- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309408828
感想・レビュー・書評
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一読では理解できない。
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同性愛と主従関係。それから異端。麻希子にとって背理は世界だと述べられるけれど背理こそ麻希子に奉仕しているようにも感じた。背理も麻希子と同じで従属する性だから反抗的な態度を取り続けているのでないか。この小説が書かれた四十年前の雰囲気を知らないけれど麻希子も背理も同性愛者の律子も社会が求める女性像から大きく外れていることは分かる。そのことに励まされる。
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大学の同級生だった背理と麻希子
二人は主人と奴隷という関係で結ばれてる
そこに同級生でレズビアンの律子、不具の跛の工也が絡む話
松浦さんの話でよく描かれる関係性における従属者と支配者の関係
工也と麻希子は同じマゾヒスト
だからこそ共感し惹き合う部分は多いが対峙すると反発してしまう
背理は世界に馴染まず孤高のように超然としている
そんな背理に支配されたい麻希子の欲望に応える背理
互いに性的欲求はないが精神的に欲してる
そんな事が可能だろうか
それが発育不全だと律子や工也に批判される麻希子
麻希子には人間が区別できず唯一できたのは圧倒的な力を与えてくれた背理だけだった
性も環境も思考も嗜好も麻希子には必要のないものだった
あるのは自分に加わる力だけ
自分と他者との関係性をこれだけシンプルに捉えた概念を書く
ここにこの小説の意味があると思った
誰かを認識するという概念は常に社会通念によって決められていた
そこから逃れる事の難しさをいとも容易く行っていた麻希子
力を加え認識させた背理、律子、工也
彼らの強烈な個性に強く惹かれた
だが、それぞれに消化しきれない痛々しい感情が発露しそのマイノリティ所以の選民意識が会話の節々に表れている部分が私には気になってしまった
驕り 未熟 背伸びのような感情
それを幼い自分との葛藤などと捉えられる書き方ではないが故に社会を人を俗だと侮蔑し自己陶酔してるようにみえた
松浦作品の中では珍しい読後感だった
後書きの松浦さんと富岡さんの対談がなければもっと印象は良くなかった
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「まさにそれこそが理想的なあり方じゃないの。シンプルでシャープでクリアーだってことは」
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男と女。
大人と子供。
健常者と障害者。
サドとマゾ。
性的欲望の有無。
たとえば、こうした二元論によって全て割りきれると決め込んでいる、あるいは割り切ろうとする社会の装置や機能に対して、割合わかりやすく異議申し立てをしている。
それがややあからさまなのは、『セバスチャン』が松浦の初期のものだからなのだろうか。彼女の他の作品を読んだことがないから、まだなんとも言えない。
テーマ自体は、今となってはそこまで新鮮なものではないし、登場人物たちの会話が古くさくて白々しい箇所も所々にあるが、そうした会話そのものに青年達の青い若さを感じられ、作品全体でみるとそれらが嫌らしくなっていないといえる。
そして、やはり後半の加速から、わけても終わり方がなかなか。
全力でダッシュしてゴールラインを切った後、体の芯から力が抜けていくときの、虚しく切なく、どこか官能的なあの感じ。 -
「人間が悠久の運動に立ち向かう唯一の手段は夭折かもしれない」
主人と奴隷、悲しみと祝福の終末。 -
ひとことでいうなら「ヘテロの男性ってたまに物凄く暴力的だよね」ってことか。ただほんとうは男性に限らないけど。
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女の子同士、主人と奴隷ごっこ、身体的不自由を武器にした少年、いかにもな世界。未分化なセクシャリティをテーマにしたものということのようだ。この世代(小説の登場人物というのと、著者自身のというダブル・ミーニングで)ならではの感覚ってあると思う。時代背景とかフェミニズムの流れとかね。