「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (438ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163901800

作品紹介・あらすじ

本が読めない! ぼくは必死に「読める」ものを探す……「あの日」以来、なにをどう読んでいいのか、まるでわからなくなってしまった…「今」を駆け抜けながら文学の存在意義を考え続ける。

感想・レビュー・書評

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  • 『ニッポンの小説3』と称しているこのエッセイと『ニッポンの小説2』との間は、3.11が含まれる。「日本人の記憶に刻み付けられた「3.11」という「あの日」は、その破壊の大きさから、もうひ一つの「あの日」を思い出させることになった。「8.15」である」と語る。「「あの戦争」は終わった。けれど、「戦争」というものは、終わることのないものなのかもしれない。ぼくたちの前には、新しい、ぼくたちの「戦争」がある。そのことを、作家たちは、誰よりもよく知っているように、ぼくには思えた」ー これが、このエッセイ集のタイトルの元になっている。

    まず高橋さんから、3.11以降「読めなくなった」という告白から入る。その後、しばらくは、高橋さんの「読めないビョーキ」設定で進んでいく。もちろんはある程度は設定なのだけれども、「読む」ためには既存の規範というものに沿う必要があり、そういった規範についてそのまま受け取れなくなった、気になって仕方ない状況になって、読めなくなったということがあっての「設定」なのだと思う。高橋さんは、読めない「ビョーキ」と表記するが、高橋さんは、若いころにも同じように読めなくなったということを体験している。

    この本の元は評論連載だが、次回にと約束したことがさっぱりと実現されず、先延ばしにしながら、実現されない。「読めない」設定も途中でなくなる。自由である。

    島崎藤村の『破戒』を読もうとするが、『破戒』が第一章から始まり、それが小説の約束ごとであることに触れ、「小説の約束ごとを安易に守るような人は、他の約束ごとも安易に守っているんじゃないかって疑うからです」(P.47)という感じで進まない。

    「ぼくは、長い間漠然と思ってきた。文学や小説というものはそれに触れるとそれまで信じてきた世界がぶっ壊れるようなものではないか」(P.43) ー しかし、どうもそうではない世界になった。小説がかつて持っていた位置づけを失っていることはもはや周知ではある。それは時代でもある。それでもなお小説を信じることができるのかというのが現代的な問いでもある。

    高橋さんは、時代というものを意識している。歴史と言ってもいいかもしれない。それは一回きりのもので、交換できないものだ。古市憲寿『僕たちの前途』など、社会学者の書くものが「小説」に見える。『何者』という小説は「シューカツ」小説だという。そういえば「エントリーシート」も「SNS」も小説だという。

    「近代小説とは、人びとに「『何者』かになれ」と命ずる文学形式であることを、それが属する社会によって規定されたものである」(P.200)

    ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』で近代社会の成立と近代小説の成立が不可分だと指摘した。近代小説は、その小説が書かれた時代と緊密に結び付いている。逆に言うと、時代に結び付いたものであれば、それは何でも小説になるとも言える。もしかしたら「何者」にならないといけないという社会の要請を受け、そして今その自分の中には何もないことに気が付き始めているのかもしれない。そして、それでいいのだ、それが当たり前であるということを受け入れてくれるものをどこかで探しているのかもしれない。

    小説は何かという問題において、石井光太の『遺体』がノンフィクションではなく小説のようだと批判されている。同じころに『泡沫候補』を観て感銘を受ける。そこに濃密な物語を見る。そうすると小説とノンフィクションの違いとは何だろうか。

    橋下さんの慰安婦に対する発言から戦中に語られた生の言葉を思い出す。高橋さんが思い起こすのは「戦後文学」であったり、戦争を語る人たちの声だ。小さい高橋さんにも伝わるように伝えられた「ほんとうの戦争の話」だ。

    宮崎駿の『風立ちぬ』の堀越二郎をして葛藤をせずただ受け入れるさまを指摘して、「葛藤を表現する術をもたない人たちを、「大衆」と呼ぶのではないか」(P.250)と言う。

    高橋さんは『なんとなく、クリスタル』を高く評価している。「高く」どころではなく、何となれば唯一の小説を選ぶのであれば、『なんとなく、クリスタル』を選ぶというのである。意外。本文よりも長い註で知られているが、同じく註が多い『資本論』が経済学批判の書であったように、『なんとなく、クリスタル』は、文学批判の書であったと言う。そして自分も驚いたのは、「人口問題審議会『出生力動向に関する特別委員会報告』」が最後の余白に付けられていたという。 それは1980年にこの小説が書かれた後の日本で出生率の減少が大きな問題になることを予測していた。そこで『33年後のなんとなく、クリスタル』が書かれたことに小説ならではの歓びを感じたという。

    そして、小島信夫を相変わらず絶賛する高橋さんを読んで、もしかしたら小島信夫のようになろうとしているのだろうかと思った。読者に対して親切にならなくてもいいんだとか。

    「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人の冒頭陳述や神戸の酒鬼薔薇の「犯行声明」について、それを文学ということを躊躇いながらも、その文章に心を動かされたことを隠さない。ある種の社会への眼差し。かつて高橋さんもそうであった。肉体労働をし、女衒もした。大切なものは世界に奪われているという感覚を持つということ。
    高橋さんが二十代のことについて語るようになってきたということは、自らを振り返り何かを残さないといけないという思いを持ち始めたからのかもしれないとふと思った。

    そして最後(正確には最後から二番目)に天皇、皇后陛下に関するエッセイが置かれる。以前、髙橋さんは美智子妃への敬意を隠さなかった。高橋さんは天皇への言及は常にタブーが含まれていたという。常に政治的にならざるを得なかったと。アメリカとの関係、「男性性」と「女性性」の問題。高橋さんの考えすぎなのではないかと思うところもあるが、根深く残る問題でもある。平成が終わろうとする中で、このエッセイ集に置かれるものとしてふさわしいものであるような気がした。

    どこか統一感がないようで、それでいてひとつの筋が通っている。でも、それが何かを今の自分でははっきりと言うことはできない。それでも、高橋さんのエッセイは何かを考えるということとはどういうことかを思い出させてくれる。そして、髙橋さんはもうその先に行っているような気がするのだ。

  • 読めない、最近感じることが多くなった。
    有名な作家ですら、読めないものがあるなら、気にすることもないか?
    自由に読み語ることができるのは素晴らしい、反面、読み取る能力がないと、とんでもない。コミニュケーションの取れない言語はない。

  • とても刺激的な評論でした。一番の収穫は第10章「天才でごめんなさい」で記された現代美術家・会田誠氏を知ったことです。さっそくネットで氏の作品を観たのですが、ぜひ実物を鑑賞したいと思いました。それと第15章「ほんとうの戦争の話をしよう」。いまの為政者に読んでもらいたい1文がここにあります。『けれども、彼らは知っていた。「戦争」を「資料」によって判断することはできないことを。(中略)それは、「ほんとうの戦争の話」が語り得ぬものだからだ。語る言葉が生まれる瞬間から「ほんとうの戦争の話」が壊れてゆくからだ。』。

  • 平田オリザーロボットに人間の演技の代用。演技に重要なのは、声の大きさ、間、トーン。演劇でロボットを人間にみせる魔法を使うもの。小説も同じ。

    あのこと、が起きて本が読めなくなる。だからなに? となってしまう。
    これは自分にもあった。回復するまでは、ただ時間が過ぎるのを待つだけだったが、高橋源一郎は違う。その失調にある何かをつかまえにいく。未だ誰も言語化したことのないようなカオスを

  • ダーガーという作家(兼挿絵画家)を知ることができただけで充分。
    いつもの高橋源一郎。
    最初の読めないビョーキはどこで治ったのだろうか。

  • 序盤ははっきり言って読みながらずっとイライラしっぱなしで、読むのをやめようかと何度か思った。好きなシリーズだったのに…。なんというか、震災後・出産後の著者の言説はあまりにセンシティブすぎるというか、まるでぶりっこしてるみたいに感じられて、胃がむかむかする感じ。
    中盤以降、まるで「読めない」という設定がすっぽり忘れられたあたりからは楽しく読むことが出来ました。小島信夫とか、「黒子のバスケ」事件の犯人のこととか、『工場』とか、興味があるものが多かったので。

    続きが出たらまた買うだろうけど、最近なんだかなあという感じになってきてます。

  • 3.11を経て、「本(文学)が読めなくなった」と語る著者の文学論。
    文芸誌への連載をまとめた本作は、毎回文学作品を取り上げてはその作品について語るのだが、「読めない」ため序盤は全く解説となっていない。
    いや、「解説となっていない」と見せかけて実は解説している。高橋源一郎は「読めない人」の視点に立つことで、実は我々に近い目線で文学とは、小説とは、社会とは何かを伝える。

    第1回目の作品が田中慎弥の『共喰い』なのだが、この章の最後の1行に思わずはっとさせられる。
    その後はするすると他の章も「読めて」しまう。
    そして気付くと「文学の読み方」を一から学んでいることを知る。

  • 【本が読めない! ぼくは必死に「読める」ものを探す……】「あの日」以来、なにをどう読んでいいのか、まるでわからなくなってしまった…「今」を駆け抜けながら文学の存在意義を考え続ける。

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著者プロフィール

作家・元明治学院大学教授

「2020年 『弱さの研究ー弱さで読み解くコロナの時代』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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