- Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
- / ISBN・EAN: 9784163806808
作品紹介・あらすじ
二〇〇五年二月に舌癌の放射線治療を受けてから一年後、よもやの膵臓癌告知。全摘手術のあと、夫は「いい死に方はないかな」とつぶやくようになった。退院後は夫婦水入らずの平穏な日々が訪れるも、癌は転移し、夫は自らの死が近づいていることを強く意識する。一方で締め切りを抱え満足に看病ができない妻は、小説を書く女なんて最低だ、と自分を責める。そしてある晩自宅のベッドで、夫は突然思いもよらない行動を起こす-一年半にわたる吉村氏の闘病と死を、妻と作家両方の目から見つめ、全身全霊をこめて純文学に昇華させた衝撃作。
感想・レビュー・書評
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故吉村昭夫人、津島節子氏の、夫の介護記。
そして、作家として、妻としての立場の、悔悟記(?このような言葉があるとすれば)。
仲の良い、とてもよい夫婦だと思った。
妻も夫も、お互いを思いやりながら、しかし、確固とした我を維持して生活していく。
双方とも、互いに敬意があるのが、文面からにじみ出てくる。
最期の時の、どうにもならない、壮絶な心が、淡々とした文面から伝わってきた。
本書を書くという大事をやってのける、それが、作家としての津島節子の、夫、吉村昭への愛情だとおもった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
吉村昭さんとの最期の日々を、妻の津村節子さんが小説にした。
舌癌も壮絶だが、膵臓癌の治療は苦しそう。
それにしても、昭和の人だからか、津村さんは自分に厳しすぎるのではないか。伴侶を失ったから仕方ないかもしれないが、せいいっぱい看病したと思う。
夫妻の息子さんは隣に、娘さんも近くにいてそれぞれの伴侶も協力的でいいと思った。 -
夫・吉村昭氏の舌癌発症から最後を看取るまでの私小説。
静かに死を待つのではなく、点滴の管を引きちぎり、
自らの手で最後を締め括ろうとした夫の激しさに圧倒され、
動転しながらも夫の意思を尊重した妻。
彼女が臨終のその時に叫んだ、心からの言葉。
適当な言い方ではないかもしれないが、あの世へ旅立つ夫への餞の言葉のように思った。
そこには最後まで作家であり続けたの夫への、尊敬と深い愛があった。
努めて感情を抑え、淡々とした筆致が胸を打つ。
この作品を書くことは悲しみを一から辿り直すことであり、
相当な心痛を伴う作業だっただろう。
作家というのはなんと因果な商売なのかと思う。 -
文壇に知られた作家夫婦の、夫の闘病と死を小説化した物です。
お亡くなりになった際、もう死ぬからと宣言して自分で管を引き抜いたというエピソードを新聞記事で読んだときにはただただビックリし。
しばらくしてから妻がそれを小説として出すということにもビックリし。
二人とも豪胆すぎる(^_^;)
でも、はしばしに、お互いに想いあっていたのだなぁ、書かないと納められなかったんだなぁとしみじみしました。
どこまでを脚色しているかわかりませんが、ほぼそのままなのではないかと思います。
はっきり実名書いてあるお医者さんたちや、ぼかして「あの人だな」と思わせる作家たち。
もしかしたら、主人公を架空の人名にしてあるので、交流のある作家もぼかしてあるのかな?
実名のお医者さんの中には「知ってる!」という方も出てきてなんかどきどきしました。
背景を全く知らずに読むと、わからないことにいらいらする方が勝ってしまうかもしれないですね。
装幀 / 関口 聖司
カバー画 / 円山応挙「老梅図」(京都・東本願寺蔵) -
井の頭公園に隣接した家の夫の書斎の窓の前には紅梅の木が植えてあったそうです。その書斎が最後は病室に変わり、作家の妻・育子が舌癌の作家の夫を看病・介護した1年半(2005.2~2006.7)を描いた小説です。津村節子 著「紅梅」、2011.7発行です。この作品は、小説なのか、伝記なのか、回想記なのか、はたまたノンフィクションなのか・・・。妻の夫への愛情と哀惜がひしひしと伝わってまいります。
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作家である妻が作家である夫を看取る。
舌癌治療中に膵臓癌も発見され、闘病の果てに自宅療養中に自死に近い死を遂げる、というと壮絶な闘病・看病の記録となりそうなのだが、意外なほどに淡々とした筆致である。放射線治療の苦しさや手術後の体力の衰えなど、夫の闘病そのものは激しいものであり、そしてまた見まもる妻の心痛も察せられる描写なのだが、妻を「育子」と第三者的に置いたところで、客観性が加わったというところだろうか。
さっぱりしてちゃきちゃきした性格であり、執筆や選考会と忙しい妻。
用意周到で綿密な取材をし、大変社交的というわけではないが、社会的な役割もきちんとこなす夫。
「物書きが家に二人もいるなんて」「物を書く女なんて最低だ」と文中に何度も出てくるが、いいご夫婦だったのだと思う。夫が語る「この者は五十年間、同じ家に住みついておりまして」とか「辛抱強くて、女房とずっと一緒に暮らしています」なんてセリフは実に楽しそうじゃないか。「自死」前後の描写は淡々としているだけに余計悲しみが感じられ、胸に迫る。
*津村節子はずっと以前に、確か『智恵子飛ぶ』を読んだきり。 -
配置場所:摂枚普通図書
請求記号:913.6||T
資料ID:95120411
★鑑賞ポイント★
広げてみると裏表紙には取っ手が……こちらは京都本願寺蔵、円山応挙「老梅図」です。 -
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思い出して泣きました、
70過ぎて80歳近くてもこんなに惜しまれて、こんなに奥さんに気遣われて
私はなんて酷い妻なんでしょう
涙が止まりません。 -
小説として書き上げたことが、著者にとってはきっと必要なことだったのだろう。
そこに彼女の業を感じつつ、小説として描くことで、現実に向き合っていったであろうことも想像できて、その手段をもっていることを羨ましく思えた。
ひたひたと忍び寄る死の影を感じながら、
それでも苦しみに耐え、そして毎日の生活を暮らす。
闘病が日常になるというのはこういうものなのか。
淡々と語られる静謐な世界に、時々、苦しみが溢れる。
そこが、どれほどの痛みが存在しているのかを想像させられ、鋭く突き刺さる。
しかし、これだけの闘病に耐えることに意味はあるのか。
長らえた時間に、生み出された物も沢山ある。
その一方で、そこに一種の徒労も感じずにはいられない。
医学の進歩は、良くも悪くも・・・。