道徳授業に何が出来るか (教育新書 85)

著者 :
  • 明治図書出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784189175025

作品紹介・あらすじ

「道徳」諸業で学び得るものは、システムである。気持ちではない。しかし、本書の中で「システム」の意味は、まだ動揺していて不整合である。この概念の不明確さを批判すれば、道徳的判断の構造がより明確に見えてくるはずである。

感想・レビュー・書評

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  • □要約
    ・「手品師」の資料を扱い、道徳的な心情を育てる発問が多い(たとえば、「男の子に手品をしている時、手品師はどんなの気持ちだったのかな」) 。
    ・しかし、批判的に見れば こんな不真面目な人物の気持ちは考えられない、考えるに値しない。(p.18)
    ・伝えたいことは、「発問が悪い」ということ。気持ちではなく判断をさせる発問をする。
    ・たとえば、「手品師は迷いに迷っていました」というところで、「手品師はどうすることができるか」とたくさんの案を出させること。「手品師はどうすることができるか」という発問の目的は、多様な想像をする訓練である(p.41)。
    ・子どもたちのほとんどは手品師になるわけではない。したがって、手品師の場合という材料を使って、それ以外の状況でも役立つ内容を学ぶのである(p.42)。
    ・(p.121)資料は目的を果たすのに十分な情報が示されていればいい。目的の方が資料の内容に適合するようなものになっていればいいのである。
    ・例えば「手品師」の場合、心情を問うような発問が多い。つまり、「気持ち」を考えることを目的として読むことを要求している。言い換えれば、資料から「気持ち」がわかるような情報を得ることを要求しているわけである。この資料によってこの目的を果たし得るという前提がある。
    ・この前提は正しいか。つまり、「気持ち」を考えさせるという目的は、資料を読むという方法で達成されるのか(p.122)。
    ・わたし(宇佐美)はわからない。手品師の人生観(筆者の人生観の定義は、「人生における個々の事態への対処のしかた、個々の他者への対応のしかたの総体」)が不明だからである。手品師の気持ちは、彼が手品をどう思い、人生をどう思っているかによって変わってくる。つまり、彼が手品・人生をどう認識しているのかの方が基礎なのである。この事件の彼の気持ちは、この基礎によって規定されている。ところが、この基礎が不明である。当然、気持ちも不明である。一人の人間の人生観は、文章に書くのが難しい(pp.122-123)。
    ・要するに、ある人物の人生観がわかるとは、「もしAの状況だったら、彼はBの言動をとるだろう」という想像が様々な状況についてできるということなのである。このような想像が可能である人物についてならば、「彼はこの時、どんな気持ちだったのか。」を想像することができる。
    ・したがって、この資料(手品師)にはその情報がないため、「彼の気持ちは言えない」が正当な反応である(p.127)。
    ・「道徳」とは、社会的状況における個人の意思決定である。道徳の時間で学習させるのは、この意思決定の方法である(p.145)。
    ・手品師は、あの事態をどう認識し、どう行動すべきだったのか。それを学習させることこそが、「道徳」授業が生きる道である(p.203)。

    □考察
    同じ主張を何度も何度もしている。丁寧と言えば丁寧であり、しつこいといえばしつこい。また、資料の批判の仕方がひどい。「たしかにそうかもしれないけど、そんな細かいところまで…」と思ってしまった。
    宇佐美の主張はわかる。しかし、「○○はどんな気持ちだったかな?」という発問はまだまだ根付いており、素直に受け止められない。アプローチの一つとして、ロールプレイングがある。「ロールプレイング」の目的は、演技的な表現方法を通して「自分自身の問題として深くかかわり、ねらいの根底にある道徳的価値についての共感的な理解を深め、主体的に道徳的実践力を身につける(『中学校学習指導要領解説 道徳』p.94)」とある。演技的な表現方法では登場人物の気持ちになりきる。しかし、「登場人物の人生観がわからないからできません」となってしまうのではないだろうか。ロールプレイングはなりたつのだろうか。
    『小学校学習指導要領解説 道徳編』によれば、道徳的心情とは、「道徳的価値の大切さを感じ取り、善を行うことを喜び、悪を憎む感情(p.28)」である。たしかに、感情を読み取らなくても道徳的心情は養うことができるかもしれないが、なにか違和感がある。
    本書は1989年に書かれたため、「こころの教育」などは重視されていなかったのかもしれないが、やはり道徳教育には、「○○はどう思うかな」と考えさせる部分も必要ではないか。「『人生観がわからない』」などといわれても、「己の欲せざるところ、人に為すなかれ(論語)」のような「自分がされていやなことは人にしない」という黄金律を教える・「自分が手品師の立場だったら」と読み取らせる努力をしなければ、「わたしは嫌だと思うけど、相手の人生観がわからないから相手は本当に嫌だと思わないかもしれない。だから、○○(殴る・悪口を言う)する」というよくない判断になってしまうこともあるのではないか。んー、難しい。たしかに、人生観はわからないため、推測(わかったとしても推測だが)しかないのだけれど、推測もそんなに間違っていない気がする(主観)。宇佐美の主張もわかるため、悩んでしまう。

    (まっちー)

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著者プロフィール

1934年神奈川県横須賀市生まれ。東京教育大学教育学部卒業、同大学大学院教育学研究科博士課程修了、教育学博士。東京教育大学助手、千葉大学講師、同助教授、教授(1993-97年教育学部長、1998-2000年東京学芸大学教授併任)。1961~62年米国、州立ミネソタ大学大学院留学(教育史・教育哲学専攻)。現在千葉大学名誉教授。九州大学、山梨大学、岩手大学、山形大学、秋田大学、茨城大学、上智大学、立教大学、早稲田大学等の非常勤講師(客員教授)を務めた。
著書に『私の作文教育』『教師の文章』『国語教育を救え』(以上、さくら社)、『宇佐美寛・問題意識集(1~15)』(以上、明治図書)、『論理的思考』(メヂカルフレンド社)、『大学の授業』(東信堂)等多数。

「2019年 『教育と授業 宇佐美寛・野口芳宏往復討論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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