新装版 考えるヒント (2) (文春文庫) (文春文庫 こ 1-9)
- 文藝春秋 (2007年9月4日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (246ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167107130
感想・レビュー・書評
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復讐と法律のこと。
菊池寛「或る抗議書」を挙げて、社会的政策の合理性合法性が、隠してしまったものについて言及する。
主人公にとって憎悪と切り離せない出来事が、法律によって死刑と名付けられ、また教誨師によって加害者は救われながら死んでゆく。
遺族的感情というものを、どこまでを切実に感じられているのだろう、どこまでをシステムに預けてしまっているのだろう。
個性のこと。
「ある人の個性とは、その人の癖でもなければ才能でもないだろう。変った癖も面白そうな意見も、個性の証しとはなるまい。ある人の個性は、その人の過去に根を下しているより他はなく、過去が現に自己のうちに生きている事を、頭から信じようとしない人に、自己が生きて来た精神の糸を辿ろうとする力を放棄して了う人に、個性の持ちようはないわけだ」
いやあ、じいんときた。感謝。
常識のこと。
久々にデカルト。
直観的に分かるということ、つまり、こうじゃないかという結果があって、そこから辿っていくこと。
学問として、自分たちで拵えたようなことから答えを導いていくのではないということ。
コモン・センス、ずっと追っているけれど、まだまだ見えない(笑)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
読めば読むほど味わい深い。
フロイトの理論を歪めた後継者たち、それを尊ぶ現代知識人の愚かさ、デカルトの方法叙説を私の方法と訳し、敷衍した常識についても目からウロコ。小林秀雄の認識の源泉はどこにあったのか。そこが知りたいところである。
“復讐という言葉の発明は、正義という言葉の発明と同時であった。”
“イデオロギイとは文字通り、観念の形体であって、その中身を空っぽにしなければ得られなないものだ。又、事実、思想は、その中身を失い、社会通念として流通して、はじめてわかり易い、眼につき易い形を取るものだ。”
“素行や仁斎の古学と言い、狙徠の古文辞学と言い、近代的な学問の方法というようなものでは、決してなかった。彼等は、ただ、ひたすら言を学んで、我が心に問うたのであり、紙背に徹する眼光を、いかにして得ようか、と肝胆を砕いたのである”
“理屈はどうでも付くとは、理屈本来の性質なのであり、理は独り歩きして、世界に無レ之ところに行っても、理は理なので理を言い、智を喜ぶより、生きる方が根底的な事だ、知るより行うのが先きである、これが徂徠の基本的な思想であった”
“深い思想ほど滅び易い、と言っても強ち逆説ではなかろう。実際、人が、或る思想を人間的と呼ぶ時は、まさしくそういう事を指している”
“忍耐とは、癇癪持ち向きの一徳目ではない。私達が、抱いて生きて行かねばならぬ一番基本的なものは、時間というものだと言っても差支えはないなら、忍耐とは、この時間というものの扱い方だと言っていい。時間に関する慎重な経験の仕方であろう。忍耐とは、省みて時の絶対的な歩みに敬意を持つ事だ。円熟とは、これに寄せる信頼である。忍耐を追放して了えば、能率や革新を言うプロパガンダやスローガンが残るだけである”
“常に見られる進歩派と保守派との対立は、伝統の問題には、恐らく何んの関係もあるまい。両者が争っている対象は、伝統というよりむしろ怠惰な精神にも自明な習慣というものだ、と言った方がいいだろう。”
“意識が、眼に見えぬ無意識という心的エネルギイに条件付けられたものなら、眼に見えぬという理由にならぬ理由で、神聖視されていたような精神的価値など、もう何処に住んでいいか解らぬ。”
“ニュートンは、いったん世界が成立した後は、世界は力学の原理に従って運動しているが、世界をかくの如く成立させた力を、この原理自体から導く事は出来ない事をはっきり知っていた。この物質的とも非物質的とも決め兼ねる力を、彼は全知全能の神に帰した。”
“ペインという社会革命家は、コンモン・センスという理想をかかげた、と言っても過言ではあるまい。アメリカ独立という理想について、自分は、煽動的言辞も煩瑣な議論も必要としていない、誰の眼にも見えている事実を語り、誰の心にも具っている健全な尋常な理性と感情とに訴えれば足りる、そういう考えから、ペインは、その革命文書に、コンモン・センスという標題を与えたに相違ない”
“古人の書物ばかり有難がっている人々より、誰にも備っている凡そ単純な分別だけを働かせている人々の方が、私の意見を正しく判断するだろうと思うからだ」と。そして重ねて言う。「私が、私の審判者と望むものは、常識を学問に結びつける人達だけである」と。”
“「出来る限り」という言葉は、デカルトの著作に、屡々使われているが、この意味は、大変はっきりしたものなので、人間に可能な限りという意味なのだ。そこには、制限された人間という存在に関する彼の鋭い意識が、いつも在るのです。”
“私達が常識という言葉を作った以前、私達は、これに相当するどういう言葉を使っていたかというと、それは、やはり生活の知恵を現す「中庸」という言葉だったろうと思う。”
“人間に出来る事は、天与の知恵を働かせて、生活の為に、実在に正しく問う事だ。実在を解決する事ではない。正しい質問の形でしか、人間にふさわしい解答は得られはしない。” -
学生の時読んで以来、久しぶりに読んだ。特に2巻の「信じることと知ること」の話が最初に読んだ時からずっと頭に残っていた。信じるということの次元と、実際のデータによる分析の世界の次元との違和感について考えさせられた。
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一文一文それぞれに深い意味がある(と思う)。全部は理解できなかったが、勉強になったことはたくさんあった。修行を積んだらまた読みたい。
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難しくて、内容をあまり理解できない。
色々考えるにあたり教養の必要さが身に染みる。 -
「考える」ことについて、雰囲気では許されない、徹底的に考えることを求められる、のはわかる。ただ、やはり時代背景が違いすぎて、四書五経をもとにされてもなかなか難しいので、ただ、その精神を学ぶ、ややコスプレ的な「考える」になってしまうのが申し訳ない。
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一読したが、2割程の内容しかまともに読めなかった。考えるヒントを得る段階まで、しばし補填が必要。十二分に個性的な人物を取り上げているので、一般論として読むことはできない。
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小林秀雄 「 考えるヒント 」 荻生徂徠を中心とした江戸思想に関する随筆。考えるヒントとして、江戸思想家の思索、内観を取り上げている。1より 各随筆に共通性があり 面白い
徳川期の儒学、朱子学=思想上の戦国時代
*当時の学問は 学というより芸→邪説を含めて広い読書は不可能→古言の吟味→読みの深さ、自得、内観が重要
山鹿素行〜自分の歴史家としての成熟と開眼
*耳を信じるな=聞こえてくるままの知識に頼るな
*目を信ぜよ=心の目を持て→史眼とは心眼のこと
荻生徂徠
*学問は歴史(伝統)に極まる=学問するとは 歴史を生きること→自己の歴史的経験を明らかにすること
*注に頼り早く会得することは 自己の発見が生まれない
*孔子は 確かな物(仁、徳など)を好み〜これを行うことによって 智を成した→智により物を得たのではない→知るより行うのが先
徂徠「弁名」
*学問は先ず言語の学であるべき=言語の究明
*物あれば名あり→聖人が 道 という名を発見した
*道とは 形のない物、定義できない物全体の統名
*聖という名を弁じて 聖とは 作るという行為を指す名
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このメモページのタイトルそのままである
知識の量を理解しようと時間をかけている端から読み終えた分を忘れていく
たぶんこの1冊を繰り返し読み続けて飽きない自信がある
1冊読み通すまで寝ずにいられる自信はない
今後もこの本を自身に役立てられない確信はある -
何回読んでも難しい