- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784267019807
感想・レビュー・書評
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内田樹は、本書を「人と人との結びつきのありかたについて、あれこれと論じ」たものと説明している。その具体的な対象は、家族・学校・地域などの、いわゆる「共同体」である。。
私が「なるほど」と思ったのは、「第4講 格差社会の実相」だ(他の話ももちろん面白いのだが、特に興味をひかれたという意味)。
「格差社会というのは、成員たちが単一の度量衡で格付けされる社会のこと」であり、現代の日本で用いられている、その単一の度量衡は「年収」であると内田樹は述べている。
そして、高い収入を得ている人間と低い収入に甘んじている人間は、同じ条件で競争して、その才能と勤労努力の差によって差別化されている、すなわち、年収の差は、フェアな競争を経た結果であり、低い年収に甘んじていることは「自己責任」であるという話になっており、何らかの理由で競争に負けて、あるいは、参加できずに生活が立ち行かなくなった人々を公的システムが救済すること、例えば、生活保護手当を支給することを、「アンフェア」であると言い募る人たちがいることを語っている。確かに、そのような言説をネット上で見かけることがある。
また、公的な救済システムを支持する人たちは、逆に年収が低い人たちが、「オレは貧乏だけれど、愉快に暮らしているよ」ということを許さない。なぜなら、生活保護システムをはじめとする公的救済システムを支持している人たちも、同じ価値観、すなわち「人間の価値は年収で決まる」という考え方には同意しているからである。「貧乏なのだから絶望的に苦しんでいるからこそ救済が必要」というのが彼らのロジックであり、「貧乏だけれども、それなりに愉快に暮らしている」という話には、(生活保護システム自体に賛成している限り)同意できないのだと内田樹は語っている。日本の伝統文化の文脈にある「清貧を楽しむ風儀を知っている人間」というのは、その人たちからは評価されないというか、そういう人がいることは許されないのである。
そして、「競争」が「どちらが年収が高いのか、どちらがお金を儲けているのか」という競争である以上(そして、それが社会的に認められている、というか、それこそがフェアな競争であると考えられている限りは)、人々は共同体のことよりも、自分自身のことを優先してしまうと、内田樹は更に話を進める。「成員みんなが、勝者が総取りし、敗者には何もやらないというルールで、フェアな競争を続けていれば、そのような社会では、自己利益以外の価値、つまり公共的な価値、例えば"自然環境の保全"や"社会インフラの整備"や、最終的には"国を護る"義務さえ人々は感じなくなる」と述べている。
そして、それが国家目標(お金を効率的に設けること)となり、政策決定の基本的なベースとなっていることを嘆く。「どうして、国家目標が"スピーディな政策決定と効率的な金儲け"に縮減されなければならないのか。そのためには、国土が汚されても、自然が失われても、階層格差が拡がって、社会的弱者が切り捨てられても、集会結社の自由や言論の自由が制約されてもしかたがない」というのが、今の日本の基本的な考え方ではないかと述べている。
上記のような内田樹の考えは、ある程度、「なるほど」と思う。しかし、実態はそこまではひどくないのでは、とも一方で思う。
私はこの感想文を2023年11月に書いているが、この時期は、岸田首相の支持率が就任以来最低の30%まで下がった時期である。30%という数字は、岸田政権として最低数字であるばかりではなく、過去の首相の支持率の末期に近い数字である。支持率が下がったのは、閣僚に不祥事が相次いだこともあるが、それよりも、岸田首相が「減税」を打ち出したことが大きな理由だと思う。「減税」を打ち出して、なぜ支持率が下がるのか、ということであるが、私自身はこのように思うというか、下記のように感じた。
■「減税により、経済的メリットを与えておきさえすれば、国民は満足するのだ、国民は結局は金が欲しいのだ」と岸田首相に言われたと感じたから。「どうせ金でしょ?」と、軽く見られたわけである。
■「本当に減税が、今の日本にとって最も重要な政策なの?」という疑問を多くの人が感じたから。日本にとっての重要な問題は他にもある、例えば、少子高齢化、経済格差、人手不足等。その中で、何が重要なのかということについては、人によって意見が異なるだろうが、1年限りの減税で、これらの問題が解決し、日本が良くなるとは思えないと感じる人が多かったのだと思う。というか、どう考えても解決しない。
言いたいのは、為政者が、「明らかに」変なことを言い始めたり、「明らかに」変なことをやり始めた場合(今回の「減税」政策)には、それに対してビビッドに反応する人がまだ日本には多いのではないか、と私は感じたということである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「そうでない人」を排除して、社会的に良いことなど、あるのだろうか
最近、日本も日本人もおかしくなってきている。
この、「おかしさ」を言語化することにおいて、内田氏は相当長けていると思う。
毎ページ「そうだよな」という箇所が、たくさんある。
最近の少なくない日本人が、なんでもかんでも、
他人をバッシングするようなメンタリティーになっている。
日本社会の通念上で支配的な倫理観や道徳感に照らし合わせて、
個人や集団、組織の「間違い」を見つけて、徹底的に批判するようになっている。
まるで、それが、自分の義務みたいに思っている人も多くなっているんじゃないだろうか。
個人的には、非常に気味が悪い現象だと思う。
その現象の背景にあるのが、完全なる人を求めて、
宗教用語を使えば、逆説的に個人救済を求めているような感じを受ける。
もちろん、この現象の背後には、今の日本のかなり絶望的な状況にある。
改めて言うわけでもなく、もう日本は豊かではありません。
貧困率も20年前と比べて高くなり、
経済成長は、この20年でほとんどしていない。
また世帯所得も94年から25%ほど減少している。
また人口減少に直面し、日本の社会システムの抜本的な改革や変更が求められているが、
現状「変化」できない構造になっている。
そのため、多くの人が不安になり、個人の安定と救済を求めるのは、
非常に理にかなっていると思うが、現状、手軽な個人の救済はないと思う。
おそらく、無意識的に完全なる誰かを求めて、そうではない人を、
排除する意識が起こっているように思う。
この意味で、今の日本の社会状況は、非常に危険な状況だと思う。
「そうでない人」は、ほぼ日本人の全てに当てはまる。他人のミスや欠点を、最大限努力して見つけ出すことが、エトス(行動様式)となっている。
この行為は、まったく社会的寄与しないし、
そして、生産性もない。
「そうでない人」を排除して、社会的に良いことなど、あるのだろうか?
ただ、この傾向は、おそらくこれからも続いていくに違いない。 -
内田樹氏はいつも、「現代」を鮮やかに切り取って僕たちに示してくれる。この本では、「家族」「学校」といった共同体を軸に、激減してしまった「おとな」がするべきことを説く。
「父親の没落と母親の呪縛」の章では、“現代日本のシステム的に、家庭内に父親の居場所というものはない”といった内容が尋常ならざる説得力を持って語られ、胸をえぐられるようであった。
そして、コミュニケーション能力とは「人と気持ちよく会話する能力」ではなく、「コミュニケーションが成立しなくなったときに対処しようとできる能力」である、という記述が印象に残った。 -
リーダーシップについて語る本は数多あるが、フォロワーシップについて切り込む内容のものはなかなかない。ていうか、まずそういう視点にならないし。そんなところ気付かないし。
そこがさすが内田樹なのです。
フォロワーシップ、つまり弟子論。
弟子論といえば漱石の「こころ」。
『先生』を盲目的に追っかけていた『私』は、最終的に『先生』の生そのものを余すことなく受け入れることになった。
誰をフォローするのか、その直感力がすごく大事であり、「こころ」では『私』のフォロワーシップが存分に発揮されたことになる。
結局『私』の真面目さが『先生』のお眼鏡に叶ったわけだが、そういう師がいて弟子がいてっていう関係が、どうやら健全な共同体の根っこにあるらしい。
今は何でもイーブンな関係というのが取り沙汰されるが、そういう風潮に待ったをかける貴重な論考。
やっぱりさすが内田樹なのです。 -
『潮』に断続的に掲載されてきたインタビューをまとめたもの。ただし、単行本化にあたって全面改稿が施されており、掲載時の内容とはかなり違ったものになっている。
インタビューがベースなので平明な話し言葉で書かれており、読みやすい。
内容は、教育論・家族論・コミュニケーション論・地域共同体論・師弟論など。
多彩なテーマなので、「共同体論」という大雑把なくくりにするしかなかったということか。
各章とも、軸になっている主張には、旧著の焼き直し的な面が強い。
たとえば教育論の部分は、『狼少年のパラドクス――ウチダ式教育再生論』や『下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち』などでの主張と一部重なる。師弟論の部分は、『先生はえらい』などでの主張と一部重なる。
したがって、内田本のヘビーな読者(私も半分以上は読んでいる)から見ると、あまり目新しい創見は見当たらない。
しかし逆に言えば、過去の著作群の「いいとこどり」をした内田樹入門として、よくできた本である。
心に残る必殺のフレーズが、随所に登場する。さすがにうまいこと言うなあ、という感じ。
私が傍線を引いた箇所を、いくつか引用してみよう。
《ネットでも、人を傷つけたときの「手応え」ってわかるんです。闇夜に向かって銃弾を放っても「手応えがあった」という言い方をしますよね。それと同じです。目に見えなくても、わかる。ネット上であっても、攻撃した相手が感じているはずの痛みや屈辱感はなんとなく察知できる。それは一つの「手柄」としてカウントできる。》
《道場で子供たちが礼をしている相手は先生じゃないんです。先生を通じて「巨大な自然力」「野生の力」に対して礼をしている。(中略)そういう種類の、超越的なものに対する畏敬の念が、あらゆる礼節の基本なんです。》
《自己発見のためにはルーティンを守るということがけっこう大切なんです。毎日毎週同じことを繰り返していないと、自分の中に生じた変化がわかりませんから。》
《次世代の担い手は、「先行世代の成功例を真似する人たち」からではなく、「先行世代の失敗から学ぶ人たち」から出てきます。これはどんな場合でもそうです。》
《自分には師もいないし、弟子もいないと豪語する人がときどきいますけれど、そんなところで力むことないのに、と僕は思います。師弟関係というのは、実践的な面だけに限定していえば、「老眼鏡」とか「辞書」とかと同じで、それがあると「ものすごく作業効率が上がるもの」なわけです。どうしてそれを活用しないのか。僕はそのほうがむしろ不思議です。》 -
今作も「ふむふむ」と頷きつつ読了。
職場で遭遇する利己主義の塊のような学生に届く言葉を模索中。 -
『階層の二極化と反知性主義の関連は、指摘する人があまりいませんけれど、これは車の両輪のような現象だと思います』 ー『第七講 弟子という生き方』
例えば郊外の森に囲まれた一軒家に暮らすことにどれだけの価値を見出だせるか。自己充足的な生活が可能で、自然豊かな環境が整っているとして。
その問いに応えようとすると、どれだけ個人主義を標榜しようとも、人は究極的には社会的生物であるということを思い知る。なに不自由なく暮らせるとしても、人は他人との遣り取りを求めるもの。例えば最近読んだ「極北」の主人公が、閉ざされてはいるが安定している現状から不確かな未来へ向けて行動することを選択しても違和感なく追うことできるのもその証であったのだと気付く。結局、内田樹先生が「当たり前」のこととしている感覚の拠り所はその辺りに根元があるように思う。
共同体というもの対する相性は、個人的には余り良くない。そもそも、全体主義的匂いのしそうな考えには鳥肌が立つ。でも、弟子という生き方には共感が湧く。自分自身のこれまでを振り返ってみて、自分のしてきた努力はというものは結局のところ尊敬する人の見渡している高みにへ近づきたいという単純な動機に裏付けられたものであったなとの想いもある。
なるほどなぁ、とまたしても眼から鱗が落ちるような感慨に捕らわれる。内田樹先生の指摘は相変わらず説得力がある。一見正しそうに見えるものの真の構図はこれこれこういうことなんですよ、と、またしても自分が如何に目明きの癖に何も見えていなかったかを思い知る。
そして全体主義を忌避して敢えて取った行動が、反って全体主義を助長しかねないということを指摘され、ぐうとなる。これからは精々ゴミを拾う人になろうと思う。 -
個人的に気に入っている内田樹先生の本。
内田先生の本は大体読んでいるので、内容的には
今までの著書と大きくは変わっていないように思えます。
だから、新しいことはあまりないのですが、
だんだん内田先生の書いていることが、先鋭的・過激に
なっているような気がします。彼の意見に異をとなえる
というか反対者を過激に攻撃するというのではなくて
なんか書いていることが、純化しているという感じ
がします。当たり前のことを、彼の素晴らしい理屈で
展開されていて、それがとても気持よくどんどん読み込めていく本だと思います。
最後の章(講)の『弟子という生き方』の部分では少し
粘着性のあるどろっとした話もあって、ここは新しい部分かと思います。
また、教育の大切さ。教育の本質。人間関係の根っこ
がこの理屈にあるような気がします。 -
内田先生の本はもう何冊も読んでいるのだけど、レビューを書くとなると難しくていつもうまく書けないでいる。最初に書いておくと、今回もレビューにはならなさそうだ。これまで何冊も読んでいるせいで、内田先生が仰ったことに自分がただ同意しているだけなのか、元々自分がそう思っていたのか、もう分からなくなっているから、というのがレビューを書きづらい理由。
さて、この本では家族やコミュニケーション、教育、地域共同体など、「人と人との結びつき」のありかたについて論じられている。いずれも単純で身近なテーマであり理解に苦しむような箇所はなく、今の日本の現状について「何かおかしくないか?」と思っていたこと、あるいは実は感じていたことに気付いていなかったようなことについて言及された箇所にくると、「あ、この違和感はここからきてたのか」と気付かされることが多い。たとえばよく教育問題として挙げられているいじめ、学力低下についても、ただただ憂うのではなく、「どうしてこうなったのか?」「これからどうすればいいのか?」が述べられていて、結局は「おとなになりましょう」「若い人の成長を支援しましょう」といった「当たり前のこと」に帰着している。そういった「当たり前のこと」に帰着するような問題がごろごろ転がっているのはなぜか?という問いをたてると、「変化」「スピード」を求めすぎている現代日本の様々な問題点が浮かび上がってくる。
この本に書かれていること全てが正解ではないだろう。ただ、少なくとも、今起きている問題はこれまで私たちが選択してきたことの「結果」であり、ただただ「何とかしろ」とがなり立てるだけで状況が好転することは有り得ないということだけははっきりしている。まずは「足元の瓦礫を片付けること」からやっていくしかないのだろう。
(一部の表現・文章はまえがき、本文より抜粋)