五感喪失

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (245ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163558202

作品紹介・あらすじ

利便性や快適さを徹底的に追求してきた私たちの社会は、自分でさえ気付かないうちに、感覚に鋭く働きかけたり心地よさを感じながら暮らしていく経験を、排除してしまった。「情報」や「価値」や「流行」など、いわば社会が生産した基準を自分の意識の中心に取り込み、「五感/感覚」を使った暮らし方とは別な次元で日々の生活を営み始めた。人々は感覚を十分に使って生きることを、忘れ始めた。衝撃のレポート。

感想・レビュー・書評

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  • 大学図書館で初めて借りて読んだ本。懐かしレビュー。

  • そもそもニオイは、人間の脳の中でも辺縁系という本能的な部分に直接働きかけるものです、と高田教授は続けた。「だから、理性の『判断』の前に『情動』」が動く。つまり、何のニオイかと判断する前にニオイを感じているのです。動物が生殖行為に入るきっかけは、本来はこの情動による。しかし、今の日本の社会では人間関係がものすごく理性に偏っていませんか?たとえば結婚相手にしても、まず最初に経済力や学歴という『理性』によって判断するでしょう?『理性』に偏った社会は、動物としての人間にとっては不幸なのかもしれません」

    現代の衛生的な生活の中で、たとえば新聞という「公」の場で排泄物を示す言葉などは、できるだけ引き合いに出さないような習慣が、私たちの中にしっかりと根付いている。触れてはならないものとして扱われるようになると、それは表舞台からきれいに姿を消す。しかし、それでも現実的には、日常生活の中に排泄物が存在する。そのため、以前にもまして排泄物を示す言葉に敏感になり、拒絶感は強まる。やがてそれは裏の場面で有効に働くようになる。たとえば「クサイ」という言葉が小・中学生の決定的ないじめ文句として氾濫する、といったように・・・・・。

    傍観者でいるつもりでも、身体の感覚が刺激に反応し、知らぬ間に「当事者/体験者」にさせられてしまう。それがこのサロンの特色であり、隠された「ねらい」なのかもしれないと、ふと私は想像した。

    「本来、人間というものはニオイや音、視覚や触覚など五感によって、情報を収集する存在なのです。たとえば赤ちゃんは五感への刺激を受け取って初めて、言語中枢を作りあげることができる。つまり、五感は人間の活動の大前提にあり、五感の刺激自体が、生き続けていく上で不可欠な要素。けれども今の社会は、言語を中心とした情報ばかりを重視して、身体での経験を軽視する傾向がある。そこから生物としての歪みが生じ、その結果として、逆に過度に感覚を刺激してバランスをとろうとする『感覚の暴走』のような現象が起こっているのではないでしょうか」

    「・・・・人間は感覚だけでは生きていけないって、よく親に言われました。自分でもそんなもんかなぁって、植物学者になる夢も諦めてしまって・・・。今の私にとってボディピアスは、幼い頃に戻る『切り替え装置』みたいなものかもしれない。いわば、身体に痛い刺激を与えてリラックスする『逆リラックス』というか、ヒーリング的な要素を持っているみたいです」

    「舌の上には味蕾細胞というものが3000ほどあって、ちょうど小さなカギ穴が開いている状態です。この穴に5つの味―甘み、塩味、酸味、苦味、うま味がキャッチされ、味を感じとる。味蕾細胞はつねに新しく生まれかわるのですが、実は再生を促進するのが、亜鉛なんですよ。つまり、亜鉛が欠乏すると、味蕾細胞がきちんと再生されず、味覚異常へとつながっていくのです」

    「ロウファイ」というコンセプトを一言で説明すると?「自分の求める音を、純粋に手に入れようとする姿勢かな」それは音質や音楽のジャンルというより、むしろ「音作りの姿勢」を指し示しているらしい。「たとえばがらすの割れる音が欲しい場合。これまでなら既存のサンプリングCDの中からすでに出来上がった音を取り出して、使っていたわけです。けれど、それじゃどこか物足りない。ならば実際にスタジオの中で、ガラスを割ってみればいいじゃないか、と。ロウファイとは、直接音楽体験による音作りへの欲求でもあるんです」音楽業界には「FM波に乗せられる音は良い音、そうでないのは悪い音」といった常識があるが、そうした束縛からも自由になろう、という態度なのらしい。

    「自分で音が出せた時の驚きと喜び、誰かに押しつけられた価値観でなくて、自分自身の耳で聴き、そしてやってみること」。これぞ小泉文夫の指摘していた、原点回帰のムーヴメントかもしれない。
    人間の耳に聴こえる周波数の上限は20キロヘルツ。それ以上の高周波は音として聴こえないので、CD製作現場ではカットしてきた。しかし、直接「音」として聞こえないものが、人間に大きな快楽をもたらすという科学的事実も解明されつつある。

    そもそも、人々の暮らしと音とは密接に関係し、生活と聴覚とはつながりあっていた。そばを食べればツルツルッと音がし、夏の夕暮れには風鈴がチリンチリンと鳴り、豆腐を買う時にはラッパの音がセットになっていた、というように。暮らしと密接に関係していた音は、騒音ではなく、暮らしを円滑に進め、あるいは彩る、大切な要素だった。まさに「サウンド」ではなく「サウンドスケープ」だったのだ。

    近代化をひた走った百数十年ほどの間に、私たちの社会は「芸術的な音」、「高品質な音」、「意味を伝達するための音」のみを追求し、それ以外を「雑音」として切り捨ててきた。その結果、生活の中から「耳の快楽」を喪失してしまったのではないか。

    「ひとであるより肉体であるようつとめること」

    この奇妙なテーマパーク、「養老天命反転地」はニューヨーク在住の芸術家・荒川修作氏と詩人のマドリン・ギンズ氏によって設計され、95年10月に開園した岐阜県営の公共施設だ。

    「私は『体を割る』と表現するのですが、全身の筋肉が一つの動きに奉仕するのではなくて、それぞれがバラバラに、多方向、異速度、同時に動く状態が理想です。昔の武術の達人はそれができたからこそ、今から考えれば不可能と思えるような高度な技も可能になったのだと思います」

    「かわいらしさ」を競い、「流行」を追い、渋谷というハレの舞台に上がる準備をする彼女たち。舞台の上で見られても恥ずかしくない自分へと仕上げていく過程、変身のプロセスを、そっくり車内の乗客たちに披露してくれたのだ。彼女たちは明らかに、他者の視線を意識して、自分を飾っている。「見られること」を意識しながら化粧し、着替える。しかしそれと同時に、電車の乗客によって「見られること」については、まったく意識していない。この不思議なねじれは何なのだろう?

    カメラの前で肉体がオブジェ=物体化する。写真に映っているのはたしかに「私」だが、それは切り取られた「破片/被写体」。等身大の生々しい自分とは、どこか切り離された対象物になる。その上、有名なカメラマンにヌード撮影してもらうことは、レンズを通して全身を肯定することにほかならない。有名カメラマンとは「美しい映像」を作る人なのだから・・・・。きっと彼女が言った「精神的な整形」とは、こうした意識の変化だろう。

    イリイチによれば、人は「見る」ことで相手がどこに帰属し、どういう生活をしているか、その人にしかない「固有性/特徴」を瞬時に識別していたのだという。見ることは、「見分ける」ための行為であり、現代のように単純化された美醜の評価や価値判断を下す役割とは、必ずしも結びついていなかった。まずはしっかりと「違い」を感じ取る視線があった。そして「見分ける」行為とセットになって、各民族が風土や生活習慣に合わせて身に付けた独特な衣装があり、固有の動作が存在した。どの国でも同じ物を着て、同じ物を食べるような均質な生活によって固有性を失った現代社会には、そもそも成立するはずもない、豊かな感覚の経験だったのだ。

    他者の視線がなければ自分も存在しえない―そんな病に罹っている。そして今や私たちは、他者の視線に包囲されているだけではない。自分の中に自分自身をチェックする視線をしっかりと埋め込み、「美」とされる基準に自分が合致しているか、足りないところはないか、と絶えず検査し修正し、いわば「自己を規律化」している。そうしたチェックに熱心になればなるほど、かつてのように微細な固有性を見分ける豊かで複雑な視覚は、私たちの生活から失われていく。

    新聞や雑誌、テレビに取り囲まれている私たちが「知っている」と感じている世界とは、その多くが文字やテレビ映像、写真といった「視覚」による情報から構成されているということ。それは、自分の五感を通じて物事に直接接近したり反発したりする、実感的体感的な世界とは一致しない、非常に人的なイメージの世界だということを。

    私たちの暮らす近代社会は、「情報」を中心にして生産されたイメージによって、支えられている。そのイメージによって作られた「意識」によって、私たちは物事を判断している。自分自身の五感を使って物事を感じ取る豊かな経験を、喪失しつつあることにまったく気付かないとしたら、そして自らの下した判断を疑わないでいるのなら、この先私たちは大変な落とし穴にはまっていくかもしれない。

    近世までの日本では、口語りの伝統が根強くあり、文字は音声までを復元する道具だった。そもそも日本人は、文字から意味内容そのもののほかに、書き手の動作や個性、声、身体感覚など複数のものを受け取っていた。近代になるまで、身体と文字と感覚とは、幸福な形でしっかり結びついていたのだ。

    「ゴチック体」が教科書の中で頻繁に使われるという最近の事態は、明治以来120年ほどの歳月をかけて、今まさに日本の文字が「記号」として完成しつつあることを示しているのかもしれない。同時にこの出来事は、私たちの文化が大切にしてきた手触りや質感を忘れ去るという「あやうさ」を映し出してはいないだろうか?

    「現在の状況に関して示唆的だと思うのは、たとえば音楽において、電子的な複製の精度があがればあがるほど、逆に人がライブに行くようになるということなんですね・・・同じ一回性の体験を多くの人たちと共有するということ自体のもつ意味が、別のかたちで際立ってきたりする。そのようなかたちで、一方で密室の中でコンピュータに向かい、あるいはCDに向かって、知的に曲を理解していくことが、他方でライブの経験によって、かつてエモーショナルと呼ばれていたような深みをさらに深めることにもなる」(浅田彰『マルチメディア社会と変容する文化』より)

    「既存のテレビやラジオは、その成り立ちから、どうしても選別された情報しか流せない。視聴者はただ情報を受け取るのみ。メディアが本来備えているべき『インター=相互のやりとり』の役割が、やりづらくなっている。しかし、インターネットは、送り手と受け手が直接結ばれる。誰もが発信者、受信者になりうる。かつてテレビやラジオの持っていた力強い直接性、相互のやりとりの可能性を、インターネットに見ることができる。奪われたものは取り返さなければならない。そんなスピリットで新たなメディアに関わりたいと思っています」

    「音楽と人間の最も幸福な関係とは、誰かの家のリビングルームで演奏された生の音を共有する『親密さ』にあると僕は思います。インターネットライブの観客たちは、通常のライブのように一ヵ所に大人数が集まるのではなく、一人一人コンピュータ画面に向き合っている。いわばリビングルームの客なんです。ですから、今回のライブにふさわしい音とは、演奏者も聴く者も最も親密さを感じられる手法、『アンプラグド』だと考えました」

    私は多くの身体加工マニアに会った。ボディピアスのマニア、下半身に入れ墨を入れた若者、額にテフロンの異物を埋め込む身体加工手術をした青年。「自分の身体で、自分を確かめる充実感がある」「昔の自分のクリアな感覚をとりもどすことができる」といった感想を、何度も耳にした。身体の感覚を試し、研ぎ澄まし、過去の自分の繊細な感覚を甦らせること。そうすることでやっと「自分らしさ」、「自分の固有性」を確認できるのだー彼らはそう語っているように思えた。

    自らの死が確実に近づいていることを知っていたショーンは「今・ここ」を大切にしながら生きていた。病の進行を「痛み」という感覚の変化として、受け入れようとしていた。同時に彼の「五感/感覚」をめぐる豊かな感受性は、「痛み」とはまた別の、「心地よさ」というものに対しても繊細に反応した。

    ほんの百数十年前、東京がまだ江戸と呼ばれていた時代。その頃の人々の暮らしぶりを「感覚」という視点から眺めてみると、驚くほど多彩な発見がある。人々はのんびりと、その日その日の変化を身体に感じながら暮らしていた。平均労働時間は職人ならたったの四時間半、多くの人がぶらぶらできる遊びの時間を持っていた、という。冬なら晴れた日、富士山がよく見える場所へ足を運び、雄大な姿を眺めては褒め讃え、春ともなれば隅田川に咲く桜を愛でた。潮干狩りで潮の香を楽しみ、風鈴の音に夏の夕べの涼をとり、月の色と色づいたもみじに秋を感じて楽しんだ。人々の暮らしは、五感でさまざまなものを感じ取る生活環境と共存していた。音、手触り、味、匂い、色とともに生きていた。感性に直接働きかける体験=感覚を、ある時は厳しく、ある時は心地よく感じていた。外界からの直接的な感覚への刺激に、身を委ねて生きていた。

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著者プロフィール

主な著書に
ルポ美容整形(三一書房)
それじゃあグッドバイ〜平田豊最後のメッセージ〜(白夜書房)
決定版エステ読本(情報センター出版局)
ショーン〜横たわるエイズ・アクティビスト〜(小学館)
第一回 国際ノンフィクション大賞優秀賞受賞作品
エイズを100倍楽しく生きる〜大貫武と12人の共同作業〜(径書房)
印度ミッドナイト・トリッパー〜TOKYO発五感の亜大陸行〜(情報センター出版局)
死の距離〜「病/エイズ」をめぐる経験〜(エー・ジー出版)
トレンドのゆくえ〜コラムノンフィクション45〜(洋泉社)
時代をノックする音〜佐野元春が疾走した時代〜(毎日新聞社
五感喪失」(文藝春秋)

「1995年 『エイズを100倍楽しく生きる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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