- Amazon.co.jp ・本 (332ページ)
- / ISBN・EAN: 9784314008617
作品紹介・あらすじ
言葉や態度によって、巧妙に人の心を傷つける精神的な暴力=モラル・ハラスメント。家庭や職場で日常的に行なわれる、この「見えない暴力」は、相手の精神状態をしだいに不安定なものにし、ひどい場合は自殺に追いこむという。いったいどんな人間がこのような暴力をふるうのか?いかなる方法がよく使われるのか?どのような性格の人が標的にされやすいのか?どうしてその関係から抜け出せないのか?経験豊富な精神科医がその実態を徹底解明。人間関係に悩むことの多い現代人にとって必読の書である。
感想・レビュー・書評
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『モラル・ハラスメントの加害者にとって、人生とは悪意に満ちたものでなければならないのである。』
家族間と職場で章を分け、具体的な事例を挙げながら非常に丁寧にモラル・ハラスメントについて書かれている。
とても読みやすい。
自分がモラル・ハラスメントの当事者でなくとも、決して無関係ではない。
中途半端に、被害者にも何か落ち度があったのでは等、中立を装うのは加害者に加担すること。
そうしないためにも、もっと学んでいきたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
職場だけでなく、親子、男女、色々な関係におけるモラハラ事例とモラハラというものの考え方について。
私から見るとうちの家族は、少なくとも親子三世代に渡って加害者と被害者を常に入れ替えながら、支配と被支配と被支配者のストレス発散とが入り乱れてつぶし合いをすることになった…というところだろう。
発生した一つひとつのケースについて、誰が加害者で被害者で、被害者風に演じた加害者で加害者役を押しつけられたら被害者だったのか、整理するのに本書はとても役に立ったと思う。
現実的に吐きそうになるから読むのにも大変時間がかかったし、感想を考えるのにも時間がかかったし、まだ考えたくないことも色々あるけれども。
自分のために次に考えて取り組まなければならない事項を、徐々に整理していくのに役に立つ気がするので、買っておこうと思う。
本書で繰り返し述べられる「自己愛が強すぎる人間の悪意」については、考えると現実的に体調悪くなったので…
個人的に今のところは「自分は正しいと無邪気に信じているため周りを笑顔で殴り倒す、未教育のヒト」=「悪い天然」=「子供みたいで可愛いヒト」と考えることにした。
子供みたいで可愛い未教育な大人に近付くと、事故が起こるので車間距離をちゃんと取ろう。
家族関係というのは、ただでさえ車間距離が近すぎて誰かの暴走は即事故で、一体どれが原因だったのか、判明には長く面倒な調査が必要だ。
無謀運転な上に、事故ればイチャモンつけてくるような車からは、全力で離脱するのがよろしい。
(ただ、家族というのは法的に絶縁が成立しないから、物理的距離を置いて逃走&絶縁宣言だけでは安心ならないのが悲しいところ。
これはまぁ、愚痴か。)
どうでもいいけど、これを読んでいることを知った同僚氏からは「ちょ、現在進行形で後輩からモラハラ受けまくりのヒトが、なんでそれ読むわけwww」と言われた。
まぁ結局のところ、そういうことだろう。
どのラインを越えたら、また越えてこられたら、モラハラに相当するのか…
そして謝るレベル、謝ってもらいたいレベルが判断できないということが、破綻しているということなのだろうな。
成長しよ。
最後に私的メモ。
【1】モラハラ加害者になるかならないかの違い。第一関門は、正しく謝れるか謝れないか。
【2】この感想をまとめきるにあたり、幼なじみで親友が遊びに来てくれたこと、お喋りできたことが支えとなったことを、忘れずにおきたい。感謝。 -
あまり面白くなかった。要は心理的虐待のことだし、DVの一つでもあるし、新しい概念(もう本自体は古いが)として命名する意義があるのかどうか。加害者はパーソナリティの問題あるいは精神病質とでも言える人なのだと思うし、ハラスメントそのものよりもその人をなんとかしなければならないわけで本質的な議論はそこからしないとだめでしょ。あと被害者にもそれなりのことがあるみたいな書き方はちょっと納得できない感じもします。
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宗教や道徳に代わる基準はすでに失っており、それに代わるものは『メディア』しかない。
権力の側にいる人間はあてにできない。権力は自らの内部に枠を設けず、指導者やそれに協力している人々の責任を軽減しようとするからだ。
自己愛的変質者
-すべてが自分のおかげだと思っている
-人間関係の中で相手を利用することしか考えない
-他人に共感することができない
-他人を羨望することが多い
-他人は人間として存在するのでなく鏡として存在する。
-道徳家のようにふるまうことが多い。
妄想症の人格に近い。ただし本当の妄想症と異なるのは、社会の決まりと知っているくせに決まりに挑戦するところ。相手を尊重していない表れ。
・自我の肥大
・精神硬直/冷たい合理性・執拗
・警戒心
・判断の誤り
自己愛的変質者の目的は、相手を堕落させ、自分と同じ変質者にしてしまうこと−その罠にはまってはいけない。
失敗は成功できない方法を発見しただけ-エジソン
今一歩踏み出す勇気がない人間に「失敗したっていいじゃないか」という言葉は意味がない。
みんな”やめる”という選択肢を忘れている。
やめられるという選択肢をもてば自由に動ける。 -
経験のある人には事例の部分が辛いかも。セクハラといいパワハラといい、カタカナにするとなんか軽いノリになるけど、実際にはかなり深刻。「精神的虐待」とかのほうがしっくりくる。
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モラル・ハラスメントも難しい概念であるが、大人になるほど、いじめは不明瞭で陰湿だ。被害を受けた場合、個人での対処は難しい。企業組織の場合、組織的な対処によってしか改善できない。しかし、組織自体がモラル・ハラスメント体質であれば、いかんともしがたい。
本書は、海外の作家なので、夫婦の場合のモラル・ハラスメントは加害者がパーソナリティに問題があるように書かれているが、日本での場合は、夫婦の在り方の変化が、起こさせているものもあるように思う。
巻末の解説で、海外赴任中はひとつのまとまりとなり、互いを思いやって円満であった家族が、日本に戻ってからそれぞれが個人になり、ばらばらになった例を書いている。「個人」を尊重することは大切であるけれど、「家族」はその「個人」の集まりとして、どのように尊重されるべきなのだろう。「個人」が意識されはじめた現代にあって、まだその集まりとしての「家族」がそれぞれによくわかっていないのではないだろうか。 -
「巧妙に人を傷つける精神的な暴力」は、家庭や職場に起こりうる。どんな人がどんな風にターゲットを見つけ、支配し、暴力をふるうのか。標的にされた人は、生き生きと過ごす生活を再び送れるようにするには、どうすればよいのか。モラルハラスメントを止められるのは、当事者というよりも周囲の人だという。この暴力が日本においてよく周知され、苦しむ人が少しでも減ればと願う。
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モラルハラスメントの構造から被害者の救済まで幅広く「モラルハラスメントとは何なのか」ということを論じている。
筆者が論じたように、モラルハラスメントまがいの行為は私たち誰もが行うことがあるし
被害者がその苦痛を訴えることがあっても理解されず、むしろ非難されてしまうことすらある。
それがこの問題をより複雑に深刻にしてしまう原因の1つでもあるのだろう。
筆者はモラルハラスメントを「支配の段階」と「暴力の段階」に分け、加害者を自己愛的変質者とする。
病的な自己愛を持ち、自分の責任を省みず、他者を貶め相対的に自らの価値を上げることで心の安定を図る加害者は
まずその魅力で被害者を惹きつける。そして、悪意の仄めかしや冗談による言葉の暴力で被害者の自信を失わせ
支配下に置こうとする。暴力の段階は特に関係が終わる時に始まりやすく、より露骨な言葉の暴力が振るわれる。
会話を避け侮辱し、口論の際にはわざと相手を逆上させ自分が被害者であるかのように見せかけさえする。
しかし、文中ではモラルハラスメントとそれまがいの行為を第三者が明確に見分ける指標はなく
この言葉が一人歩きすることで、逆に被害者を苦しめることに使われかねないのではないか
(例えば加害者が反論に出た被害者をそれはモラルハラスメントだ!と糾弾することで黙らせてしまうなど)と危惧してしまう。
重要な概念であるとは思うけれど、この段階ではまだ使用するのはためらってしまうなぁ。