- Amazon.co.jp ・本 (223ページ)
- / ISBN・EAN: 9784166607204
作品紹介・あらすじ
教科書の定番「山月記」を残して夭折した悲劇の天才、中島敦。実は当時、複数の大物作家が同じ説話を元にした作品を発表していた。なぜ無名の作家の「山月記」だけが生き残ったのか。そこに隠された真実とは。
感想・レビュー・書評
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『山月記』を読んだことがきっかけで、一時期、中島敦に傾倒していた時期があり、その繋がりで手に取った本。
大学生時代、耽美派の論文を書いたこと、私生活の様子、先の将来への不安など、知られざる中島の真実が書かれています。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
なぜそれ程多くの作品が世に出ていた訳では無い中島敦の「山月記」が教科書に載るようになったのか。その謎が解けた。
中島=李徴=虎、袁さん=○○or✕✕、才能が乏しいのに世に出ている人=△△、作品を残さないと死んでも死にきれない、妻子を頼む……中島敦が自分や思い、周りの人物たちを意識はしただろうが、それ程色濃く作品に投影するだろうか。もししたとしたら、非常に利己的な作品だということになってしまいはしないか。そこは、疑問であった。 -
純粋に中島敦研究として面白い。山月記が好きな人は特に。
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『夏雲』に続き、中島敦『山月記』教材研究の参考資料として手に取った本。
『山月記』に映された中島敦像を中心に据え、その成立背景、教科書の定番教材となった理由など、『源氏物語』研究を専門とする筆者が『山月記』と中島敦について論じている。
筆者の目に映る「中島敦」がかなり前面に押し出されている印象を受け、辟易した。文献等にある事実と筆者の飛躍を含む考察が混在して述べられているため、本書をただの読み物として手に取った読者をミスリードしてしまう恐れがある。事実と筆者の個人的な考えを意識して分けながら読めるのなら問題ないが…。
前提として中島敦の中に「闇=虎」が潜んでおり、それを彼は成長、肥大させていったとなっているが、一体どこにそれを裏付ける事実があるのか?もちろん『山月記』の李徴には敦の心性がかなり反映されているのは疑いがない。しかしそれは「人虎伝」の李徴に共鳴する部分を感じ、小説化する際に著者自身のエッセンスをブレンドした、程度に考えるところから出発すべきだ。本書では様々な中島敦の「闇」(中島敦だけが持つ特殊性の強いものとは私は決して思わない)を、『山月記』の虎と単純に結び付け、まるで彼が一世一代の自己投影小説として『山月記』を書いたかのように論じている。だが中島敦にとって『山月記』は著書の一つにしか過ぎなかったのではないか。中島敦という作家を知るための断片にしか過ぎないのではないか。
本書の筆者による「…ではないか」「…ではなかろうか」という推測の域を出ない、しかも単純な繋ぎ合わせの中島敦論に嫌気がさした。大学生の論文ならば許されるが、大学教授の論文としてはあまりに憶測が多すぎる無責任でお粗末なものだと思ってしまった。 -
山月記の痛々しさは、作者である中島敦の心の叫びが反映していたからなのか。
李徴は中島敦そのものに思えてしまうほど。
中島敦の人柄も意外でした。 -
『山月記』論というよりは、中島敦=李徴を指し示すエピソードや、袁傪なる人物を交友関係から辿ってみた、どちらかというと作家論。
読み易いのだが、山月記目的に読もうとした人には物足りないのではないかな、と思う。 -
死んだ中島敦に対する2人の友情は山月記の袁惨の如く美しい。山月記の見方が変わります。
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「山月記」・・・大好きな小説です。
高校生の時、国語の教科書で読んでから、何度読み返したでしょうか。
肥大化した自尊心により、虎と化す李徴。
その「山月記」の著者のバックボーンや、交友関係に迫ったのが本作です。
私は「山月記」を読むとき、「李徴」しか見ていませんでした。
その友、「袁さん」(『さん』漢字でない・・・)との友人関係って、
全然スポットを当てて読んでなくて、
「李徴」の独白の聞き手くらいにしかとらえていませんでした。
あと、李徴の「虎」という立場を、官吏という立場から引き立てる役目、というか。
けれど本書では、多くの部分を、中島敦の交友関係に当てていて、
敦からみた「袁さん」を探るんです。
そして著者自身、かつては「李徴」側から読んでいたが、
歳を経るにつれ、「袁さん」の気持ちで読むことが増えたと記します。
その読み方はしてこなかったな、と驚き。
歳を経るにつれ、
「友に誠実であったか」「差し伸べられる手はなかったかと」自分自身に問うことが
増えてくるとのこと。
私自身はまだまだ、李徴の気持ちですが、
いずれ私も、「袁さん」の気持ちで読む時がくるのでしょうか。
あぁ。それにしても「山月記」
本当にいいです。
本書では、山月記に投影された中島敦という人物がたくさん書かれいて、
読むほどに、敦自身の息遣いが「山月記」という小説から聞こえてきます。
まさに、入魂の一作、逸策だったんだな、と。
中島敦の描いた虎は、多くの人に、自分の中の虎を意識されるきっかけとなり、
その虎は、永遠に生き続け、小説は語り継がれるのです。
中島敦は若くして死ねど、虎は死せず。
心に残る一冊となりました。 -
隴西の李徴とは私のことである。
と感想文を書き始めたいが、戒めをこめて。
山月記好きって言うのが許されるのは高校生までだ。
高二病の症状の一つだ。
青臭いのが大好物な十代の恥ずかしい若気の至りだ。
説教じみたお話に感化されて、尊大な羞恥心に苛まれている人は、
校舎の窓ガラスを割って回って、盗んだバイクで走り出してしまう人と何ら変わらない。
こんなのに心動かされているうちはまだまだ虎にはならない。
虎になるほど執着したのかと、思うわけです。
ちなみに、虎を浮浪者に読み替えると共感しやすい。
現実はドラマチックじゃないのだ。