- Amazon.co.jp ・本 (244ページ)
- / ISBN・EAN: 9784250208171
作品紹介・あらすじ
発掘50年、日本考古学の大家の名講義。発掘調査のさまざまな経験、エピソードを織り交ぜながら「考古学とは何か」を楽しく、平易に解説。大学のテキストにも最適な考古学入門。
感想・レビュー・書評
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近藤義郎は、考古学を学び出して佐原真と並んで私の最も尊敬する先生であるが、この本を読んでその感を更に強くした。
これは、近藤教授が定年退職して96年に一年間行った市民講座の内容を纏めたものである。目次だけをみると、大学の概論と全く変わりない。しかし内容は、例や閑話として話される内容は、ほとんど文明論であり、思想書である。まさに日本考古学の「資本論」といった趣がある。マルクスも、難しい経済理論の中に彼の凡ゆる思想をぶち込んだのである。
ある時には、毒舌の様な、世の考古学徒批判も述べる。
「神がかりで歴史を書いたり喋ったりしたら、どうしようもない。(7p)」
「このビルの前に本屋があるでしょう(←紀伊国屋のこと)。あの三階に考古学の本がありますね。あの本のうちの八割までが迷論珍説の類です(笑)。(略)いろいろな物が氾濫し、世の中グチャグチャになっているわけですね。(74p)」
日本の歴史的な誤りもきちんと批判する。
「日本が朝鮮を植民地にした時の「略奪的発掘」も「考古学者もどき」が行っている。遺物の返還をしないといけない。「北朝鮮には全く返還しておりません」(27p)」しかも、応援の証として、近藤教授は、定年の時に自分の蔵書のほとんどを釜山大学に寄贈しているという。(65p)
こういう指摘もきちんとしてくれている。
「岡山市と倉敷市は、発掘にあまり一生懸命になっていない岡山県下の地方公共団体の両雄です(笑)。(72p)」
ホントつくづく思うが、岡山県ほど郷里の文化的価値について自覚していない県はないのではないか。
近藤教授は、物事を批判的に見る目がものすごくあった人だと思う。
それは、文明や文化を見る視点でも同じだった。
ノコギリだけでも、日本には数百種類もあった。それが現代ではチェンソーという単純で画一的に機械化された一つの物に凝縮されている、という例を見せながら、近藤教授は「これははたして進歩といえるのかどうか」という深刻な「問い」を発している。(88p)
日本には沖縄と北海道という違う文化があったことは知られているが、近藤教授は更に八重山列島文化とオホーツク文化の存在も指摘する。「現代の日本文化の中にオホーツク文化も、八重山文化も、沖縄文化も、アイヌ文化も、少しづつ生きている。どこか生きているんです。やはり我々はそのことを大事にしなければならないだろうと思うわけであります。」(156p)
最も発達した戦いの道具として、核兵器が出てきた。核兵器が人類の進歩を示すのかどうか、「万歳万歳、人類の進歩万歳」といえるのかどうか、僕らは考えなくてはなりません。何千年もの人類の歴史を見ることによって、「それじゃ人間はどこで間違えたのか」という問題を考えなくてはなりません。(228p)
その他にも近藤教授は、食糧汚染、大気汚染、温暖化、いじめなどの若者の考え方が荒んだ方向に行っていることなどを「現代の課題」としてあげている。
「そういうなかで、我々人類が確信もてる思想は一つしかないと僕は思うんです。民主主義の思想だけ、だと。(241p)」
2012年7月13日読了詳細をみるコメント0件をすべて表示