大乗仏教―ブッダの教えはどこへ向かうのか (NHK出版新書 572)

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  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140885727

感想・レビュー・書評

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  • 大乗仏教の入門書という位置付けだけど、知らないことが一杯だった。

    まずは、釈迦の仏教と大乗仏教がかなり違う、ということ。ある程度、違うことはわかっているが、やはり大乗仏教の国に生きていると、ブッダの教えの連続性の方に目がいく。が、やはり根源的なところで違うんだな。

    その断絶が最初に現れたのが般若経。般若心経は、これまで関心を持って関連図書を読んできたが、そんなにブッダの教えとここでそこまで違ったかというのは驚きだ。そして、大乗仏教の理論化に貢献した龍樹については、著者はレトリックと詭弁で評価されすぎであると一蹴。そうか〜と。

    で、法華経になるとさらに変質は進み、浄土経などなどとどんどん違うものになっていく。ある意味、禅になるとほぼ中国の道教状態になってしまうのだが、なぜかここで一周回って原始仏教とのつながりがここで少しできてくる。

    私は、日本の仏教がオリジナルからかなり変質したものになっていて、その原因は極めて日本的な事情があったんだろうと思っていたのだが、そのベースとなるお経がもともと原始仏教とはかなり違う教えになっていたんだな〜と思った。(もちろん、著者のスタンスとして、日本の宗派の違いをその経典の違いで説明しようという意図があって、そういうことになっている側面もあると思うのだが)

    では、釈迦の教えから外れた大乗仏教に意味はないかというと、その教えによって幸せになれる人がいるならば、それでいいではないかというスタンスでそれはそうかなと思う。

    最後に、東アジアの仏教において重要な位置をもつ「大乗起信論」は、実はインドで書かれたものではなく、中国で書かれたもの。それもオリジナルではなく、中国の経典などからの引用を集めたパッチワークで、それをインドの馬鳴という人が書いたとした偽文書であることがわかったというトピックを紹介している。このことは、これからの大乗仏教理解に大きな影響を与えるとのこと。

    その顛末は面白かったのだが、著者の論理でいけば、そうかもしれないが、それで幸せになった人がいるなら、それでいいんじゃないかということになるはずなのだが、どうしてそれがそんなに大事なことかはわからなかった。

    大乗仏教の経典って、「お釈迦さまはこういった」という形で、後世にどんどん経典を作り、それにさらなるお経を書き足していったものなので、大乗仏教の解説書、理論書がパッチワークであることくらい大したことではないように思える。

    で、それがそういう本だとしても、これまでそれが大事だと思っていた人がいるのなら、それはそれでいいんじゃないかと思ってしまった。

  • 大乗仏教では、凡人が仏陀になるためには仏陀に出会わなければならない、と考えるため、すでに釈迦が死んでしまったこの世界で如何にして仏陀に出会えるようにするかが要点となってくる。大乗仏教の主要な経典では、仏陀に出会える根拠付けが多様な仕方で説明されており、非常に面白い。人はみな過去(前世)に仏陀に出会っていると考えてみたり、釈迦仏陀は実は死んでいないとしてみたり(久遠実成)、パラレルワールドに仏陀はいると言ってみたり、仏陀はあらゆる世界にいて仏陀ネットワークを形成していると想像してみたり、1人1人の中に仏陀はいると主張してみたり、と想像力豊かで多様な仏陀イメージが出てきて楽しい。

  • 2023/06/14

    大乗仏教、よ〜くわかった!

  • 釈迦の仏教から
    大乗仏教
    その分化へ。

    多様性は、結局のところ「かんたんさ」によって担保されていく。

  • 青年と講師の対話形式で、大乗仏教の成立とその思想について解説している本です。

    初期仏教と大乗仏教のちがいを押さえたうえで、『般若経』や『法華経』、『華厳経』などの大乗経典や、浄土教および禅などの教えについて、大胆な比喩を用いながらわかりやすく説明がなされています。また補講として、大竹晋による『大乗起信論』研究の紹介がおこなわれています。

    「おわりにかえて」で著者は、「大乗仏教が釈迦の教えとどれくらい隔たったものであり、その一方でどういう点に共通性があるのかを、できるだけ客観的に提示すること」が本書のねらいであると述べています。それとともに著者は、富永仲基の仏教批判を紹介して、著者自身もまた、実証的な観点から大乗仏教の歴史を解き明かしてきた仏教学の立場に立脚していることを明確にしています。

    実証的な仏教学の成果を、仏教についてのくわしい知識をもたない読者に紹介している入門書としては、親しみやすい内容の本だと感じました。大乗仏教が初期仏教からかけ離れた教説を含んでいることを明らかにしつつ、そうした多様な教説がさまざまな人びとにとっての救いとなってきたことに、宗教としての意義を認めるべきだということを、著者は随所で語っています。ただ、こうした著者の宗教観それ自体には、個人的にはあまり魅力を感じられなかったのですが、仏教学の研究者としてはこれが良心的な態度だというべきなのかもしれません。

  • 第一講:「釈迦の仏教」から大乗仏教へ
    ・日本に入ってきたのは大乗仏教
    ・もともとの釈迦の教えは時代を経て分派し、若干の解釈の違いを認め合う「部派仏教」へそれぞれ分派していった
    ・部派仏教の中で同時多発的に「大乗仏教」の考えが生まれはじめた
    ・「釈迦の仏教」では修行を積み阿羅漢(ブッダの下位存在)を目指すというゴールに対し、大乗仏教では「ブッダ」になることをゴールとし、輪廻転生を通して善行を積むことがブッダになるための近道と考えた。

    釈迦の仏教では、自身の修行を見せることで、他者にこういう救いの道があるのかと「気づき」を与える考え方の一方、大乗仏教では、自分を犠牲に他者を救うという考えの違いという説明はかなりしっくり来た。
    日本で自己犠牲が尊いとされる道徳的価値観はこの辺がベースにあるのだろうか。

    第二講:般若経
    ・輪廻転生のうちで既に一度ブッダと会っていて、誓いを立てて菩薩(ブッダ候補)になっている
    ・般若経では「空」の概念を再定義し、修行をしなくてもブッダへの道が開かれていることを示した
    ・「釈迦の仏教」における行為と結果の関係「業の因果則」を否定し、何らかの超越的な法則で世の中は動いているとし、その存在を「空」した

    修行をしないと救われないというのはなかなかハードルが高いので「般若経」が生まれたのも納得。根本を否定しているので違う宗教を再定義しても良さそうだが、仏教の世界観は完成度が高かったのでそこは流用したかったのかな?

    第三講:法華経
    ・法華経は般若経の進化系
    ・般若経ではブッダになる道は三通り(教えを聞く、修行頑張る、善行を積む)あるとし上下関係があったが、法華経では「一仏乗」として全て同列とした
    ・上下関係があることはレベルが低いとして般若経よりも上の立場をポジショニング
    ・「釈迦の仏教」は法華経に導くための方便だとして本当に価値のある教えは法華経だとした

    「法華経では迫害を受けている状況こそが法華経の正しさの証明である」というのはなんとも、という感じ。布教力が強い宗教というのはこのような姿勢を取る場合もあるのか。

    第四講:浄土宗
    ・平安時代末期の律令制崩壊時は「末法思想(正しい仏教が衰退し、現世で悟りを開くのは不可能になる時代)」がはびこる。
    ・そうした中、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われる、とした浄土宗は急速に広まった。
    ・浄土宗では、釈迦よりも阿弥陀を上の存在とおき、阿弥陀がいるパラレルワールド(極楽浄土)に死後行けることを救いとした。

    浄土宗において、極楽浄土に行くことはブッダになるための修行を積む最適な環境と定義したに過ぎないが、いつしか大衆(救いを求める主体)に迎合する形で教えが変化した、という部分は大変面白い。

    第五講:華厳経・密教
    ・華厳経は悟りの方法論よりも、示された壮大で宇宙的な世界観に魅力がある。
    ・ブッダが自らの映像を私たちの世界に投影してくれているとした。
    ・華厳経は中央集権的な思想が強かったため奈良時代に国教となり重視されたが、悟りの方法が書かれていないため衰退していった。
    ・密教(天台宗、真言宗)は教えを一般には公開しないということ。
    ・真言宗では、生きたまま仏の境地に至ることを目指し加持祈祷を行う。


    第六講:大乗涅槃経・禅
    ・インドでは大乗仏教が成立した以降は思想的に似たヒンドゥー教に吸収され衰退していった。
    ・そのきっかけは如来蔵思想(ブッダは自分の中にいる=仏性)という考えをもち始め、ヒンドゥー教の梵我一如に近づいたことによる。
    ・仏性を特に強く打ち出したのが涅槃経
    ・日々の規律を厳格に守り自分の仏性を確認しながら暮らすのが大事
    ・禅宗(臨済宗、曹洞宗)は自分の仏性に気づくための修行として坐禅修行を重視した。
    ・自己鍛錬システムを取り入れた点で釈迦の仏教に近い存在


    第七講:大乗仏教のゆくえ
    ・日本の仏教には僧の戒律となる律が導入されなかった。
    ・律がない事が明治時代の廃仏毀釈の後に仏教が一気に世俗化した事につながる

    補講:今も揺れる大乗仏教
    ・仏教界のフェルマーの最終定理であった「大乗起信論」が近年解き明かされた。
    ・様々な言説の根拠となっていた「大乗起信論」が実は後世の創作だと判明し様々な言説がそのバックボーンを失った

  • ●大乗仏教に宗派がたくさんある理由
     → 信奉するお経が異なる

    般若経→世界は「空」である
    法華経→なぜ「諸経の王」なのか
    浄土教→阿弥陀と極楽の誕生
    華厳経・密教→宇宙を具現するブッダ
    大乗涅槃経・禅→私の中に仏がいる

    ● 大乗涅槃経
    大乗『涅槃経』の独自の教え
    ・如来常住
    ・一切衆生悉有仏性
     →全ての人が条件さえ整えば、外から誰かに助けてもらわなくてもブッダになることが可能である
    (他のお経ではブッダは外にある)

    ●禅
    中国発祥
    道教などをベースとした出家者コミュニティがまず存在し、それが「釈迦の仏教」の修行の一つである「禅定」と結びついて、仏教集団となっていったのが起源
    227


    禅宗には特定の根本経典がなく、教えよりも生活スタイル(実践)がベースとなっている点で他の大乗仏教とはかなり趣が異なる、 


    もともとの「釈迦の仏教」では、自我という錯覚の存在を自力で打ち消し、煩悩を断ち切ることが悟りに至るための道だった。


  • めちゃくちゃおもしろかった。
    私は、釈迦の仏教(「私」という虚構を実在と感じてしまうことがあらゆる苦しみの原因であり、それを取り除くことで輪廻から離脱して至高の安楽に至ることができる)のうち輪廻や業を除く部分に強く同意しつつ、精神をそこまで高めたいと願いながら世俗にまみれて暮らす自称修行者に過ぎないが、大乗仏教と釈迦の教えの関係がいまいちわかっていなかったため、本書が大変参考になったし、何より、仏教が発展しつつ変化していく様が生き生きと描かれていて楽しかった。

    釈迦の仏教「『私』は虚構。肉体や感覚という実在の集合体に勝手に意味とまとまりを見出だしているに過ぎない。無我に至れば苦しみは消える。善行であろうが業に頼る限り輪廻からの離脱はない。悟るためには生産活動に携わらず修行に全エネルギーを注ぎ込め」
      ↓
    般若経「肉体も感覚も全て存在しない。『空』という超越的法則だけが存在する。そしてその法則に照らせば、善行という業のエネルギーにより悟りの境地にたどり着くこともできる。」でハードル下がって信者激増
      ↓
    浄土教「釈迦を凌駕する絶対的存在である『阿弥陀仏』のエネルギーで成仏できるから、阿弥陀仏のいる極楽浄土へ行こう!そうすれば皆ブッダになれる」→「もう、阿弥陀仏が全ての者を救ってくださることが決定しているから、我々は感謝するだけ。極楽浄土に行くこと自体が目的で、そこでは皆幸せに暮らせる」でもはやキリスト教のGODと同質。信者爆発的増加
      ↓
    華厳経「盧遮那仏は宇宙そのものであり同時にあらゆる微塵の中にも存在する。全てであり部分である。」
      ↓
    大乗涅槃経「全ての者の中にブッダが既に存在している」で釈迦の否定した自我を大前提とする
      ↓
    禅宗「自らの内なるブッダを見つけるために瞑想し自分と向き合え」で瞑想と内面を見つめる部分は釈迦の仏教と共通するも目的の前提が全然違うものに

    という風な関係か。途中からブッダのインフレが凄まじいが、それぞれの時代背景の中で救済手段として求められた歴史があり、それぞれに意義のある多様な宗教であることがよくわかった。

  • 「釈迦の仏教」から大乗仏教へ:
    大乗仏教はお釈迦様直伝の教えではない?
    自分を救いの拠り所と考えた「釈迦の仏教」
    外部の不思議な力を拠り所と考えた大乗仏教
    般若経──世界は「空」である:
    大乗仏教の最初の経典
    私たちは前世ですでにブッダと出会っている
    善行で輪廻は止められるのか?
    法華経─なぜ「諸経の王」なのか:
    日本の宗派に影響を与えた「諸経の王」
    すべての人々を平等に救う「一仏乗」
    方便としての「初転法輪」
    浄土教─阿弥陀と極楽の誕生:
    なぜ浄土教は日本に広まったのか?
    時間軸ではなく空間軸の広がりに注目した
    菩薩修行に最も適した仏国土─極楽浄土
    華厳経・密教─宇宙を具現するブッダ:
    『華厳経』の象徴である「奈良の大仏」
    菩薩行を説く「十地品」と「入法界品」
    一は即ち多であり、多は即ち一である
    大乗涅槃経・禅─私の中に仏がいる:
    インド仏教衰退の謎
    変容を許したことで仏教はアイデンティティを失った
    すべての人は生まれながらに「仏性」を持っている
    「一切衆生悉有仏性」を説いた大乗『涅槃経』
    大乗仏教のゆくえ:
    日常の生活のすべてが修行である
    「律」を取り入れなかった日本の仏教
    すべての宗教は「こころ教」に一元化されていく
    今も揺れる大乗仏教の世界─『大乗起信論』をめぐって
    「仏教とは何か」を知ること

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著者プロフィール

1956年福井県生まれ。花園大学文学部仏教学科教授。京都大学工学部工業化学科および文学部哲学科仏教学専攻卒業。同大学大学院文学研究科博士課程満期退学。カリフォルニア大学バークレー校留学をへて現職。専門は仏教哲学、古代インド仏教学、仏教史。著書に『宗教の本性』(NHK出版新書、2021)、『「NHK100分de名著」ブックス ブッダ 真理のことば』(NHK出版、2012)、『科学するブッダ』(角川ソフィア文庫、2013)ほか多数。訳書に鈴木大拙著『大乗仏教概論』(岩波文庫、2016)などがある。

「2021年 『エッセンシャル仏教 教理・歴史・多様化』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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