初めて知った推理作家・日影丈吉。
41歳の遅い作家デビューではあったが、彼のデビュー作「かむなぎうた」は、江戸川乱歩に「殆ど完璧の作品」と激賞された。
日影丈吉の作風は、推理小説であるはずなのに、その読み心地は幻想的な雰囲気を漂わせた純文学のようである。それは、怪しく幻想的な独特の世界観が作風である、江戸川乱歩が称賛したことからも想像できるだろう。
『地獄時計』は、昭和5年の東京を舞台に、カトリック教会に通う主人公「私」による語りで、彼の周囲で起きた連続殺人事件の顛末を描いている。
日影自身、少年時代にカトリック教会で洗礼を受けており、また語り手の「私」は、日影と同じ年(明治41年・1908年)生まれとの設定であることから、自伝的要素の濃い小説ともいえる。
この作品の根本になっているのは、「神」、「信仰」、「救い」とは何かという「問い」であるように思った。
「私」は、連続殺人犯として美しく寡黙な青年ジャン野々宮を疑うのだが、次第にジャンがイエスとなり、「私」がイエスを売ったイスカリオテのユダのような様相を見せてくる。
タイトルの『地獄時計』とは、時間を示す数字が24の数字で配置され、中央に悪魔が座っている時計の絵のことだ。
「悪魔の支配する時間は永遠に続き、地獄に堕ちた私たちは、その世にも恐ろしい陰気な時間から、絶対に抜け出せない」、この恐ろしさはカトリック教徒ではなければ、わからないものなのかもしれないと「私」は思う。
「地獄へ行かないという確信」を持ちながら、「地獄時計によって表される地獄へ行く恐怖」に陥るジャン。
ふたりは同様に「神」とはなんであろうかを追求しながらも、ジャンは「新しい神」を求め、「私」は信徒でありながら、教会や信仰から少し距離を置いていく。
物語は「私」だけでなく、読者であるわたしをも一瞬理解不能に陥らせながら、突然の終わりをむかえることになる。
いったい「神」とはなんであろうか。信仰心の薄いわたしでさえ、ジャンが「新しい神」と認めたものを知ったときは考えた。
そして、ジャンへと赦しを乞いにいった「私」に彼が語った言葉は、この先も「私」が彼を思い出すときには、真実を覆い隠す霧の役目となるのだろう。
夢か現か。惑わされ、はぐらかされ、本当にわたしは推理小説を読んだのだろうか……、そんな曖昧な気持ちにさえさせる。『地獄時計』はそんなミステリであった。