科学を語るとはどういうことか 増補版

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (344ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309254272

感想・レビュー・書評

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  • 【配架場所、貸出状況はこちらから確認できます】
    https://libipu.iwate-pu.ac.jp/opac/volume/566715

  • 物理学者と科学哲学者が平行線の対談を繰り広げ「あー、そうなっちゃうよね」と思わせる本。
    「実学」志向者が、もうちょっと他人にも伝わるように嚙み砕いた話し方をしたら? と言い、哲学の人が「それだと正確じゃない」と返す感じ…。
    大学生とかのうちにこういう議論をしておく価値はあると思う。大半の人はその後は実学方面に向かうのだけど。

    そういうすれ違い、簡単には決着のつかない議論を楽しむ本である。
    そういう楽しみ方(?)を想定してか、両者の意見がすれ違うような話題をあえて選んだという。また、物理学者も意図的に挑発的な言い方をしているような印象を受ける。

    なお、そもそも科学哲学は一枚岩ではなく
    「科学哲学には、大きく分けて、少なくとも三つは違う興味の持ち方があって、形而上学的な議論(そもそも世界がどうあるのかということについて議論したい人)と、認識論的な議論(我々は世界についてどうやって知るのか、我々の知り方について議論したい人)と、そして、概念的な議論(言葉の意味について議論したい人)がいる。」
    ということなので、1人の科学哲学者がそれらを代表して発言していると思って読むとわかりにくい(本人は代表という意識はないという)。
    そんなわけで
    「もっとバランスのとれた初学者向けの解説書としては、戸田山和久『科学哲学の冒険』(NHKブックス、2005年)、森田邦久『理系人に役立つ科学哲学』(科学同人、2010年)、伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』(名古屋大学出版会、2002年)などを読んでいただければと思う。」とのこと。

  • 摂南大学図書館OPACへ⇒
    https://opac2.lib.setsunan.ac.jp/webopac/BB50245181

    哲学者の議論を「的外れ」とする科学者と、科学者の視野の狭さを指摘する哲学者が、科学とは、学問とは何か、妥協せず論じ合った名著の新版。
    (生命融合科学分野 大塚正人先生推薦)

  • ほぼ喧嘩やん…っていう

  • 増補部分、おだやかななつかし話みたいになっている。

  •  科学も哲学もよく知らずに読んだ上、ふだんからさして役に立たないことをぼんやり考えがちなので、読んでいるうちにだんだん辛くなってきたような…。 ここ数年大きな顔をますます大きくしてきた感のある「役に立たない学問」軽視は、これから先も本当に「役に立つこと」を得続けるのに不可欠な基礎部分をリスペクトしないので、薄っぺらで先細りの住みにくい世を招きそうです(で、もともと気持ちが沈みがちです)。とはいえ一方で「今すぐに役に立つ」以外の分野に社会性が少なくなりがちなことも確かにありそうで、それはそれで「だから余計大きな顔がどんどん大きくなっちゃうんじゃん!」と苛立ちたくなります(この本のことではないです)。
     新聞に掲載される須藤先生の書評を楽しみにしているので、あの須藤先生から見ても「何だかなあ」的なものなのか…?、と、哲学者の先生にももっと頑張ってほしかった、というのが読んでいるときの正直な気持ちでしたが、それはもちろん本当は頑張りの問題じゃなくて、何か深いところまで行ってしまうとそこにいない人には伝える方法がなかなか見つからない、というようなことなのかもしれないです。基礎的な物理学というのもすぐに役に立つ分野じゃない、という点で世間の成り行きと闘っていらっしゃるのかな、と思いますが、まだしも哲学よりは世間に受け入れられやすいかもしれず、「科学哲学」という分野さえ初めて知った素人は混乱しながらも、でもそこのところ、せめて理系基礎分野の方々に対してもう少し伝わる幅が広がれば心強いのかな、と(誰がよ、ですが)思いました。
     それはそれとして…。私にとっては言葉で他のひとと理解し合うための努力の、ある意味究極のあり方を一緒に体験させてもらえる本でした。この「解りあえなさ」を単純な解釈や結論に落とし込んで多少でも安易にすっきりする(その一番の見本が陰謀論かも…)ことをせず、どこまでもちゃんと解ろうとする、というこのストレスフルな諦めない強靭さこそ尊い、と感じます。とりわけコロナ禍とウクライナ侵攻の世の中で。

  •  議論して合意が得られなくても、認め合い議論を続ける関係が形作られる過程を見守ることができる本、面白かった。相対する著者の考えが色濃く出ているため、科学も、科学哲学もそういうものという見方をして読んではいけないだろう。相互の議論という形はとっているものの、結局第三者が編集し、相互の合意点を確認の上出版された創作物である点も、手放しに受け入れるのは危ない。
     ほんの少し垣間見れるだけで、明確に著されていないのだけれども、熱い議論を展開する二人には共通する立ち位置がある。それは国立大学の教員である、ということだ。彼らは研究をし、研究を通して学生に研究を教育し、教育成果を社会に還元する責務を有している。それは、国立大学法人となって、全て税金で賄うような組織ではなくなったとはいえ、社会に資することを、狭くは日本という国の利益を、もっと狭義には日本政府が日本国民に訴え成果を強調している政策効果に、目を向けざるを得ない立ち位置にいるということだ。
     さらにいうと、彼らは政治からは隔絶されている。国の政策に加担することを使命の一部としている組織にいながら、自己の興味においてのみ民衆を見て、声に耳を傾ける自由をもち、民主的な方法によらず意見を述べ、実行することのできる立場なのである。実際、議論に出てくる世間一般や大衆がいかに恣意的に彩られた人間であることか。そして合意できない人、関心を持たない人たちを排除することで得られる自由な思考が、いかに「自分」「自分たち」のためになされるかが垣間見れる。(それゆえ普遍で、精密で、学術として価値ある成果が得られるわけだが。)
     一方、これも議論の中には出てこないけれども、同じ国立大学の教員でありながら全く異なる姿勢をもっていることも注意すべきである。それは、一方の「科学者」は、知識成果を積み上げるため、膨大なヒト・モノ・カネを費やす実験や観測を通さなければならない。もう一方の「哲学者」は広く問題(というより悩み?)を自分のこととして考え通すことを生業としており、事業を絡めなければ研究できないというわけではない。(出版界や言論界を巻き込むという意味では、一定の「事業」と言えるかもしれない。)
     以上の視点はこの本を読む上で非常に重要である。「科学者」は研究をするために研究費を取得しなければならない。私が考える研究費取得の困難には、少なくとも実現性、競争性の二点がある。
     まず実現性。研究費を積み上げるためには、製造業者や建設業者を積極的に動かさなければならず、彼らが実験・観測を行うのに必要なモノと働くヒトにいくらかかるのか考えなければならない。そしてそこで働き「疎外」される人たちに「科学者」と同じ目標を見つめさせ、考え、行動させなければならない。
     そして競争性。自分たちの計画する研究が、他の研究より優位であることを示さなければならない。そのためには、実現性を持つ研究成果が、大きな目標、究極的な課題のどこにつながるのか示さなければならない。
     この異なる立ち位置を踏まえると、「科学者」の鼻息の荒さがどいうものか察することができる。「科学者」は常に実現性と競争性を意識して仕事しているのである。一生稼いでも蓄えられないような大金を遣わなければ、正しいか間違いかの確認すらできない、そして、データを処理して得られる知見をまとめ学位につなげる学生もスタッフの将来もひっくり返ってしまう。また、研究は公共事業である、公共事業としての意味・効果について説明責任全てをもつことはないだろうが一般市民から政治家に至るまで説明は求められるし批判も受ける。現代の「科学者」はそんな立場で仕事をしているのである。さらに、社会への還元という使命を見据えて考え努力しているのである。そんな彼の立場から見れば、「科学者」はさほどぶっ飛んだ見解をもって「哲学者」に闘いを挑んでいるという風には見えない。むしろ、社会生活に直接影響するとか、100年後に役立つといった説明を欺瞞と言い切る考えは誠実であるし、技術や生活への還元よりも「知識が広がること」「理解が深まること」の意義を繰り返し強調する点などは、感銘さえ受ける。
     では「哲学者」はどうなのか。「科学者」とは研究の規模が全く違う。彼らはどの程度研究費を必要として、研究費がなければ進まないことに対し危機感をいだいているのかはわからない。ただ、「科学者」から見れば、研究継続の困難を常々意識し、成果を求めて頑張っているのに、訳のわからない議論を続けて結論すら見えないことばかりしている「哲学者」…研究者たる哲学者…が科学をこねくり回しているのは不愉快極まりないだろう。ソーカル事件の顛末がきっかけというのだから、憤懣遣る方ないという姿勢も理解できる。
     余計なことだが、私は基礎研究に税金を投入することばかり主張している「研究者」集団の無責任と思考停止に辟易しているので、本書の「科学者」にも「哲学者」にも、成果や実力以前に、なんで食えてるのかをまず説明することから始めてくれと言いたい。
     最後に、本書の議論をとおして気づいた科学の限界を述べておく。
     「科学者」は「哲学者」になぜ分かりやすく研究を進めないのかを問う。私は少なくとも、「愛」「死」「罪」や「遍歴」「労働」「生きがい」など、誰の悩みにも触れるようなテーマについては、目標を設定し答えを出すわけではないけれど、分かりやすく問題が設定され、見通しの良い筋道が提示され、決心し進むべき方向を示していく研究は枚挙に暇がない。その点を踏まえると、科学は人の関心を呼んでいないということなのではないか。結局科学でわからない問題が、個人の悩みや恐怖に進展し、人間の(実存のといってもいいのか)根本に帰着しえていないということにほかならず、だからこそ、悩み苦しむ個人に、科学のすばらしさの根源を受け容れられるよう示す努力を要しないのではないか。哲学の根源は悩み苦しみ考える個人にあるのだとすれば、個人の関心を呼ばない科学の限界が一つ見えるわけである。

  • 噛み合わない対談を見守るはなし。
    基本二人の科学者と科学哲学者による素朴な疑問からの議論。
    対話を試みるがうまくいかないところを楽しむのが本書の趣旨。
    科学哲学って何?物理学者のいう科学って何?という要素はあるのだが、
    この本ではなぜこういう展開になるのか、認知と関係性が見えておもしろい。
    互いに分かり合えないなーということはわかっているけど話をしてみたという点では稀有。
    ただ読者にして見たらもやーっとなるので読み方の視点を変えないとナンダこれはとなりそう。

  • 主な内容はお互いがズレた方向を見てお互いの宗教観で言いたいことを投げてるだけで、インターネットでよく見るレスバを見てるような気分。
    想像と違って著者の物理学者が実はとんでもない人で、哲学を全く知らずに物理学だけが自然科学の主でそのやり方を疑うことを全て不毛だと切り捨てている。ヤバ本。
    増補版にあたってはオマケの増補対談が付け加わっており、それがあるから本としての体裁が保たれている。最初の出版から8年後の二人が冷静に当時の議論を振り返っている。この振り返りが先に有ればもうちょっと有意義な議論が出来ただろうに。

  • 2003年の増補版である。それはp.309-349の40ページである。もし読むのであれば、旧版でいいかもしれない。
     理学部での科学哲学の重要性を指摘している。実際は科学から考えるというよりは、科学哲学をどう考えるか、ということであるので、文学部の哲学科で役立つであろう。
     卒論で教育学部の物理専修で哲学で論文を書こうと思っている場合には参考として役に立つかもしれない、

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著者プロフィール

東京大学大学院理学系研究科教授

「2021年 『ものの大きさ 第2版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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