反逆の神話〔新版〕: 「反体制」はカネになる (ハヤカワ文庫NF)

  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (592ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150505806

作品紹介・あらすじ

「差異」への欲求こそが、資本主義を加速させる。カウンターカルチャーの欺瞞を暴いた名著。新たな序文を付す。解説:稲葉振一郎

感想・レビュー・書評

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  • 1960年代からアメリカをはじめ世界中の国々で影響力を持った「カウンターカルチャー」について、その思想の形成の背景と実際の社会への影響を、様々な社会現象を紹介しながら論じている。


    カウンターカルチャーは、近代合理主義や工業化を背景として生まれてきた資本主義に対する「対抗文化」として生まれた。社会変革についての思潮としては、共産主義がカウンターカルチャーに先行して20世紀の前半から大きな影響を持っていた。共産主義は資本主義と資本化がもたらす貧富の格差に対して、労働者を核とした共産体制への転換で対抗しようとした。そのため、既存の社会体制に対してノーを提示することと共に、新しい社会体制の構築も大きなテーマであった。

    一方のカウンターカルチャーは、この社会を覆っている制度やシステムそのものからの解放を目指した動きである。ロックやパンク、ヒッピーといった文化には、秩序からの逸脱や組織からの離脱が不可欠の要素として含まれている。

    さらにカウンターカルチャーは、消費文化も資本主義や既存の社会体制が我々に押し付けているものとして、抵抗の対象にするようになる。企業が生産を拡大するためには消費を伸ばさなければならず、消費を拡大するためにも労働者は働いて収入を得なければならない。また、広告産業は我々にそのような消費を煽ることを通じてこの仕組みが回るようにしている。

    このような「抑圧」の体制から逃れるため、マクドナルドではなく地元の個人経営のレストランへ、工場生産されたものではなく手作り品を、化学肥料を使った野菜ではなくオーガニック野菜を、自動車ではなく自転車を、といった数々の運動が展開された。本書では数多くの事例を挙げながら、カウンターカルチャーの様々な運動が生まれては消えていく様子を紹介している。


    これほどの数の逸脱や反消費運動が20世紀後半に生まれた背景には、20世紀の前半に工業やメディアが発達し、大衆社会が生まれたこと、そしてその「民主的な」社会の中からナチスドイツのようなファシズムの狂気が生まれてしまったことが大きな影を落としていると筆者は考えている。社会システムや秩序といったものに対する失望と恐怖が、戦後の特に若い世代に社会を再組織化したり改良したりすることよりそれからの逸脱や逃避を志向させたということである。

    しかし、これらの運動は、やがて見事に市場経済に取り込まれる。これらの新しいスタイルの消費がクールであると見なされ、支持が集まるようになると、そのマーケットをターゲットとした企業や商品が生まれ、それらのいくつかはやがて一大産業に成長していく。結局のところ、消費者に「差異」を提供し、消費を促すという消費社会の仕組みは、カウンターカルチャーの消費でもまったく同じように機能するのである。

    既存の体制が提供する消費財や社会サービスを使うことを拒否し、エコでエシカルでローカルなものに価値を置くことは、それらの消費財としての価値を高める。こうして価値を与えられた消費財は、新たに市場に取り込まれていく。このようにして、農作物からファッション、ツーリズムに至るまで、より多くのものが市場経済に取り込まれたが、カウンターカルチャーが問題としてきた社会課題はそのことによっては何ら解決されずに残った。

    結局のところ、カウンターカルチャーは、既存の体制や価値に対する反逆の狼煙を上げながら、やがては消費社会へと取り込まれていくということを戦後半世紀以上にわたって繰り返してきた。


    筆者はこのようなカウンターカルチャーの姿勢に対して批判的である。それは、カウンターカルチャーが結果として消費社会に取り込まれてしまったからというよりも、これらの運動が既存の体制を批判しつつ、新しい社会のあり方やそこへ至る道筋を提示していないからである。

    カウンターカルチャーの運動の多くは、組織的な努力や社会の仕組みの改善ではなく、個人が既存の体制にノーを突きつけることや、少人数のコミュニティでの活動を行うことで社会を変革すること以外に、実質的な方向性を示していない。

    しかし、既存の体制に背を向けるという方法に止まっていては、社会を変革することはできない。むしろそのことが、解決を意図している問題をかえって悪化させる結果に終わる可能性が高い。社会に内在する問題の多くは「集合行為の問題」と呼ばれる、個々人がバラバラの意思に基づいて行動するより、一定のルールを受け入れて行動する方が社会的にも個々人にとっても良い結果が得られるような問題であることが多いからだ。

    右側通行(あるいは左側通行)という交通ルールから環境規制に至るまで、一人ひとりはそのルールに従うことに必ずしもインセンティブを持ってはいないが、安全な道路や持続可能な地球環境は、我々すべてが必要としているものである。だからこそ社会の中にルールが作られる。そして、商品経済を支える市場や工業製品も、政府や資本化が我々を抑圧するためにあるのではなく、我々の生活や経済活動を支えるためのものとして作られたものである。

    当然ながら、これらの制度やルールにも欠陥はある。市場経済が格差の拡大をもたらし、大衆消費社会が地球環境問題を引き起こすということを、我々は20世紀を通じて経験してきた。これらの課題に対して社会的な改革が求められていることに疑問の余地はない。しかしそれらは、制度の改良によって達成されるべきであり、制度を否定することは解決にはつながらない。

    筆者は、「異議申し立て」と「逸脱」は異なるものであり、社会の問題はカウンターカルチャーがくり返してきた逸脱ではなく、建設的な異議申し立てを通じて解決されるべきであると述べている。そしてそのためには、社会制度やルールが存続していることが必要であることに注意を促す。


    本書の結論において、社会の中には、何が大切かということについて「多元的な価値」があり、我々の社会のルールは完全なコンセンサスの上に構築されるものではなく、多くの点でどっちつかずなものであるということを筆者も述べている。そして、そのような状況の中で社会のルールを構築していくことは、多くの異議や葛藤の上に成り立つものであるとしている。

    このことから目を背けて、逸脱の再生産に身を委ねていてはいけないということが、カウンターカルチャーを批判的に検証した本書における筆者の強いメッセージであると感じた。


    本書では、社会の制度を改良し、前に進めていくための仕組みづくり自体については、いくつかの提言はあるものの深くは考察されていない。

    筆者のうちの一人であるジョセフ・ヒース氏は、『ルールに従う』という書籍で人間がなぜルールを構築し、それに従う社会を構築したのかということを分析している。また、『啓蒙思想2.0』では、社会制度のあるべき姿を議論するために必要な理性的な思考というものが、個々人の頭の中だけで完結するのではなく社会との相互作用の中でバランスを保ちながら熟議を重ねることで生まれてくるということを述べている。それらの書籍を併せて読むことで、実践的な取り組みに対する手がかりも得られてくるように感じた。

    また、本書の原著は2004年に出版されており、主に左派のカウンターカルチャーの歴史が取り上げられているが、社会体制への不信やそこから逸脱することへの志向は、右派にも共通するものであると感じた。そして実際に21世紀に生まれたアメリカの右派の様々な政治運動は、そのような力が顕在化したもののように感じられる。

    左右両方の底流にこのような体制やルールに対する不信があり、それらから逸脱することが目的化したような動きがあるということは、政策に関する建設的な議論をますます難しくしている。カウンターカルチャーの歴史を辿ることで、現在のアイデンティティ政治やルールの逸脱自体を中心的なテーマとする文化がどこから生まれてきたのかを知ることは、分断の政治と言われる現状を解消していくための方策を考えるための重要なステップになると思う。

  • 資本主義への批判について、反論が満載。
    資本主義の批判の対象は、消費主義であり、資本主義ではない。
    フロイトの哲学やマルクス主義を対比として用いているところが興味深い。

  • 第二次大戦後、リベラリズムの中から生まれたカウンターカルチャーが世界で(特にその局地としてのアメリカで)いかに理想と解離してしまっていたか、そしてそれが社会に混迷と不幸をもたらしたか、を未来のために分析する書。
    カウンターカルチャーとはルールや文化の変革なのではなく、ルールと文化の破壊そのものが目的である。破壊されることにより人々の意識が変わり、抑圧と戦争と貧困が解消される革命とされた。そして時代が進み、カウンターカルチャーは様々な呼び名に変化していった。エコ・スローフード・ローカリズム・ネット革命・ミニマル生活、その中心的思想は一貫して変わらない。大衆社会批判だ。
    しかし実は、カウンターカルチャーそのものが混乱と不幸を作り出す元凶だとしたら?というのが最大の指摘だ。
    結論は、文化運動や地域コミュニティ、あるいは地方自治体を中心とした変革活動ではなく、国家単位での法整備というもの(あるいは国家の価値)を少しでも復権させること。それと市場原理をむやみにに悪者扱いしないこと。というもの。国家のみが唯一世界的な合意、グローバル大企業への規制などを運用できるからだ。しかしカウンターカルチャーの半世紀以上の流行は、ある意味言われなき「国家への不信」「市場経済への反対」を抱かせ、これを困難にしている。これを理解し、さらに実行するのは、カウンターカルチャーの言説のように「解決策はこれだ!」とならない不断の思考と努力を必要とする大切な行動である。
    20年近く前に書かれたものだが、古さを感じない。むしろ、2024年の今こそ本書の内容に共感する一定数の支持が得られるのでは?と感じる(例えばYouTuberの一連の事件は、もはや一部の応援者を覗き、改革者ではなく愚かな文化依存者として多くの人に思われている)。

    カウンターカルチャーの習性は左派の政治に不利に働いた(著者は左派を応援している)552

    「競争的消費」とはカウンターカルチャーが育てた悪しき習慣。妬みを起こさせるような差異の探求や、群衆のなかで目立つことが「自分は負け犬ではない」と証明する方便に駆り立てられる消費。そしてこれは終わりなき無駄なゼロサムゲームである546

    オーガニック食材を買うことは倫理的行動ではない。オーガニックを選ぶ行為は環境や倫理の問題ではなく、「他者との差異を求めたい」と「良いことをした(根拠なし)」だ。ようするに意識高いイッピーの個人的快楽に過ぎない。最大の問題点は無駄が多いことだ。伝統農業や最新テクノロジーを使った農業は当然市場原理に基づいており、自然状態から最も合理的でエネルギーがいらない過程を取り入れている(言ってみれば真のエコ)。ここに否倫理的問題が起こる場合もあるが、これこそ法体系で規制していくべきである。
    地産地消も問題がある。例えば港近くに住んでいれば、200キロ離れた場所からトラックで食材を運ぶより、地球の裏側から船で食材を輸送するほうが環境負荷が軽い。カルフォルニアの人たちがそこで育てたアボカドと米を食べるよりも、輸入したほうが環境負荷が低い。なぜならカルフォルニアは水資源が枯渇した場所だから543

    スローフードブームはカナダで混乱をもたらした。年間4~5ヵ月しか農作業を収穫できないカナダでは、地域の食材が手に入らなく、真面目に実行すると保存肉かオートミールを毎食食べるしかない。そこでスローフード運動をしたい人たち(金持ちで飽食家で意識高い)が通う高級な料理学校はとんでもないアイディアに飛びついた。学校ごと南フランスへ移設した。講師たちは今や自転車で市場に出かけ生鮮食品を買っている498

    インターネット創成期には「誰もが自由に自分の心情を表現できる。沈黙や体制への順応を強制される恐れはない。理想的な世界」とされた。しかし、他の人に強制し、嫌がらせし、沈黙を強いるために表現の自由を利用するものが現れるとは考えてなかった。悪い話は良い話を駆逐する491

    「競争的転地」著者の造語。旅の魅力は知られていない土地や文化を自ら発見すること。それが観光力を生み、多くの人々に知れ渡り、観光地化すると、初期の発見者は不満を持ち、その土地に見切りをつけ新たな目的地を探すこと。子どもや老人やOLが挑むエベレストはもはや価値が無いと。
    こういうエキゾチズムに夢中なカウンターカルチャー旅行者は地域を理解したい訳ではなく、真の目的地は「本物らしさ」「自分の純粋さを証明したい」だ。なので彼らはしばしば地元民の存在そのものが邪魔になる(地元民は往々にして商売的だし、現代社会人の負の部分が同じようにある。これに幻滅したくないから)。地元民との接触を避け、反対に自分同様の旅をしている仲間を求める。これがユースホステルが人気の理由であり、団体旅行が上手くいかない理由(個人個人その求める基準が違いすぎる)だ。これらの行動は結局地域を搾取し、負のグローバル化を招く。
    唯一搾取などの問題を起こさない旅は、出張だ。これはお互いに利益を得ようとする純粋な行為だし、地域はそのために出張者を招くのだから。442

    ネイティブアメリカンが地球や自然を大切にせよ、それらと共に生きよ、という所謂「母なる地球」概念は、カウンターカルチャーが近年作った言葉。70年代はじめにインディアンたちに受け入れられた。ネイティブアメリカン同士は殺戮や奴隷を行っていた435

    多様性を保つには誰かが貧乏くじを引く408

    「健康で自然で人道的」として高額で取引される「放し飼い鶏」。実状の鶏は、庭が放たれていてもそこに出て歩き回ることはほとんどなく、自らの意思で小屋の中で集団で固まっている。彼らはのびのびと歩き回るのを好まない389

    カウンターカルチャーの影響を受けやすい学生。それが如実に現れるのは生徒の服装。最新のファッションを手に入れるため、また周囲に馬鹿にされない服装をするため、学生はアルバイトに大きな時間を割き、学業その他の時間は大幅に削られた。これは軍拡競争のようだ。また高額なファッション(最新トレンドは値段が高い)が手に入れらる如何によって格差が生じ、学生ヒエラルキー醸成の中心的原因になった。このことで学生生活は混乱し、校内治安は悪化した。
    この解消のため制服制度を導入する学校が現れた。その成果は数値に現れ、暴力、性的非行、破壊活動、武器不法所持が改善した。
    「脱制服」は学生の個性や自由思想、他者の尊重を生み出すことはなく、むしろ群れ意識を育んだ。実際には制服でも着方や、改造、アクセサリーなどで個性を出そうとするが、これは核拡散防止条約のようなものだ304

    マイケル・ムーアは『ボウリングフォーコロンバイン』で結局銃規制に反対した。理由は銃を規制したところでアメリカの病的な心理を根本的に直せないから(理由として、隣のカナダにも銃が沢山あるのに銃犯罪が極端に少ないこと。だがこれはカナダにしっかりした銃規制法があるから。ムーアはわかっていてこのことに言及しない)。ここにカウンターカルチャーたちのイビツな心理が見て取れる。文化の革命的な変化を強く求めるばかり、「それ以下のものは拒絶する」。これこそ極端な反逆である248

    社会の上位層と下位層は互いの趣味が我慢ならない。特に上位層は下位の趣味(映画・スポーツ・テレビ・音感)を軽視している。美学上の不寛容は恐るべき暴力性で、階級間を隔てる最も越えがたい障壁。上位があえて下位の趣味を消費する場合、「あくまでふざけてる」という態度でおこなう。これが「キッチュ」である222

    カウンターカルチャーは消費主義を批判するポジションを取る。しかしこの半世紀、カウンターカルチャーは流行するのに、それに反して消費主義はどんどん高まっている。消費主義が強まるからこそカウンターカルチャーも強まるからでも、カウンターカルチャーの想像を越えて、国家権力の力が強大だからでもない。カウンターカルチャーそのものが消費主義の協力な要因だからだ。184

    例えばパンクファッションの我が物顔がショッピングモールにいることは、70年代であれば異常な事として周りが反応した。しかし現在モールにパンクファッションがいても強い反応は起こらない。これは社会(政府)がこのカウンターカルチャーを取り込んで搾取するシステムを考え実行しているのではなく、「パンクが店内で放火して銃を乱射する」行為をするほどの奴らではないと時間を追って理解したから。単純な順応のメカニズムである180

    現代では信じられないが60年代は、マリファナとLSDの普及によってすべての社会問題は解決されると信じられていた。戦争と貧困をなくし「平和と愛、そして理解」の社会が作れると127

    60年代ヒッピーたちは「ドレスコード」という文化を倒すために髪を伸ばし、髭を蓄え、ネクタイを拒否し、ミニスカートを履き、化粧品を落とした。すると資本主義は売上げを高めるための「流行」としてすぐにこのファッションを売り出した。セックス・ピストルズが解散する前に、すでにロンドンでは服に刺す用の安全ピンが販売されていた87

    「アーティストは主流社会と対立するスタンスをとらなければならない」という考えは18世紀に始まった。その最たるものはプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』だ60

  • NHKにジョセフ・ヒースさんが出演してて、トークが面白かったので著書を購入。かなり難解だが、1950年からの世相、政治、市民活動を俯瞰し、本質的なところを理解するために勉強になりました。ヒッピーやパンクなど、反体制・反資本主義を唱えて活動してきた人たちが、実は欲望を煽って消費を活性化しているという見方。差異のない平等の世界というのは、実は全体主義・監視主義の隣にいること。自然主義活動家の多様性を許容しない態度、など。現代社会などという大きな括りではなく、身近にも感じられる違和感は、世界的潮流・底流としても存在しているのだとみょうに納得。これからもそういう違和感を大事にしていこうと思いました。

  • 読書会の課題本。副題になっている”「反体制」はカネになる”が、むしろ原題に近い。個人的に抱いてきたフェミニズムやオーガニックやスローフードなどへの違和感や嫌悪感を見事に言語化してくれた感じであった。オーガニック批判はネットで「炎上」したらしく、それについての補足説明となる「後記」も必読である。

  • 個人的な思いを語らせて欲しい。私が2002年に入学した大学ではいわば反体制・カウンターカルチャーという文化が未だ賛辞されるものとして残っていた。もちろんそれは極めて局所的な残滓というものに過ぎないのだが、私自身はそうした活動に対して極めて否定的、というよりも強い嫌悪を持っていた(ヒッピー風の輩がよく着ているサイケデリック風のTシャツ、あれは未だに吐き気がする)。

    しかしながら、なぜ自身がここまで強い嫌悪を持つのかは言語化できておらず、そのまま卒業すると共にそうした人間と接することもなく今に至ったわけだが、本書はその嫌悪感の理由をクリアに示してくれ、笑いながら膝を打って読み進めた。

    本書はトロント大学の哲学・公共哲学の教授である著者が2004年に出版した論考である。ページ数は相当あるものの、そのメッセージは以下のように極めてシンプルである。

    ”反体制・カウンターカルチャーが実効力を持たないのはなぜか?それは反体制・カウンターカルチャーがカネになり、彼らが忌み嫌う資本主義を単に太らせるだけだから”

    本書ではその証拠を、様々な反体制・カウンターカルチャーの営みや言説と共に示してくれる。

    ここまで書いて自分でも嫌な人間だという気がしなくもないが、自分が忌み嫌うもの、その理由をクリアに与えてくれる言説というのは一種の知的な快楽を与えてくれるのだということを実感しながら、大笑いと共に読了した。

  • 反逆はつまり新たなマーケットを創出する。
    なるほどなぁ。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/768055

  • 反逆とは差異化であり、それは資本主義の原動力であるがゆえに、反逆(反○○)は金になる
    膝を打った

  • 2022-02-01
    前半2/3は面白かった。目新しいとは思わなかったが、納得の内容。
    終盤はどうもよく分からない。様々な活動の欠点を指摘してるけど、ではどうしろと言うのか?
    全ての問題を一気に解決する魔法の方法はない、と言っているのかなあ?

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著者プロフィール

1967年カナダ生まれ。トロント大学教授(哲学・公共政策・ガバナンス)。著書に『ルールに従う』、『資本主義が嫌いな人のための経済学』などが、共著書に『反逆の神話』(すべてNTT出版)などがある。

「2014年 『啓蒙思想2.0 』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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