- Amazon.co.jp ・本 (315ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140814093
作品紹介・あらすじ
奥アマゾンで1万年にわたり独自の文化と風習を守り続ける人々、ヤノマミ。150日間におよぶ長期同居生活を綴った、震撼のルポルタージュ。
感想・レビュー・書評
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ブラジルとベネズエラに跨る広大な森に生きる先住民ヤノマミ族。
男たちは獣を狩り、女子供は田畑を耕し、巨大なドーナツ状の集合住宅に暮らす。そこにプライバシーは皆無で真っ暗闇の中、眠り、時に交接する。
基本的には一夫一妻制が成り立っているが開放的な彼ら。浮気や不倫は日常的で父親違いの子供も多い。
なにより、衝撃的だったのが出産に関してのこと。彼女らは森で出産し、生まれた子を精霊のまま天に返す(殺める)か、連れ帰り子供として育てるかを一人で決断する。
14歳の少女が45時間の難産に苦しみ泣き続けた末にやっと産み落とした命を天に返した。それを目撃してしまったディレクターは帰国後もなかなかショックから立ち直れず、夜尿が続き、げっそりと痩せたそうだ。
コインロッカーベイビーや赤ちゃんポストなど、耳にするたび覚悟なく妊娠・出産することに対し、欲しくても授かれない人もいるのに…と反発を感じていたが、なんというかそういったモラルだとか善悪を超えた次元の世界だ…。
自ら殺めた子の亡骸を白蟻の巣に入れ、骨すらも食べ尽くされた二週間後にその巣をゆっくりと焼く。
自身の下した決断ではありながらも、やはり母は涙に暮れるそうだ…
森を食べ、森に食べられ、森に生きるヤノマミ。時は流れ、彼らの聖域にも狡猾な文明が入り込み始めたようだ。
発展は彼らに幸いをもたらすのか、それとも…。この先も彼らがアハフー、アハフーと笑っていられたらいいな。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
星の光さえ遮断する、深い深い森の中に、彼等は住む。
彼等は、身を守る目的以上の衣服は纏わず、自ら磨いた鏃で猿を狩り、木を削って造った舟で、魚を獲る。
彼等は自らのことをヤノマミと呼ぶ。ヤノマミ、それは人間という意味だ。
奥アマゾンの最深部、文明から遠く隔たり、長い長い時間を掛けて築いた独自の文化を守り続けてきた。
この本は、彼等と共に過ごした150日にも渡る日々を記録した、生々しいルポルタージュだ。
彼等の暮らしは、私達がネイティブという言葉から安易に想像するーー眩い太陽の下で、自然と共生し、神の恩恵に感謝しながら、手を取り合って豊かに暮らす、というようなーー、ものとは、かけ離れている。
病に伏せれば薬を飲み、命は当たり前のように法に守られーーこの常識の中で生きている私達から見れば到底理解の及ばない風習も、多々ある。
宴をし、笑い合う。
争いをし、傷つけ合う。
欲があり、愛がある。
彼等は一塊の肉であり、同時に誇り高い魂なのだ。
頁を、紙一枚を隔てて彼等を眺めるように、この本を読んだ。
ざわざわと木々の葉擦れの音がうるさいほど頭の中で鳴り、時々、向こう側の彼等の腕がひゅっと伸びてきて、ふいに私の首根を掴むのではないかという想像に駆られた。時には彼等と唄い、笑った。
ヤノマミ、それは人間という意味だ。
私はまだ、人間という生き物のことを、何も知らない。 -
アマゾンに住む独自の文化を持つ人々の集落で150日間過ごしたNHKディレクターの著作。
タレントが一週間滞在して涙で別れるというよくある類のものとは全く別のレベルの滞在記。
中でもヤノマミ女性の出産時の行動は理解の範囲を超えた。森で産み、我が子を我が子として育てるか天に返すかの決断は全て出産直後の母親にあるという。出産をひかえた自分にとっては衝撃的な内容だった。 -
アマゾンの奥地に暮らす少数民族ヤノマミ。NHKのドキュメンタリー班が10年来の交渉を経て彼らへの取材と撮影を実現した。数度に分けて計150日間の現地で寝食をともにして取材撮影を行った日々の様子が本書では綴られている。南米の部族とフィールドワークで一緒に暮らした経験についてのエッセイとしては、人類学者レヴィ=ストロースの『悲しき南回帰線』が有名だが、人類学者ではない日本のテレビクルーが描く部族の姿は、その視点が自分たちに近いからなのか、より生身の人間として感じられる。それは、筆者が彼らと彼らの生活に対して適切な畏れと敬意を持ち、正しく接しようとしているからでもあろう。
「ヤノマミ」とは、実は彼らの言葉で「人間」を意味している。彼ら以外の人は、「ヤノマミ」以下の存在として「ヤプ」と呼ばれる。取材陣が異物でもある「ヤプ」と見做されていることは、この取材が危険を伴うことを意味する。もちろん、毒蛇などの自然の災害についてもついてまわる。その緊張感が行間から溢れる。
ヤノマミはこれまで「文明」による厄災から奇跡的に逃れており、口承での独特の文化が保持されている。今でもヘレアムゥと呼ばれる長老たちの講和があり、一日は朝のヘレアムゥで始まり夜のヘレアムゥで終わる。
それでも文明との接触は避けられず、現代医療が入ってきたり、多くの人が工業製品の短パンを履き、留学により接触を行ったり、とその独立性が失われつつある。ジャレット・ダイアモンドもその著書『昨日までの世界』で、パプアニューギニアの部族が急速に「文明化」されている様子を描いている。ヤノマミの世界は、まさしく『昨日までの世界』で、それはまさに失われつつある。「一定の人口を維持し、独自の伝統と風習を保ち続けているのは、ヤノマミだけと言っても過言ではなかった」 - ドキュメンタリを作るものとして、ジャングルの中で危険を冒してでも、どうしても今映像に記録をしておきたいという気持ちを持ったのはとてもよく理解できる気がする。
そうして本書の中で語られるエピソードとしては、祭り、狩りの旅、出産、死、部族の歴史、世界観、文明の侵入、などがある。特に彼らの死生観は独特だ。死者については忘れなければならない、とされる。死者に縁のあるものは死者ともに燃やされる。そして死者がいたことも忘れて、その名前も決して口にされることはない。男は最後には蟻や蠅となり、女はノミやダニになって地上に戻ると信じている。そして、もっとも印象的で、著者も衝撃を受けたのが嬰児殺しだ。産まれたばかりの子供を人間として育てるのか、精霊として森に返す ~ その場で殺す ~ のかは、産んだばかりの母親が決める。我々がその行動において従っている倫理、道徳、法律が、現代文明という枠の中で作られたものであり、相対的なものでしかないのだと痛感することになる。
この本を読んだ後に、NHKオンデマンドでヤノマミを特集したNHKスペシャルを見た(全く便利な世の中になった)。わかっていることではあるが、映像ドキュメンタリーは、事実だけを伝えているわけではない。映像にCGなどで加工をしていないという意味では事実だが、編集するという行為を通してひとつの視点が固着される。その意味でもヤノマミに興味を持ったのであれば、映像だけでなくこの本も読んだ方がいいだろうと自信を持って勧めることができる。
NHKスペシャルとして放送された映像は、美しい映像であるが、この本で語られる内容の多くが捨象されてしまっている。この本を読めば、映像を作ったのにもかかわらず、この本が書かれた理由が分かるだろう。
お勧め。 -
世界を知った気になってないか?こんなにもお前さんが知らない現実があるよ、冒険もあるよ!
ドキュメンタリーを読むのはこんな声が聞こえた時だ。
そして今回読んだのは、きっかけはジャレド ダイアモンド氏の「銃・病原菌・鉄」だったと思う。十分に食料に恵まれ集団の維持ができるならば、石器から鉄器に移行しない文明がってもそれは当然、という話の流れで南米のヤノマミの名が出ていた。
本書はヤノマミと延べ150日間過ごしたテレビ取材の緊張、驚き、発見を淡々と書いてくれている。
読んで何度も驚いた。信じたくないような場面もたくさんあった。知ったことで、私にとって世界はまた広くなった。 -
これはすごい本だ。
起承転結がキッチリと計算された構成にはなっていないが、体験者だけが語りうる、ザラザラとした質感をハッキリと伴い、時に読み手の胸に突き刺さってくるような圧倒的なリアリティが、だからこそ確実に浸透してくる。
著者はドキュメンタリー番組を作るという業務目的のため、同じ“人間”という種族である、それ以外にほとんど共通項を持たないようなアマゾン奥地に暮らす部族の集落に身を投じ、共同生活を送ったわけだが、おそらく完成した番組からも画面を通しては決して伝わってこないであろう、スタッフだから、仕事だからという理由で身の安全が保障されているなんてことはまったくないその恐怖と不安たるやいかばかりのものか。
同じ業界で飯を喰う者として、我が身に置き換えて考えてみたら、その戦慄は一層際立つ。
その恐怖感とはとどのつまり、ヤノマミの人々の価値観の内にある、生死を分かつ境界というものが、我々が知る現代文明社会におけるそれと比べてあまりにも曖昧である、という着地点に落ち着くのではないだろうか。
個人主義とかファシズムとか、そういった近代以降の理性的な分類とはまったく異なる次元で、ヤノマミの人たち個人の生死が持つ濃度は全体の中において私たちには希薄に感じられる。
人以外の動物や生き物によく見られるような、個の生よりも種の存続と継承を優先する、という摂理がより強く残っているように思われるのだ。
現代社会に暮らす私たちの個が生に対して執着するということは、すなわち欲の現れである。
それも、食欲や性欲、睡眠欲といった原始的な本能ではなく、物欲、名誉欲、支配欲など、他の動物が備えないような後天的な欲求の現出に他ならない。
物質的に豊かといわれる、いわゆる先進国に暮らす私たちはそういった即物的な欲望に如実に支配されてしまいやすい。
今日獲るのは今日必要なものだけ、“モノ”に対する執着が我々に比すと格段に薄いヤノマミの人々にとっては、死というものに向き合う距離感もまた、私たちには実感が困難なほどに近いのではないだろうか。
現世に遺すモノに執着すればするだけ、死に対する恐怖は高まり、今生への未練も引きずりやすい。
それは実は、とてつもなく不幸なことなのかもしれない。
人間とていうまでもなく、動物の一種である。
哺乳類に属する一種に過ぎない我々人間が、いうなれば本来の獣に近いとも表現できるこのような生活様式に則って生きることは、本当の意味でナチュラルなことであり、ストレスフリーなあるべき姿なのではないかな、とこの本を読んでいると改めて感じてしまう。
いや、そうであるのだ、と私たちは皆既に知っているような気もする。
と言いながらも、後半に差し掛かると、こんなヤノマミにも実は以前から西洋科学技術の長い手は伸びていて、連綿と続いている伝統が脅かされている側面もある、という事実も明かされる。
そして私たちは、未だにこのように動物本来の野性を保ちながら暮らしている人間たちがいるのか、と感嘆するのと同時に、やはりもうこの地球上に近現代文明社会の影響が及ばない地は存在しないのだな、と否応なしに思い知る。
と、このように文章に綴れば大仰に聞こえてしまうような様々な理を、まったく大上段に構えることなく、純粋に自らが見聞きし、感じたことをシンプルに構成していくことによって読者に伝え切ってしまう、そんな著者の体験こそが凄まじく、それを著す手法が優れているのだ。 -
ブラジルの先住民族と同居してノンフィクションを撮ったNHKスペシャルディレクターによる本。番組は既にTVで見て、生まれた子供を精霊として森に還す様が非常に印象に残っていた。著者は民族学者でもない同時代の日本人なので、その視点に共感しやすい。
言葉も文化も異なる人々の中に入り込んでいく苦労から始まり、彼らの行事・祭りの様子、家族関係や個々の人物像、シャーマンとその思想、そして女たちの出産と赤ん坊を人間として迎え入れるかどうかへと村の描写がされていく。終盤は一転して、村イチの長老シャボリ・バタがこの村ワトリキに至るまでの流転へ。淡々と語られる歴史だが、病気による大量死などが語られ圧巻。今の彼らの姿だけでは平板なものになりかねないところを、歴史と重ね合わせることで移ろい行く儚さが見えてくる。最後のとどめは文明に触れて変わり行くヤノマミたち。起承転結のはっきりした展開で読ませる。ここはTVマンらしさか。
ヤノマミはちっぽけな存在かもしれないが、われわれが当たり前だとか絶対と思っている価値観の相対性が沁みるように分かる。そう言えば間引きの風習も少し前までは日本にもあったわけだ。彼らの考え方はわれわれにも理解できそうだし、意外と距離は近い。人間も突き詰めれば生物のひとつでしかないのだ。その上で、もがいて何を求め何を見つけられるのか、われわれもヤノマミ同様、大きな世界の中のちっぽけな存在だ。 -
生まれた赤ちゃんを殺めるお母さんはしんどいだろうな、と思った。
精霊になってまた返ってきて、次はたくさん抱っこしてもらえるといいな。