徳川家康 弱者の戦略 (文春新書 1389)

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  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784166613892

作品紹介・あらすじ

徳川幕府が二百六十年隠してきた真実を暴く! 信長、信玄、そして秀吉。圧倒的な強者を相手にしてきた家康はつねに「弱者」だった。それがなぜ天下人となったのか? そこには弱者だから取り得た戦略、ライバルからの旺盛な「学び」があった。第一人者が家康の実像に迫る。

感想・レビュー・書評

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  • 大河ドラマの影響で、様々な徳川家康関連本が出版されていますが、テレビ番組等で活躍する著者がこれまでと異なる視点から家康の戦略を述べた一冊。
    著者の視点は明確で、冒頭で次のように述べています。
    ○家康は、三河の弱小大名であったのに、なぜ・どうやって天下を手に入れ、しかも260年も続く、政権を築けたのか?
    ○読者の参考になるように、家康のその「弱者の戦略」をみてもらう

    大まかに歴史を振り返りながら、キーワードは「武威」と「信頼」だという視点で解説されており興味深い内容です。この戦略により天下統一を果たしたわけですが、その支配のあり方が現在の日本に影響しているということがよく言われるわけですが、逆に、日本の国民性がこうだから、家康の考え方、支配の仕方で統一できたとも言えるのではないかと感じてしまいました。

    さて、今回の大河でも史実かどうかという意見がよく聞かれます。本書を書くにあたり、著者のスタンスが個人的に納得いくものでしたので、そのまま引用しました。

    ○大切にしたい視点
     専門家の難しい歴史書は「史実」の追求に血眼になります。それをあまりやりすぎると、読者が置いてけぼりになってしまいます。史実も大切ですが、史実には必ず「尾ひれ」がつきます。学者は必ず、その尾ひれを切り捨てるトリミングをしてしまいます。「素朴一次史料主義」というやつです。当時の一次史料だけを確かな史料とみなし、後世の史料や伝聞の記録を全部捨てます。見向きもしません。
     しかし、それでは、かえって歴史の真には迫れないのです。というのも、歴史は伝えられるなかで尾ひれがつきますが、その尾ひれのつきかたにこそ、歴史時代の人々の心があらわれる面もあるからです。

    <目次>
    はじめにー家康はどうしたのか!
    第1章 「境目の土地」三河という運命
    第2章 信長から学んだ「力の支配」とその限界
    第3章 最強の敵・信玄がもたらした「共進化」
    第4章 二つの滅亡 長篠の合戦と本能寺の変
    第5章 天下人への道

  • NHKの歴史番組でもおなじみの磯田先生。独自の視点で家康をとらえます。運もさることながら、やはり学びですね。家康自身信長や秀吉、吾妻鑑からも多くこと学んだ。そして江戸幕府とつながった。棚から牡丹餅的な言い方をされることが多い家康ですが、実像はそんな簡単なものではなかったと思います。

  • 【大河より面白い! 天下人ができるまで】人質、信長との同盟、信玄との対決……次々に襲う試練から家康は何を学んで天下を取ったのか。第一人者が語り尽くす「学ぶ人家康」。

  • 大河ドラマから徳川家康興味がわき、この本を読んだ。よくNHKで拝見する磯田先生、分かりやすく、勉強になりました。「人の振り見て我が振り直せ」こそ家康がリーダーに登り詰めた秘訣ではないかと感じた。

  • 今年(令和5年)の大河ドラマのテーマは家康です、明智光秀をやった時以来ですが毎週楽しく拝見しています。今まで何度も家康が大河ドラマでも取り上げられてきたと記憶していますが、振り返ってみると年配の大俳優が演じていたのもありますが、かなり美化されていたように思います。

    さらに、大名としてかなり勢力を持ってから幕府を開くまでに焦点が当てられていたようで、失敗しない手堅い大名として描かれていたと思います。ところが今回のドラマでは、苦悩する家康が表現されています。そして歴史を勉強していたときには殆ど登場してこなかった、今川義元の嫡男である今川氏真との関係も数多く触れられていて、私にとっては新鮮な徳川家康像を見ることができたと思います。

    こんな状況である私が、この本を近くに立ち寄る本屋さんで見つけました。徳川家康は戦争は上手でない、と始めた言い切ったのは私が知る限りでは、本郷和人でした。その時は衝撃を受けましたが、この本のタイトルにも驚きました。

    家康は弱者であり、彼なりの戦略があったということがこの本に解説されています。家康の成長の秘密に触れられたと思いました。学び続けた家康が、信長・秀吉がなし得なかった、自分の代以降にも揺るがない政権を作り上げたのはこのような姿勢があったからで、これは現代の私達も大いに学ぶ点があると感じました。

    以下は気になったポイントです。

    ・家康は大名をやらされたその運命自体が苦痛だったと思われる、天下取りの意欲を持っていたとは思えない、その理由は、家康が生まれた三河という地が、地政学的に非常に過酷な環境にあったから。いつ滅びてもおかしくないくらい危うい状況に置かれた小国に、家康は生まれたから。天下取りどころか、家の再興、存続を考えるだけで頭が一杯だっただろう(p11)

    ・三河の場合、日本の陸の潮目に位置していた、日本列島は地質学的に行って、二つの島から出来上がっている。その継ぎ目、裂け目が本州の中央にあるフォッサマグナで、その西縁は糸魚川ー静岡構造線と呼ばれる。これが実は政治文化の上でも、東西の境目になってきました。日本史上、このフォッサマグナあたり、駿河・遠江・三河・尾張のエリアおを境に、大きな衝突が起こり、文化的にも社会的にも東と西が分かれる傾向があった点は重要である(p13)

    ・ヤマトタケルを最後まで苦しめたのも、この地域であった。野原で火攻めに遭い、草薙の剣で難を逃れたのが静岡の焼津で、それを奉納したのが終わりの熱田神宮である(p14)

    ・熊野の鈴木というのは、中世、熊野比丘尼と呼ばれた、諸国にいた女性たちを束ねている家が鈴木家であった(p18)

    ・江戸時代の家来は主君に仕える代わりに俸禄などの報酬をいただくが、中世の主従関係は逆で、家来になる方が上納の財やサービスを持っていくことが多い、サービスして家来扱いしてもらい、権威付けしてもらったり保護を受けたりするのが中世的な被官関係である(p22)

    ・桶狭間の戦いの目的は、西三河から熱田・半田といった尾張の東南部をとりあえず確保し、信長の居城を囲めば御の字といったところであった、東南部の熱田・半田は水運の拠点であり、織田家の力の源泉となっていたから(p36)

    ・家康に学ぶべき小国の知恵は、良いと思ったものは敵からでも積極的に学ぶことであった。自軍のアイデンティティというべき主力部隊のコンセプトを敵であった武田からためらうことなく取り入れている(p45)

    ・秀吉の行った太閤検地により、今川の支配下にあった駿河国(静岡市などの静岡県中部)は約15万石、遠江国(浜松市を含む西部)は25万石であり合わせて40万石、対して尾張国は1国で57万石、三河国は29万石であった(p48)

    ・桶狭間の戦いの後、家康は岡崎城に入ったという選択は重い決断であった、これは最前線に身を置いて織田勢の攻撃を受け続けることを意味するから、今川から派遣された城番は駿府に引き上げていた(p55)

    ・尾張と美濃を両方支配できたら、東海道と中山道の両方を押さえられる、さらに近江に進んで領有できれば、京都に入れ天下の権を握れる。信長にとって美濃はまさに「天下への扉」であった(p61)

    ・家康は権威信仰を捨てて、信長風の「実力を信じる」方向へ傾いていった、家臣たちを信頼し利益を図ってあげると彼らも命懸けで働いてくれる。すると家康の側もさらに家臣たちの忠義に応えようとする。三河武士団にこのサイクルが出来上がった、こういう信頼の互酬関係で結ばれた集団は武士団でも企業でも強い(p65)
    ・家康の凄さは、信長の失敗、ダメな点を学んだところにある。一言で言えば「信長疲れ」を見破った、秀吉も信長以上に家臣・領民の「秀吉疲れ」を巻き起こす存在であった(p72)信長、秀吉、家康の三者を比較するなら、信長は価値観も含め一元的に服従させる権力、秀吉は全てを飲み込もうとする権力、家康は棲み分ける権力ということになる(p76)
    ・なぜ中部、南九州、ついで東国に強豪の戦国大名が集中したのか、この地域は京都に近い近畿ほど、お寺・神社や住民自治(惣)の抵抗が強くない。それで年貢や家屋税(棟別銭)が撮りやすい、また土が関係している。黒ボク土という火山性の土壌が分布する地域で、牧畜、馬産に適していて、良い狩場でもある(p81)

    ・信玄との衝突が不可避と見ると、腹を括って最強軍団・武田を敵に回して、その宿敵・上杉と結んだ。今川氏真や北条氏政が勇断を避けて没落していったのに比べて、家康の外交戦略や果敢かつ大胆なものであった(p95)戦うときに戦わないと求心力が失われ家臣たちの離反が始まる(p105)

    ・酒井忠次が優れているのは、指示が具体的で的確なこと、人に調査を依頼するとき「様子を見にきてくれ」といった曖昧な言い方では、たいていうまくいかない。これは指示を出す方が悪いのであって、細かいところまで想像力を働かせて「どこで何を確認せよ」といった具体的な命令に落とし込まなければ調査の実は上がらない(p103)

    ・敵の最強軍団をリクルートしてきて、自軍の中核に据える大胆な軍事改革の人事は家康しかやっていない、家康は外部のものでも本当に優れたものなら、躊躇なく取り入れる革新性を併せ持っていた、これも彼が天下を取れた要因の1つである(p109)

    ・武田勝頼と信長・家康連合軍との間で血みどろの戦いが継続された、そこで要となったのが3つの城(東から、高天神・二俣・長篠)であった、武田家が西に進出してくる時、ここで押さえなくてはならない地が、この3つの城であった(p114)

    ・長篠の戦い以後、勝頼の命運を握っていたのが、遠江に残された武田方のクサビ、高天神城(岡部元信城主)であった、徳川方は補給路を遮断し、周りに砦を6つも築いて攻め続けた、これに対して勝頼は武田家当主として援軍を出せずに落城した、この時に勝頼は投手としての政治的生命を失った(p136)

    ・石川数正を秀吉に取られて、まだ1ヶ月もしないころ、秀吉方から上洛を促す使者がやってくる、その翌日の夜に中部地方に大地震が起きた、これで秀吉が濃尾平野に築いた前線基地は軒並み破壊された、大垣城は崩壊・火災、長浜城も倒壊した、一方家康の領地である三河は大きな被害は受けなかった(p163)

    ・家康が江戸地方へ転封される前の石高は150万石(6万人派兵可能、実質4万人)であったが、関東8カ国で250万石は家康にとって必要な石高であった。さらに引越し先の関東で家臣たちに与えられる土地は、全て家康のおかげでもらえる土地であり、家臣に対する家康の力はさらに強くなる(p166)

    ・大御所時代の駿河は、朝鮮・オランダ・イギリス・スペインなどから使者が訪れる外交拠点となった(p185)

    ・鉄の武士はメッキして金の力(天皇・公家)を借りるのが最強になれる秘訣である、家康はそれを看破していた、弱者・家康が辿り着いた最後の戦略は「文化」の重視であった(p187)儚い個人が夢を求めて闘争を繰り返す戦国時代は、家康によって消去された。家康が掲げた「個人の安心」「家の存続」こそが、まさに天下万民の望むところとなっていった、だから徳川の世は260年も続いた(p190)

    2023年3月20日読了
    2023年3月21日作成

  • 徳川家康の生涯から何を学ぶか、それを書いたものは色々とありそうだが、実はなかなか難しいテーマだ。あまりにも時代が違うことや、さまざまな研究が進んでいることなどがその理由である。しかし、この本は、多くの資料をあげて、うまくまとめている。家康が武威を掲げ、信頼を得ていったことなどが説得力を持って述べられている。

  • 徳川家康が弱国大名からいかに天下人までなりえたのかを堅苦しい史実資料だけでなく、わかりやすく説明されていた。
    なかなかおもしろかった。

  • 徳川家康、弱者???

    これが、私が本書のタイトルを見て、まず最初に思ったことである。

    何せ、家康と言えば、日本史において最も有名な人物であり、その後260年に渡って続いた徳川幕府の初代将軍である。

    そんな、「家康がなんで弱者???」と思ったわけだ。

    ちなみに、私は大学は文系であったものの、社会科は世界史選択であったこと、高校の日本史は近現代史しか学んでいなかったこともあり、一般的な日本史の教養が身についていないことも、このような疑問を持った理由のひとつではある。

    そして、本書を読んで分かったことは、以下のとおりである。

    ①家康は三河の弱小大名であった

    ②6歳の時に今川義元に人質に出された(吉本の寵愛を受ける)

    ③桶狭間の戦いで義元とともに信長に敗れ、今川家から信長の家臣に乗り換える

    ④三方ヶ原の戦いで信長の後援を受けるも、武田信玄に惨敗

    ⑤長篠の戦いで、信長・家康連合軍が弾薬や鉄砲を用い、武田軍を破る

    ⑥小牧・長久手の戦いで織田信長の子である信雄と組んで豊臣秀吉と戦う。長久手の戦いで勝利するも、最終的には信雄が秀吉と和睦し、家康は秀吉に臣従

    ⑦秀吉の死後、後継者争いが発生(関ヶ原の戦い)、家康率いる東軍が、石田三成らの西軍に勝利し、豊臣政権滅亡、家康は江戸幕府を開く

    このように見ていくと、まず幼少期から今川義元の人質、戦も負け続きということで、確かにこれは「弱者」といわれても仕方ないと思った。

    しかし、家康の偉いところは、このような失敗から多くを学んだとところだと著者は言う。

    武田信玄からは情報戦や指揮命令系統整備の必要性など、長篠の戦いでは信長から海外とのチャンネルを持つことで最新の武器(弾薬や鉄砲など)や情報が手に入ることなどを学び、それらを関ヶ原の戦いで活かし、勝利につなげたのだ。

    本書ではこれらの合戦などにまつわるエピソードや今日にその教訓をどう活かすかなどが書かれており、現代を生きる我々にも良い教訓として読むことができる。

    また、著者は、歴史研究者は概して史実を忠実の追求に血眼になりがちであるが(素朴一次資料主義)、一次資料だけでなく、構成の資料や伝聞の記録は全て捨象してしまうと指摘する。

    もちろん、伝聞の類いは玉石混交だろうが、それではかえって、歴史の真には迫れない。
    「歴史は伝えられる中で尾ひれがつくが、その尾ひれのつきかたにこそ、歴史時代の人々の心があらわれる面もある」という著者の指摘は、特に印象的だ。

  • 2023/12/23 読了
     家康の成功は今川の英才教育と信頼できる部下の力が大きい。特にナンバー2である酒井忠次の貢献が大きく"家康の諸葛孔明"説に同意。姉川・長篠の信長、山崎の秀吉、小牧・長久手の家康に共通するのは天下に示した"武威"、これによって天下人になり、これがない光秀、毛利、信雄、信孝、秀頼は滅亡した、という説明に納得。

  • 中曽根康弘の言葉、
    国内の事情で外交をやってはならない
    お家の事情のために、相手の状況や力関係、外部環境を無視した外交や戦争を行ってしまうミスは、実際の歴史にあることなのです

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著者プロフィール

磯田道史
1970年、岡山県生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。茨城大学准教授、静岡文化芸術大学教授などを経て、2016年4月より国際日本文化研究センター准教授。『武士の家計簿』(新潮新書、新潮ドキュメント賞受賞)、『無私の日本人』(文春文庫)、『天災から日本史を読みなおす』(中公新書、日本エッセイストクラブ賞受賞)など著書多数。

「2022年 『日本史を暴く』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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