢現象について)ひとは、つまり身体であることで世界に参与しており、世界に参与する身体は、第一次的に習慣化された身体である。
    ・欠損の拒否とは、私たちが一箇の世界にないぞくしていることのうらがえしであるにすぎない。
    ・意識とは、原初的に言えば、「私は~と考える」ではなく、「私はできる」なのである。
    ・習慣の獲得とは、だからむしろ「身体図式の組み替えと更新」なのではないだろうか。
    ・ことばは、だから、なによりもまず、身体の所作、つまり身ぶりである。
    ・たんに「語は意味を持つ」。おなじように「思考はことばのうちに」ある。
    ・交流は感覚と感覚とのあいだのそれであるとともに、感覚する者と感覚される世界との間の交流にほかならない。
    ・私の身体が世界の中にあるありかたは、心臓が生体のなかにあるありかたとおなじである。身体は、目に見える風景を絶えず活かしつづけており、風景を生気づけ、風景を内部から養分を与えて、風景とともにひとつの系をかたちづくっている。
    ・諸感覚もまた相互に浸透して、共鳴しているのである。
    ・奥行きの知覚とは、単純にいえば、ものがそこに見えるという経験である。あるいは、より正確に語るとするならば、ものがそこにあることをめぐる経験のことである。
    ・画家は宇宙によって刺しつらぬかれるべきであって、宇宙を刺しつらぬこうなどと望むべきではない
    ・だんじて完全に構成されていないということが、時間の本質
    ・哲学的思考には、ついに詩そのものとなることが禁じられている。
    ・詩のことばは、いわば永遠の現在において紡がれる。

  • 哲学者は詩人でありうるかというのが副題の本書。
    筆者は詩を「見えないものを可視化する」のであり
    それはありふれた経験にきらめきを取り戻させるが
    哲学が見えないものを見ようとし、世界を見つめなおして
    新たな光を当てようとするものという点で、共通していると考える。
    なぜなら、真の哲学とは世界を見ることを学びなおすことであるからだ。
    感覚、知覚、身体など様々なレベルで、この問題について考えており
    詩の言葉を語ることとは、身体の使用法のひとつ、身振りであるとする。
    それはいちいち意図されないもので、例えると怒りに震えることは
    意図されておらず、怒りの表現の一部であるが、同時に怒りそのものであるように
    詩の言葉も表現されるものの一部でありながら、当の表現だとする。
    哲学、特に現象学の知識や心理学の知識がないとかなり読みづらい。
    序章しか理解できた自信がない。


  • 「叫び」のようにおのずと生まれることばは、「実存そのものの転調」であるようなことばが問題なのである(176頁)。あるいは、すでに「語られたことば parole parlee 」ではなく、いま、ここで「語りつつあることば parole parlante 」が問題となっている(229頁)
    (略)
    ことばとはその場合、「人間の身体が世界を言祝ぐしかた manieres pour le corps humain de celebrer le monde 」であるとメルロ=ポンティはいう。(68-69)

  • 「知覚の現象学入門」ともいえる、メルロ=ポンティという哲学者を題材に
    おそろしく分かり易く論じた本。
    詩人と哲学者の共通点を切り口に、芸術家やクリエイターの持つべき哲学がここに在る。

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著者プロフィール

東北大学助教授

「1997年 『カント哲学のコンテクスト』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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