- Amazon.co.jp ・本 (185ページ)
- / ISBN・EAN: 9784316357508
感想・レビュー・書評
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地元の図書館で読む。非常に興味深い本でした。結論は納得です。ただし、回りくどいです。江戸は、交通の要所であり、かつ、位置としていい場所である。本来、関東の中心は江戸でよかった。にもかかわらず、家康以前の権力者は、江戸を本拠地としなかった。理由は、簡単です。北関東は、大きな有力な豪族が数多く存在した。南関東は、大きな有力な豪族は存在しない。北関東を基盤とするのは、危険なのです。選択肢は、南関東になります。江戸は、南北の境界にあります。問題外です。家康は、圧倒的な武力を保有しているので、江戸でもよかった。この解釈は、正しいと思います。何故、鎌倉というのは、不思議でした。そういうことなんですね。横浜は、どうなんでしょう。少し知りたい。
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昔、関東平野にはあと2つ海が存在したってご存知ですか?東京湾の奥、いまの墨田、台東、江東と埼玉の辺りにあった"江戸内海"、それといまの霞ヶ浦、印旛沼辺りから鹿島にかけての"香取内海"ないしは"古鬼怒湾"。
特に香取内海はいまの東京湾と同じぐらいの面積、水量を誇ったらしく、この2つの海が繋がっていたのかどうかが歴史学者達の間でのマニアックな関心となっているらしいのだが、、とにかく、関東は昔からこの3つの海の海上交通網が活発で、平将門もここから割拠したことからからも天然の要害でもあったようだ。なので、歴史上は豊臣秀吉に転封させられたと言われている徳川家康も実は内心ではシメシメ状態だったか、あるいはそちらに誘導していったかもしれないね、ということが本書では書かれている。
それで、家康が江戸を大都市に発展させた為、後背地が必要となり、2つの海は埋め立てたれ、そして坂東太郎・利根川の流れも変えられてしまったらしい(利根川は昔は東京湾に注いでいた!)
いやあ、巨大権力者は土木をよくすると言うが、本当にそうだなということが本書を読むと良くわかる。孫さんも、そろそろどこかの大河で堤の建設でもして欲しいところだ。 -
江戸東京博物館(江戸博)創設時の学芸員を務め、現在は皇学館大学で教鞭を執っている著者が、江戸博勤務時代の調査成果を一般書籍にまとめたもの。タイトルは一般人の関心を惹くよう「家康」を前面に出しているが、内容は古代以降の「江戸」という土地の歴史を学術的に明らかにしようとしたものであり、家康ファンでなくとも面白く読める。実は、江戸時代より前の「江戸」がいかなる場所であったのかについての体系的な研究は1990年頃までは存在していないに等しく、学界ですら誤った通説がまかり通っていたらしい。普通の歴史ファンの「江戸」に対する認識といえば「沼地に葦が生い茂る小さな漁村だったが、家康の先見の明により都市開発を行って大都市になった」といった感じだし、少し詳しい人でも「戦国初期に太田道灌の居城として機能したが、暗殺された後は冴えない城が残された」くらいの認識が関の山であった。ところが、古代以来の物流ルートを丹念に調べると、少なくとも平安時代には、品川・江戸・浅草が武蔵国の三大物流拠点として大きな港が形成されていたらしいことが見えてくる。
平安末期から鎌倉初期にかけて江戸を支配した江戸氏は、在地武士であると同時に、日比谷入江の湊(=江戸)を押さえる豪商でもあった。鎌倉時代から織豊時代まで長らく江戸に政府や地方政庁が置かれなかった理由は、江戸から岩槻・高崎にかけての旧利根川右岸が、北関東と南関東の「境目」となっており、政治的にずっと不安定な地域だったことが指摘されている。後北条氏によって関八州がほぼ統一されたことにより、ようやく江戸に政府を構える条件が整い、そこに徳川家康が入ってきたのである。江戸は古来より、太平洋水運と多摩川水運の基地である品川湊と、利根川水運の基地である浅草湊を結ぶジャンクションの機能を果たす要衝であった。したがって、政治的安定性が担保されたなら、そこに政庁が置かれるのは自然の成り行きであろう、というのが著者の主張の概略である。最新の水運研究の成果や、伊勢神宮と品川湊の結びつきの強さ、建武の新政の崩壊後に北畠親房が伊勢を押さえた理由が関東武士と連携するため(京と関東を結ぶ最速ルートは伊勢経由の海上交通であり、その終点は品川であった)など、あらゆる時代の文献を精査して導き出された主張には、ただただ圧倒された。
【川崎市立中原図書館 213.6(貸出可能;開架)】 -
江戸といえば太田道灌という固定観念をひっくり返す一冊。でももっと家康が直接的に江戸を選んだ理由が展開されるのかと思ったら中世以降の江戸の一般価値発掘って感じでちょっと期待外れ。