- Amazon.co.jp ・本 (274ページ)
- / ISBN・EAN: 9784326154289
作品紹介・あらすじ
本書では、対象を何ものかとして把握しながら対象種ごとに特有の迎えいれ方をする知覚における生のかかわり方を「態勢」と定義。現象学の立場からこの概念を肉付けしつつ、認知科学におけるエナクティビズムの展開や、ミラーニューロンの発見などの動向を踏まえて議論を展開することで、「態勢」概念の有効性を示すことを試みる。
感想・レビュー・書評
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思わず、梅干しを買いに行こうと思う本である。
この本の「態勢」とは「対象種ごとに特有の迎えいれ方をする生のかかわり方である」と定義している。梅干しにかかわることなしに、梅干しの疑似知覚体験をあたえるような態勢を形作ることなどできはしない。(P234)
メルロ=ポンティは「赤を感じることは赤が世界にかかわる仕方を見て取ることである。対象の生の形に共感し、それを自らに引き受けることである。」という。人は、赤をみると、赤にふさわしい態度をとる。しかし、共鳴、共感だけでなく、梅干しを食べた、もしくは梅干しを見たときの反応のように、「すっぱ!」と、同じ生ではなく異なる生としてのリアクションもある。しかし、その「すっぱ!」が反応であるか、共鳴であるか、それは確言できない。
また、幻影肢というのがあるように、人間の身体のあり方は、もしくは「世界の意味は、現在、現実の身体のあり方というより、習慣的な身体のそれに対応した習慣的なものであり、そして今のこの瞬間の現実的明示的志向がなくても、習慣化した世界の意味は提示されている」という。
P132には【いらだっている他者を見て私にそのいらだちがうつることがある。しかしうつってきたときでも私は彼のいらだちの対象を知らないことがある。このとき、私は彼の内面に入りこんで内面を認識したとはいいがたい。むしろ他者の内面の認識を介さず、直接に私に感情がうつってくるのである。「共鳴」という概念ではこのように、知的認識を必ずしも介在させない直接的なものを想定している。】の記述がある。
そして直接的にやってきた共鳴は「自らのうちで複製することによれば理解できるだろう。人間やサルはそういう手段をとっているのだ、というわけである」と書いてある。
感情とは世界へのかかわりとして存在する。かかわりの文脈のなかでのみ何であるかが明瞭に規定できる、とメルロ=ポンティは述べる。
手という自然的所与が文字を書く道具として利用され、キーボードを打つ道具として働くようになるのと同様である。(P209)これも「かかわり方」である。
これを「実存様態」=世界へのかかわり方、と言う。コウモリはまがまがしく、赤は攻撃的で熱く感じる。これは象徴的意味理解という。
バケツリレーのように、協調、同期しつつ、他者の行動を習得し、微妙にタイミングをあわせたり違う行動をする。機械的に何も考えずにやるのではなく、「認識」をするのだ。【認識とは受動的にあたえられる情報を理性的に解釈する過程ではなく、むしろ能動的な情報収集によるものだからである】(p223)
【共鳴は、他者理解の時間的起点にあるわけではない。共鳴すべき相手の態勢が何かがわからないと共鳴は発動されないからである。むしろ象徴的意味理解が起点にあり、共鳴するべき他人の態勢が何なのかを教える。そして共鳴は相手の態勢と同調することで、より詳細で立ちいった他者態勢の知覚を可能にする。この共鳴の過程を通じて、ひとつの理解の形式として象徴的理解は共鳴的な深い理解を支えつづける。】(P230)
ボールが飛ばされる、のではない。ボールが飛ぶという。無生物であっても、世界とのかかわり方を持っている。音楽がかかると、人は音楽になる。ここまでは良い。なら、言葉がかかると、人は言葉になる。いわば言葉人間が言葉を認識・情報収集し、自らのうちで複製する、言葉がしゃべりだすのだから、人はそれに注目するし、そして知的ではなく直接的に入ってくる。そうして習慣化した世界がその関わり合いの土台になっている。
この本は、実存主義の本でもあると思う。白黒のメアリーの延長に、この態勢論はあると思う。
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