- Amazon.co.jp ・本 (118ページ)
- / ISBN・EAN: 9784305706195
作品紹介・あらすじ
うたの森に、ようこそ。
柿本人麻呂から寺山修司、塚本邦雄まで、日本の代表的歌人の秀歌そのものを、堪能できるように編んだ、初めてのアンソロジー、全六〇冊。「コレクション日本歌人選」の第1回配本、塚本邦雄です。
少年時代、私は一通の手紙で彼と出会い、彼の「楽園」に案内されたのであった。塚本邦雄は、実際に逢うまでは実在の人物かどうか、私たち愛読者にさえ謎であった。----寺山修司
塚本邦雄(つかもとくにお)
前衛短歌運動の輝ける旗手として、詩歌の可能性を飛躍的に拡大し、戦後日本で「短歌には何ができるか」を鋭く問いかけた。その苦闘の成果は、世界的な混迷を深める二十一世紀で、「芸術と人間は何をなすべきか」を見いだすための手がかりとなる。「前衛=難解」という従来のイメージを払拭(ふっしょく)し、塚本が追い求めた「短歌」の生命力に肉迫する。そのために、五十のキーワードに基づく秀歌五十首を選び、塚本ワールドへの入口とした。また、それぞれの歌を多角的に理解するために、本文では歌の鑑賞を行い、脚注では歌の背景を詳しく解説した。一首の歌を本文と脚注とで「二度味わう」ことで、塚本短歌の発生と影響力が、あますところなく解明される。
感想・レビュー・書評
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塚本邦雄の50首を収めた入門書。身近に接していた島内氏ならではの構成・解説である。
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枇杷の汁股間にしたたれるものをわれのみは老いざらむ老いざらむ
塚本邦雄さんと言えば、まずその「正字正仮名」で紡がれる、反世界的な王国に驚かされた記憶があります。そして、そんな絢爛な王国が美しいとも。本書では塚本さんとも親しかった島内さんの温かな切り口から撰ばれた、初期から歌集未収録の辞世の句までの50首です。私の好きな歌は収録されていませんでしたが、それでも素晴らしい歌と素晴らしい読みを堪能できて値段も良心的ですし、満足の一冊でした。読書案内のページにも食指の動きまくる魅力的な本が…! いいですねえどんどんすひこまれていきます -
「現代短歌」を代表する塚本邦雄。
「新古今集新論―二十一世紀に生きる詩歌」を読んで、その斬新な視点に興味をもって、その短歌を読んでみることにする。
なんとなく新古今的な幽玄というか、象徴的なものをイメージしたのだけど、目に飛び込んでくるのは、漢字の正字の字面だったり、反戦であったり、社会への憎悪だったり、でまずは驚いた。
そっか、三島由紀夫などとも親交があった人なんだな〜。
と薄く理解しつつ、だんだん、その世界に慣れてくると、なんともいえない凄さを感じられた。
それにしても、圧倒的な歌集とさまざまな著作の数々、そして国文学に限らない読書量、さまざまな活動量に圧倒されるな。この人は、時間をどういうふうに使っていたのだろう? -
新着図書コーナー展示は、2週間です。通常の配架場所は、2階開架 請求記号:911.108//Ko79//19
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最初にこれだけは言っておきたい。この本の評価(★2つ)というのは、塚本邦雄の短歌の評価ではなく、この本全体の作りや評論に対する評価です。私は塚本邦夫の短歌が好きです。
このシリーズの北原白秋の巻を読み、その適切な距離感とコンパクトでまとまりのよいつくりに非常に好感を持ったため、この塚本邦雄の巻も手に取ったのだが、どうもこの著者の「読み」は私には合わなかったようだ。少々感情的かつ断定的に思われ、読むのが時折苦しかった。
著者は塚本邦雄と実際に交流のあった人だそうなので、塚本氏と身近に接していたからこそ伝わるエピソードも多く、そういう意味ではとても貴重な資料とも言えるのかもしれない。 -
・コレクション日本歌人選の一冊、島内景二 「塚本邦雄」(笠間書院)は 意外に小冊であつた。初めて著者と書名を見た時、それなりにまとまつた研究書ではないかと想像した。著書島内氏は塚本全集の編者である し、以前から源氏を 中心とした中古文学の研究者として知られてをり、最近はその幅が近代にまで広がつてきて、あちこちで名前を見かけるやうになつてゐた。だ から、いよいよ本 格的に塚本研究を始めたのだと思つたのである。ところが書店で実物を見ると、薄い、小さいといふ実感であつた。安いのはだから当然なのだ が、それにしても この薄さは何だと思つたものである。理由は簡単であつた。この双書は「日本の歌の歴史に大きな足跡を残した代表的歌人の秀歌を、堪能でき るように編んだ初 めてのアンソロジー」(帯)だからである。本編短歌50首に簡単な年譜と、解説、読書案内、そして寺山修司の文章が載る。これだけであ る。短歌は見開きに 1首、そこに解説がつく。これは二段構へで、上段はその短歌そのものに対する解説、下段の小活字はその関連項目等に関する解説である。本 文100頁、しか しこれらをきちんと読んでいくとそれなりに時間がかかる。私はすぐ読めると高をくくつて読み始めた。ところがすぐには読めなかつたのであ る。なぜか。たぶ ん読み流すことができなかつたからである。
・私は一応塚本邦雄選歌誌『玲瓏』の会員である。一応とつけるのは、私が最近の集まりに全く出席してゐないし、出詠もしてゐないからであ る。それでも会費 は納めてゐる。塚本本人とも、島内氏とも面識がないわけではなかつた。しかしそれだけである。それだけのことだから塚本と身近に接してき た人達とは意識が 違ふ。これは個人的なことであらうとは思ふが、私には「師」といふ意識が薄いのである。私には島内氏のやうな塚本とのつながりもない。そ れでもやはり本書 には読み捨てにできないことが多いのである。例へば第1首目「初戀の」、ここで島内氏はハツコイは「初恋」ではないと強調する。「初戀」 である。これは所 謂旧字体であるが、「塚本邦雄は、これを『正字』と読んでいた。」(2頁)同様に、「塚本は『旧仮名』を『正仮名』と呼んだ。」(6頁) 所謂正字正仮名で ある。私は塚本をまともに知る以前から正仮名の使ひ手であつた。塚本を知つて以後、私は新仮名を捨てた。こんなことがあるから、これだけ のことでも考へて しまふのである。だから「正しい漢字を捨ててしまった現代日本文化は、どんどん底が浅くなり」(3頁)などと書く島本氏に羨望の念すら抱 いてしまふ。もち ろん島本氏は塚本を代弁してゐるにすぎまい。それでもさう言ひ切つてしまへることは私には驚異である。同じく語割れ・句またがりもまた私 には驚異である。 若き塚本はこの「新しい詩歌の文法を発明し、実験し、結晶させ、歌壇に提出した。」(10頁)といふ。私は句またがりは人為的なものでは なく、古典和歌の 時代からあつたと考へてゐた。言葉の選択により、あれはいつでもどこでも起きるものだと思つてゐた。ところがさうではないのである。塚本 は意識的に行つた のである。島本氏は語割れ・句またがりは「現代短歌に『変=革命』を起こそうとした塚本邦雄が、満を持して提出した新技法」(11頁)で あつたといふ。さ ういふものであつたのか。私達はその上にあぐらをかいてゐただけなのか。認識不足を痛感するとともに、これもまた驚異であつた。こんなの があちこちにあ る。だから私にはさう簡単に読めないのである。かういふ個人的な感懐を抜きにすれば、本書は塚本入門としてよくまとまつてゐる。広く読ま れんことを願ふば かりである。 -
いままでにないなにかをうちたてることについて考える。そのためにはなにかをどうにかしなければいけないのだが、そのどうにかはあれやらこれやらいろいろやんなきゃいけないことがたくさんあって、ふつうのひとならこんがらがってしまったり、まあこんなもんかとだいたいでいってみたりしてしまうところを、このひとのばあいはそのあたりぜんぶをきっちりきっちりこなしてみせてきた(おとしまえつけてきた、ともいえますね)、そういう印象。そうそうできないよね、ってことです。
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著者は国文学者、若くして塚本の短歌の弟子(のちに学問に専念するよう言い渡された)にもなり、
晩年まで親しく接した人物。
塚本が生涯漢字の旧字体と歴史的仮名遣い(正字正仮名)を使ったことや、
頻繁に使用された「語割れ・句またがり」が如何なる効果を発揮したかにはじまり、
塚本が築いたもうひとつの確固たる言葉による世界の詳細な成り立ちから、
前衛短歌を以って、どういう敵とどのような戦略で切り結ぼうとしたのか、
歌人としての嗜好は、またプライベートな「人間・塚本邦雄」の生涯は、などが、
50首の紹介を通して、パズルが少しずつ嵌る様に全体を浮かび上がらせる刺激的な入門書。
歌集だけでなく小説・評論はじめ創作ノートや住所録から、塚本本人の言動までが、
縦横に引用され、さらに本文だけでは足らず脚注部分まで追記で一杯にしてしまうなど、
古典を生命あるものに一変させ、社会批評としての短歌を確立した歌人が奥行き深く描写されている。
その紹介文に付された小見出しも痛快で秀逸「日本人なら'源氏物語'くらい読め」「比喩の衝撃力が、
虚構を現実に変える」「憎しみのエネルギーも、生産的である」「'狂歌'の風刺で、権威を脱力させる」等々。
個人的には難解な印象(実際塚本のアンソロジーはいくらか愛読しているものの、その短歌は苦手で
敬遠気味だった)のある前衛短歌の解説書が、こんなにも面白く読めるとは思わなかった。