ジブリの教科書5 魔女の宅急便 (文春ジブリ文庫 1-5 ジブリの教科書 5)

制作 : 文春文庫編集部 
  • 文藝春秋
3.84
  • (11)
  • (26)
  • (16)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 365
感想 : 26
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (316ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784168120046

作品紹介・あらすじ

キキはどうして飛べなくなったか?魔女のキキが飛べなくなること、黒猫のジジと言葉が通じなくなること、働くということ……内田樹、上野千鶴子、青山七恵らが、少女の成長物語の金字塔「魔女宅」の魅力を読み解く!

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • ジブリの教科書5冊目。
    どんどん面白くなってくる。
    今までは作品ひとつずつを楽しんできたけれど、ジブリの歴史の中でどんな意味を持つ作品だったのかを知ることが出来る。
    そして、気付いてなかった宮崎駿監督作品の共通点なんかも。

    この本に収録されている文章は驚く程具体的な実感を伴っているように感じる。
    「魔女の宅急便」について語ることは書き手の人生観を語ることに近いようだ。
    自分のことを考えると、働き始めてから「魔女の宅急便」を観ていない。
    今観たら新しい発見があるのかもしれないなと思う。
    でも、教科書に書いてあることを答え合わせのようになぞってしまいそうだから、忘れた頃に観ることにしよう。

  • 内田樹さんと大塚英志さんのふたつの論考を、僕はとても興味深く読んだ。

    内田さんは、「魔女の宅急便」の主題を "自然に付与されたはずの才能が枯渇して賦活するまで " を扱った映画だとして論考を展開する。この論文の肝は、キキがなぜ空を飛べるようになるかを物語に即しておさえながら、なぜ「空を飛ぶ少女」が宮崎アニメの中で特別な位置を占めるか、その理由を解き明かすところにある。つまり、空を飛べることが自明だったキキが、その能力をもう一度自分のものにしていくその姿が、絵描き・アニメーターとしての宮崎駿と重るのだと内田さんは指摘する。

    このことが映画で色濃く反映されているところは、ウルスラの告白のシーンである。彼女は(キキと同じ悩みを抱えていた分身であると同時に)宮崎駿の分身でもある。夏の間だけ森小屋に住むウルスラが、かつての自分が描いた絵をどこかで見たことのある借りものの絵だったと、キキに告白するシーンがあるが、借りものではない自分の絵にするための苦しみ・もがきが、(過去のインタビューなどで証拠づけながら)そのまま宮崎駿の姿と重なるのだと。すると自明であった能力を喪って、もう一度キキが「空を飛ぶ」シーンは、宮崎駿が描けなくなった苦しみ・もがきを脱出する際に立ち戻る、ひとつの象徴的な機能が付与されているはずだ、と言う。

    だとすれば映画製作にとりかかる際に、この映画がモノになるのかという判断は、主人公が映画のどこで飛ぶかではなくて、この映画は飛ぶ映画になりうるか、といった志向をもっているはずだ、という冒頭の指摘はとても面白い。内田さんは言及されていないが、このような才能についての「自分語り」を描いている証拠として、キキがコリコの街へ降り立つ前に、バスにぶつかりそうになって街を暴走するシーンがある。バスの側面には、「STUDIO GHIBLI」と文字がうってある。つまり、自らはもちろん、絵描きやアニメーター達が直面する絵描きとしての才能・成長の苦しみを、文字や(意のままにならない)暴走の暗喩・予兆をここでキキに託して表現していることになる。

    大塚さんは、宮崎アニメが執拗に描く「少女の成長譚」から共通する話型を取り出し、その源泉が日本の民話にあることを指摘する。「灰亡」や「婆皮」が登場する「呪衣」タイプの民話類型は、人の姿を一時的に変身させる魔法のような機能を有しており、成長過程である未熟な子どもを庇護する機能が付与されている。蛹から蝶が成長するように、子どもが大人になる一種の通過儀礼に登場するのが、この「灰亡」や「婆皮」であると。つまり、キキのリボンも黒服も母から渡された箒もジジも、すべてこの未熟な子どもに付与された庇護の「婆皮」的記号の意味を付与されており、飛行能力をもう一度とり戻す過程で、これらの「婆皮」的機能は徐々に不用なものとなり、キキは成長していくのだとする。(おソノさんと知り合うきっかけとなったキキが赤ん坊に届けるおしゃぶりも、乳房の代用の意からすると親元からの離脱を強調するテーマの裏付けとなっている)

    雑誌の特集などで心理学や社会学などの専門家が宮崎アニメを評論しているが、ああいったものは、ほとんど映画解釈から離れ過ぎていて映画の内容とはほとんど関係ないものになっている。これだけ説得力があり、映画解釈を拡大させてくれた評論を読めたことは、得難い経験だった。

  • ジブリの教科書第五弾。大好きな魔女宅の当時の裏事情や改めて今、当時を振り返った話などが収められていて胸が熱くなった。
    大好きで何度も見たし、イメージアルバムも何度も聴いたしで、読む文章読む文章全部シーンや曲やキャラクターのセリフ、声が浮かび涙がぶわぁとこみ上げる。本当にそれほど好きなんですよ、魔女宅。この本を読みながら、また見たくなってしまった。


    それにしても、私はキキと同じ思春期だった当時に子供の心で魔女宅を見、魔女宅を見ながら成長することができて良かったと思う。本書の某さんの書評を読んでぼんやり思った…あまり考えが好きではなかった。そこが残念。

  • 初めて映画の「魔女の宅急便」を見た時、妙に中途半端な話だなと思った。そして、キキの年齢設定に、なんとなくモヤモヤしたものを感じた。おまけにキキはトンボさんとの関わりの中で、ある時急に飛べなくなってしまう。
    これは、何かの隠喩なのか、と思ったものだ。
    本書の中では、そのことに触れているのは上野千鶴子さんだけである。彼女のフェミニズム的な読解は、明らかに本書の中で浮き上がっている。その内容に全面的な共感は持てなかったけれども、自分がこのくらいの年齢の少女を主人公にして物語を書こうとするときに、第二次性徴を避ける事はできないのだ。だから、そのことについて考察していることは興味深かった。対談している他の誰も、そのことについて触れていないから。
    宮崎さんは男性だから、そのことについての実感は持てないだろうし、想像することも難しいだろう。もっと、概念的で、精神的な方面にしか想像は及ばない。
    実は、原作のキキも「生身の女性」としては描かれていない。児童小説のジャンルだからだろうか。トンボさんへの屈折した思いも、決してあからさまには描かれない。まだ「子どもの体と心」を持っている状態で読んだなら、きっとうっとりしてしまうだろうなあ、と思いながら原作を読んでいるのだが、少々じれったいし、まだるっこしい。

    原作にはない映画のダイナミックなラストは、それはそれで映画的なカタルシスがあってよかったと思う。そのあたりの、宮崎さんやプロデューサーの意図もわかって、大変興味深く読んだ。

  • ナビゲーター・内田 樹
    空を飛ぶ少女について★
    Part1 映画『魔女の宅急便』誕生
    『魔女の宅急便』のヒットと社員化
    鈴木敏夫 頭を殴られた一言とプロデューサー洗礼の日々
    角野栄子 鳥の目から見た町
    宮崎 駿 この作品では、一人の人間のいろいろな顔を見せたかった★
    氷室冴子×宮崎 駿 いま、“幸せになる”って何?★
    ・viewpoint・上野千鶴子
    なぜキキは十三歳なのか?
    Part2 『魔女の宅急便』の制作現場
    [プロデューサー・脚本・監督] 宮崎 駿「キキが黒い服をまとうわけ」★
    [キャラクターデザイン・作画] 近藤勝也「絵には自分の内面が表れますね」
    [美術] 大野広司「リアルさと存在感そして光の表現にてこずってます」
    [背景] 男鹿和雄「ぜいたくで楽しい仕事でした」
    [原画] 二木真希子「女性だけでなく、だれもが直面する問題」
    [原画] 井上俊之「キキは鼻の位置がむずかしい」
    [音楽] 久石 譲 「今回はヨーロッパの舞曲をモチーフにしています」
    [音楽演出] 高畑 勲 「架空の国のローカル色を出す」
    三日間完全密着取材!! アフレコ・ルポ
    『魔女の宅急便』制作秘話
    映画公開当時の掲載記事を再録!
    Part3 作品の背景を読み解く
    松任谷由実×宮崎 駿 やさしさに包まれたなら、少女は……★
    柳澤 健 ユーミンはもう、キキではなかった
    青山七恵 キキが教えてくれたこと
    正木 晃 魔女の東西★
    天沼春樹 飛行船と魔女がとぶ空
    細馬宏通 キキはとび、町は剥がれる★
    朝比奈あすか かつて十三歳だった全ての大人に
    中野京子 ウルスラの絵の謎を解く★
    南 果歩 ずっと心に残っていたキキのセリフ
    C・W・ニコル×宮崎 駿 魔女とほうきと黒猫と
    大塚英志 『魔女の宅急便』解題
    出典一覧
    映画『魔女の宅急便』クレジット
    宮崎 駿プロフィール

    ■内田樹。かなりするどい論考。……表テーマは、少女が労働を通じて成熟すること。(駿自身に切実だけど、一般性のない)裏テーマは、天才の陥るピットフォール。原作にないものを入れた、それは自分でも自分をコントロールできないみたいな、そういう想い。才能についての物語に書き換えている。凡人たちには興味のない話だから、思春期の物語にもしているし、魔女の話にもしている。今まで自然にできたことができなくなる、できないからできるへ架橋する方法がわからない、相談する相手も助言を求める相手も同乗してくれる人もいない。才能が停止したとき、もう一度賦活させるためには大人になる必要がある。だから才能についての物語は必ず成長についての物語になる。駿が描けなくなったときに、描くことで才能を取り戻したイコンこそが、空を飛ぶ少女だ。だからこそ地上で、飛べない人たちとの間でドラマを作り、成長の話にする。飛ぶ力は、適切に制御を解除することではじめて制御できる能力。自分を守ろうとすると失われる。晴れやかな気分で活性化し、誰かのために働くときに順調に作動し、誰かを救おうとするときに最大化する。飛行能力を決定するのは、主体と他者との関係。キキが嫉妬するのは、トンボのガールフレンドに対してでもあるが、ほんとうに嫉妬した対象は飛行船。トンボはじめ町の人が飛行船に夢中になるとき、キキにとって私事であった飛行能力は、公共的なフレームの中で格付けされ、数値化される。
    ■鈴木敏夫。あのリボンはまだ自分を守ってくれる確かなものを持っていない思春期の象徴。
    ■駿インタビュー。都会に出てきて部屋と仕事を何とか手に入れた女の子。落ち込んだり元気になったりを繰り返す。職業成功物語には絶対にしない。町で会う周囲の少女たちも、キキがわだかまりを棄ててしまいさえすれば、いじわるな人ではない。才能=血があっても、無意識のうちに成長することは不可能。思春期にとって必要になるのは、避難場所=ウルスラとか。思春期の愚行。
    ■氷室冴子との対談において。アニメーターの女の子たちに似ている。大芸術に一生を捧げるわけではない。絵が好きで就職できて、でも壁に。宅急便で感謝されても、それだけ。この子が舞い降りて周りの人が幸せになるよりも、自分が幸せになりたい。他人の幸せなんか、とりあえずどうでもいい。ホウキに乗って飛べるのは、魔法というよりも、バイクに乗れるとか、イラストが描けるとか、そのくらいの才能。
    ■上野千鶴子は、性やジェンダーについて語っているが、びみょー。
    ■駿インタビュー。黒い服とは、そまつな服という意味。着飾ったりしないでありのままの姿で自分の世界を見つけにいく修行。連続した時間と空間を映像の中に作ることで、生活者の存在を描く。
    ■美術の大野。テラッとした光。壁や家具に反映する光のとらえかた。
    ■松任谷由実との対談において。自分が子供のときにはこういうふうに自分を表現できなかったな、と思うから、登場人物にはそういう表現をさせたい。口ごもったり言い逃したり、通り過ぎてしまったり、うじうじ。それをさせたい。作品ごとに印象が違うのは、嘘をつく次元のレベルを変えているから。好きで毎日見ています、と言われると、その子が他に、自分の躰で触ったり嗅いだりする時間を奪っているみたいな気がする。一回見ただけで、あれはなんだったんだろうなと思うくらいの記憶になってしまうほうが、小さい子のためには本当にいいんじゃないか(……トトロでも似たことを言っていた。年に一回だけ見てほしい、とか……)。宮崎勤について、映像の方が現実感があるようになってしまう。歌詞や小説を読むと映像を考えるが、司馬遼太郎の講談なんかは無理。巨人の星みたいに、時間が情念によって際限なく引き伸ばされる、歌舞伎や日本的なものは、頽廃的。不特定多数に対する共通言語にはなり得ない。
    ■宗教学者正木晃。西欧の魔女はキリスト教の下で不遇。東のアジアの魔女は仏教のもとで幸せ。女性霊能者系と女神系。踊って神がかりする前者には卑弥呼、ネパールのジャンクリ、ディヨーマー、韓国のムーダン。後者はヒンドゥーのドゥルガーやカーリー。日本ならお稲荷さん。もとはインドのダーキニー。破壊神シヴァに仕える巫女。なにしろ日本はナンバーワンアマテラスもナンバーツートヨウケノオオカミも女神だ。魔女の箒は、近代以前は穂先を前にしていた。女性上位の愛の行為を象徴。
    ■細馬宏通は最も信頼できる書き手。文章自体がいいんだな。……キキが町に着くあたりを細かく分析。最初はあくまで一枚の絵に過ぎない。遠近が感じられないほど遠い。ムーヴィング・パノラマ。キキの飛行が近景、中景を、一枚の町から剥がしていく。町は姿を開いていく。降り立つときには表情をかえる生き物として。おソノさんから客の忘れ物を預かったときは、一つの視点から複数の焦点を見渡すパノラマ画法。ただの風景画では表現できない秘密の最短距離を通る。キキの魔法の力が、アニメーションの力と化し、町のありさまを明らかにしていく物語。
    ■中野京子。ウルスラの画中画。横向きの馬の隣に、上から捉えた牛を描く。一見シャガールっぽいが、ヨーロッパの画家はこう描かない。子どもの眼なのだ。この画が、宮崎作品の美術とまったく異なる文法で描かれているから、驚く。
    ■C・W・ニコルとの対談では、辟易する駿の眉が想像できて苦笑い。
    ■大塚英志。ここにおいて大塚らしい民俗学の援用。……駿自ら振り返るとき、総括の対象外に置かれがちだが。自分探しとマーケティング。このとき女子の成長の物語を描くのは必然。トトロへの火垂るの批判への答えとしても。休むつもりでいたのに深入りしたのは、駿の積み残しの主題があったから。この時代、女子の自分探しは流行ったが、成熟モデルは不在だった。身近なアニメーター観察。このとき駿が直面したテーマ、実は65年入社したて新人のころ、脱皮して生身のお姫様が現れるように作り直した、と高畑勲が書いているので、当初からのテーマだったのだ。これ、民俗学者関圭吾の民話論のよう。関が通過儀礼と対照して分析するのが、灰坊と婆皮。女の子の場合後者。呪衣。婆皮はライナスの毛布。婆皮型の物語を採用しながら、魔女用黒服の内側での、キキの内的な変化を丹念に描く。黒い服とアンバランスに大きいリボンは、キキのとてつもなく大きな不安の象徴。昔話に内面はないが、昔話の枠組みを用いつつ、内面を与えたことで、丹念な成長のさまが描かれる。キキの贈り物も、おしゃぶり→ぬいぐるみ→ニシンのパイ、とライナスの毛布の主題は暗示されている。ここで女性と竈。巨神兵の炎はナウシカには制御できなかった。次第に駿の女子は火を味方につけていく。家の神は、神棚など公的な神と、竈や厠や納戸など裏側の神に別れ、後者は女性の管理下にある。初潮。ウルスラの説明台詞は、ほころび。高畑勲からの親離れの渦中にある駿の不安や自分への励ましが、未整理のまま放り出されている。整理すれば、以下の女子の成熟の条件が、物語の形式と結びつく形で出そろっている。1、両親の庇護下からの離脱。2、仮の母性の庇護下に入り「姥皮」(ライナスの毛布)を受け取る。3、火の神の祝福・承認を受けとる。4、労働。5、「風」の制御(あるいは「学ぶ」)。6、恋人の救済。5だけが姥皮的物語にない、駿に特徴的なもの。駿いわく、第二次世界大戦がはじまらないで十年くらい経っていたら、というファンタジー。これは高畑勲に迫られた歴史や現実への対峙を、やはり留保している。駿が総括の対象に置きがち、屈託はここに行き着く。同時に、火の問題を男子から免除している、その問題も魔女宅に始まっている。

  • 解説書、流し読みにはとても良い。

  • 制作陣のインタビューは見る価値あり。

  • 初っ端から内田樹。読むしかない。キキが飛べなくなること、黒猫のジジと言葉が通じなくなること、働くということ、才能についてなど。「魔女の宅急便」を深いところまでじっくりと。こんなにいろんな要素があったとは。こんなに深いテーマがあったとは。踏まえた上でまたじっくり観返したい。原作も再度じっくり読み直したい。ますます「魔女の宅急便」が好きになった。

  • 幼ない頃に映画を観た当時は、なんて嫌味な孫娘なんだ!(ニシンのパイの彼女)と自分のことを棚に上げて思っていたが、今となっては彼女の気持ちも、キキの期待していたもの(感謝)が得られず落ち込む気持ちも十分理解できる。
     ちょっと深読みし過ぎでは?という考察もいくつかあったが、このシリーズは中盤に美術ボード?という美しいイラストが必ずあるので、それを眺めるのも楽しみ。
     個人的に印象に残っている、キキが早朝お手洗いに行った帰り、パン屋の主人をやり過ごす何てことないシーンには、誰も触れておらず残念だった。

    ーー再読ーー

     天から授かった才能を持っている人の悩みは凡人には理解できないなぁ、と凡人の私は他人事で観賞できる。作家や大学教授などそれぞれの得意分野から掘り下げた寄稿が多いが、子どもから大人まで単純に楽しめて専門家は考察が捗る奥が深い映画だと感じる。ジジの言葉がわからなくなった理由は、本書を読んで腑に落ちた。昔からウルスラの絵が大好きなので、この絵をじっくり眺められるのも魅力の1つ。

  • 作品ができるまでに経た様々な過程を知ることができる。知れば知るほど奥が深いと感じた。制作関係者のみならず、評論家による多角的な読み解きもあり、読んだ上でまた作品が観たくなる。

    ウルスラの絵の原画『虹の上をとぶ船』が近くにあるので、いつか観に行きたい。

全26件中 1 - 10件を表示

スタジオジブリの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×