- Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309619958
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
よく訳者がよくないとか目にするし、自分も書く。しかしこの本は訳者の存在を吹き飛ばし、本人の伝えたいことを読者にぶつけるように作者は差し出す。その内容はただ家族への思い。ほんとにそれだけ。登場人物は愛と名の付いたエゴを撒き散らす。そしてそれぞれがぶちまけるだけで、一切受け取らない。1人1人が自分に対してサドでありマゾであり、間違えてる。愛ってのは多分口にしなくても伝わるもんで、口にすることが重要なんじゃない。なんだろう、この本は、それぞれが読んでそれぞれが感じてくれ。感想を人に伝える本じゃない。多分な。
-
「・・・・・だからなぜ、自分が愛する者を軽蔑することを、あるいは軽蔑する者を愛することを甘んじて受け容れないんだ?」
もうおなかいっぱいってくらい"人間" がつまってる。デフォルメされた人間を描くのがディケンズだとしたら(勝手なわたしのイメージだけれど)、それをもっともっと明細に描くのがモランテだ、という印象だった。
この "母" はあきらかに身勝手なのだけれど、この心情はきっと、お見合い結婚をせざるをえなかったころの女性の心情そのもの なのかも。信仰をもたず、現実を受容できず、じぶんを哀れむひとのあわれ。
そしておとなの情事に巻きこまれる子どもの苦悩と混乱。こんなにも嘘と秘密にまみれた家庭のなかで、みずからの想像の世界に逃げてしまうのは当然で、そしてそこで憂う天才が生まれた。少女のころに彼女が言葉と身体で、両親以外のおとなから、愛を伝えてもらったときの目覚めに、わたしじしんが解放されたようだった。愛してもらう悦び、そしてこの激しい物語のなかで、じぶんのなかの矛盾した、相容れないような感情を寛容すること、そしてそんなじぶんを愛してもいいのだと、愛するべきなのだと、そんなことを荒療治で教えてもらったよう。
この切迫したような語りのなかにときどきみえるユーモアもたまらなく愛おしい。こんな激しい毒をふくんだ物語にふれているとじぶんの心までもってゆかれてしまうことが常なのだけれど(上巻まではそうだった)、この下巻にはいってからの、"わたし" の現実と交差しはじめたころから、なんだか癒しと浄化の効果がわたしをつつみはじめた。人びとはあいもかわらずどうしようもなく、"わたし" は愛が欲しくて叫んではいるのだけれど。なぜだろう。作者がこの物語を記すことによって、少しづつ救われていっている、その心情に同調しはじめたのだろうか?人間の愚かさが、なんだかとても愛おしくなってくる。
そして人間の、その真に迫る洞察と描写には感動でふるえた。
「いま、病んだ女ははだしの足で熱い砂を渡ろうとしているように見え、今度は反対に氷に囲まれているらあるいは沼地をも歩いて渡らなければならない、あるいは山を登らなければならないと訴え、あるいはまたどこか深い渓谷にまっさかさまに落ちたように思って、手で顔をおおって叫んだ。病は母のまわりに、これまでみたことのない野蛮な風景を立ちあがらせた。」
エリーザは最期、母にその名前を呼んでもらい、手を握ることをゆるされた。わたしは昨年、母の人生の終焉まで、臨終までを看とったとき、最期の意識のなかで腕を撫でることを拒否され、その震える腕で、おそらく力を振り絞りわたしにむかって「しっしっ」、という仕草をみせたのが彼女の意識が世界にのこした最後だった。この忘れがたき光景に、魔法をかけることはできる。商売をぬけだしてきたわたしに、「大丈夫だから、いいから早く戻りなさい」と伝えてくれたのだ、とかなんとか。けれどその傲慢さをぬぎすてておもう、わたしはエリーザのようには母をきちんと愛することができなかったのだ、と。
とにかく、「アルトゥーロの島」は正直あまりすきではなかったけれど、ほんとうにもの凄いこの本「嘘と魔法」に出会えたことがうれしい。ふたりの夢や手紙のなかで "彼" が交錯してゆくクライマックスは、かなり映画的で、というより映画を見ているようだった。とても幻想的で刺激的。そしてそれは男性監督、ヘルツォークとかコクトーみたいな、あるいはパブロ・ベルヘルのモノクロームで、脳内再生される。なぜかイタリア人ではないのだけれど。この愛憎は、まさにイタリア人っぽいのだけれど。
「〈女の涙は海の水のようになもの!飲むには向いてない。でも溺れるにはぴったり〉。」
「ぼくは勇敢な軽薄男なのか、それともうぬぼれた臆病者なのか? ああ、道理と勝利がだれの手にあるのか確信をもって知れたら!世界の秩序、比較の基準となる確実な法則をほんとうに手にできたら!」
「お世辞や称賛、先生たちの賛辞でさえ、この子どもっぽい親愛辞ほと私を慰め、あやしたことはなかった。つまるところ、親しく身をまかせていたこのときほどに、これほど自由で勝ち誇り、私自身と調和していると感じたことはなかった。ああ、神秘的な出会い!奇蹟の意識はなく、その理由を探そうともせず、私はこの瞬間、自分は森羅万象のなかによろこんで受け容れられた自然なもの、ほかのものたちのただなかで、一本の植物、あるいは一匹の動物、あるいはどこかの考えなしの女の子と同じように、友であり同行者なのだと感じた。」
「死の孤独が私たちの家を支配し、沈みゆく太陽の光のなか、街路から土曜の夜の脳天気な声があがってきた。実際に、現在のこのような機会に、私たちの家族が自分のまわりにつくりえた空隙の大きさを測ることができた。私たちは街中にひとりの友もいなかった。」