- Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309023939
感想・レビュー・書評
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不思議な出会いということがある。黒川創という人の仕事について、ここのところ読み継いでいるのは、彼の「鶴見俊輔伝」にたどり着く前の下調べ。サッサと読めばいいだろうということなのだが、肝心の「鶴見俊輔伝」が手に入っていない。そんなこんなしている年明けに、佐伯一麦の「麦の日記帳」のおしまいのほうで、こんな記事に出会った。
《一月某日
評論家で小説家でもある黒川創さんが、奥さんで編集者の滝口夕美さん、娘さんのたみちゃん(二歳)妹さんの画家の北沢街子さんと、その旦那さんで地球物理学者の片桐修一郎さんとともに来訪する。さながら黒川組といった面々。
二年前の六月に小樽で授賞式があった最後の伊藤整文学賞を、私は「渡良瀬」で小説部門、黒川氏は「国境 完全版」で評論部門の受賞者となった縁で、付き合いが生まれた。北沢街子さんは現在仙台に住んでおり、二月にご主人の勤務先が変わり、福岡県に引っ越してしまうので、その前に一度妹がすむ街を訪れたい、ということだったらしい。》
実は、ここで佐伯と同時に受賞した評論「国境 完全版」(河出書房新社)は、ぼくが「黒川創の仕事」と勝手に題をつけてシリーズで案内しようとしている作品の中で、今のところトリをとる予定の著書で、今回は「鴎外と漱石のあいだで」(河出書房新社)という、その本から生まれた一冊を「案内」しようと書きあぐねていたのだが、そこに佐伯のこの記事がやってきた。
この夏から関心をもって読み継いできた小説家の佐伯一麦と評論家の黒川創の二人が、偶然、伊藤整文学賞でつながっていたということ知って、「あわわ…」という感じで意表をついたのだが、一方で、「えっ、つながってるじゃないか」と腑に落ちた面もあった。
佐伯の「渡良瀬」という作品を案内する中で、なぜ「渡良瀬」という題名なのだろうという疑問に、「日々のうたかたのような人の暮らしを描く小説の最後に、この風景を描くことで、人の命や生活を越えた時間が小説世界に流れ込んでくると作家は考えたに違いない。」という推測を記したのだが、渡良瀬川の遊水地の歴史を大正時代、中原淳一の挿絵とセットで一世を風靡した「少女小説」の作家、吉屋信子が父を語ったこんなシーンが「鴎外と漱石のあいだで」にある。
《小学生の吉屋信子は、梅雨空の夕暮れどき、自宅のからたちの垣の前に立っていた。こちらに入ってくる人がいて、蓑を着て菅笠をかぶっていた。当時、それらはすでに古風な農村の雨具だったが、強い印象を受けたのは、この客人の顔だちだった。
老顔に白いひげが下がった。ぎろっとした目のこわいおじさんだった。あわてて逃げ出そうとすると、いきなり、おかっぱの頭をなでられた。節くれだった太い指の手で、なでるというより、つかまれた感触だった。
母親は、蓑笠姿のおじさんを平伏して迎えた。役所から帰っていた父親も、奥から現れた。母はお酒の支度をした。客の好物の青トウガラシをあぶるために、女中は八百屋へ走らされた。こうやって大騒ぎでもてなした客が、田中正造という天下の義人とされている人だった。
― けれど、円満解決はえられなかった。やがて年を経て、谷中村を水底に沈めるために強制的に土地を買収、村民立退きの執行官吏として、父がその村に出張したまま一か月も帰宅できずにいる留守に、幼い弟は疫痢にかかって危篤状態に陥った。
弟が亡骸となってから、父はやっと帰宅した。夏で、白ズボン、脚絆、わらじ履きの土足のまま座敷に駆け込み、死児を抱き上げて、うろうろと畳の上を歩きまわった。それも束の間、小さな蒲団にわが子のの遺体を戻すと、待たせていた人力車に乗り込み、再び谷中村へと引き返してゆく。
夫を見送ると、母はその場で気を失い、しばらく動かなかった。父が急いで村にまた戻ったのは、強制立ち退きに最後まで応じない農家十三戸を、家屋を破壊しても追い立てる、残酷な仕事が残っていたからだった。
やがて、さらなる父の転任で一家がその土地を去ったのち ― 一九一三年(大正二)、田中正造翁の逝去が伝えられた。
仏壇に線香をあげて、母は言った。
「人のために働いた偉い人だったねえ…」
その人の好物。トウガラシが色づく初秋だった。》
足尾銅山から流れ出した鉱毒が渡良瀬川流域を汚染した対策として、鉱毒沈殿のために作られた遊水地。その過程で、全村水没の悲劇に抵抗した谷中村の戦いを支えたのが田中正造であり、政府から派遣された郡長として計画を実行したのが、吉屋の父、吉屋雄一だった。
二人の出会いを、信子の著書から引いてくる、この手つきが黒川創の方法なのだ。大文字で語られてきた歴史的事件のなかに、人の背丈をした人間を配置することで、歴史の姿が変化する。
ちょうど、佐伯の小説と反対の方角から、やはり人間の姿に迫ろうとする方法といっていいと思うが、同じ、渡良瀬の遊水地の話題で、二人の作家が別々の仕事の現場で、ほぼ同じ時期に遭遇していることは単なる偶然だろうか。
ところで、ようやく肝心の案内ということになるのだが、これが難しい。話題が多岐にわたっていて、まとまりがつかない。
黒川は「国境完全版」のあとがきでこんなふうに書いている。
《夏目漱石という作家は、二〇世紀初頭のたった一〇年間を、創作に心血を注いでいき、そして死んでしまった。彼は時代への参加者でありながら、優れた傍観者でもあった。私には、その人柄が、ほほえましく感じられる。森鴎外という人が、支配体制の枠組みの中に辛抱してとどまりながら、つい、時々は、崖っぷちのぎりぎりまで覗きに行って、また戻ってくる、そうした態度を示すことについても、また。》
「鴎外と漱石のあいだで」は1894年、日清戦争後の台湾軍事統治の現場にいる軍医、森鴎外の姿から書きはじめられている。?外は大日本帝国の東アジア進出の当事者としてそこにいる。
面白いのは、50年の後1945年、鴎外の長男森於菟は台北帝大医学部の解剖学の教授であり、箱詰めにされた?外の遺稿資料のほとんどがこの大学の倉庫に眠っていた。
森於菟は、なさぬ仲の義母、森しげとの確執からか、父の遺品をすべて赴任地に持って行ったのだそうだ。結果、森家の旧居すべて、戦災で灰燼に帰したにもかかわらず、現在の「森鴎外全集」(岩波書店)の資料は無事だった。資料の帰国事業を担ったのは台湾の「日本語文学者」だったそうだ。
一方、1903年、英国留学から帰国した漱石を待っていたのは、1904年日露戦争、1905年ポーツマス条約、1907年足尾鉱毒事件、1909年伊藤博文暗殺、1910年大逆事件・韓国併合、1911年辛亥革命。日本のみならず、東アジアの近代史を揺るがす大事件が立て続けに世間を騒がせ続ける中にあって、1907年朝日新聞社に入社し、「創作に心血を注ぎ」始める。
「それから」「門」という作品の中で大逆事件が、なにげなく話題になっていることは知られていることかもしれない、しかし入社第二作「坑夫」が足尾鉱毒事件のさなかに書かれ、足尾銅山の坑夫の話だということは気づいていなかった。前述した吉屋信子のエピソードは、漱石のみならず、近代の日本文学の社会とのかかわりを示唆している。
もう一つエピソードを上げれば、第一作「虞美人草」の女主人公藤尾のモデルが平塚雷鳥というのは有名だが、入社の前年に書かれた「草枕」の女性「那美」のモデルは前田卓(つな)といい、辛亥革命の立役者、黄興、章炳麟、孫文が亡命地日本で集った「民報社」で働く女性であったそうだ。
1911年、鴎外が推薦人として名を連ねた文学博士号授与を、あくまで拒否する漱石の立っていた場所。漱石はタダの傍観者ではなかったようだし、鴎外は文学者としては、想像を超えた崖っぷちに立っていた。
黒川創が描こうとしている「日本語の文学」の成立という大きな構図が本書では背景に身の丈で立たせている二人の姿から見えてくる。(S)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2015.09.16 北澤さんのレビューより
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日露戦争、大逆事件とゆらぐ20世紀初頭、もう日本語は日本人だけのものではなかった。鴎外や漱石はじめ、作家は何を、どう書いたか。東アジア全域に射程を広げ、日本語文学史を刷新。
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熱い夢・冷たい夢 黒川創インタヴュー集
http://honto.jp/netstore/pd-review_0600540261_191.html
矢野顕子と糸井重里が目当てで借りた。
糸井重里っておもしろい。