- Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334033910
作品紹介・あらすじ
学校不信が止まらない。保護者たちは、右往左往の教育改革を横目に、「わが子だけを良い学校に」と必死だ。そのニーズに応えて、「百ます計算」や「親力」といったメソッドが次々と紹介され、指導法のカリスマが英雄視される。勉強の目的といえば、「得になるから」「勝ち組になるため」に収束した感があり、すこぶるドライな経済的価値観が目立つようになった。だからこそ、本質から問いたい。「なぜ勉強させるのか?」と。本書は、「プロ教師の会」代表の著者が、教職生活四十年間で培った究極の勉強論である。
感想・レビュー・書評
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なぜ勉強しなきゃいけないの?
と子どもに問われたら、私は「なんでだと思う?」と聞き返すことにしている。そして、子どもの答えをニコニコと聞いて、「そうかもね」とだけ言い、自分の答えは教えないことにしている。そして、時々家でも勉強している父の背中を見せることにしている。
著者は、頭脳明晰で、かつ、現場に立ち続けてきたホンモノの教師である。だから、説明がうまいし、説得力がある。けれど、だからこそ、上から目線で、やや断定的である。好みは分かれるところだろうし、「我が子を賢くする方法」などの記事を探しては読み、子を通わせる塾を転々と変えているような方は、絶対に読まない方が良いと思う。
ゆとり教育のせいで学力が低下したわけではないことは、確かにそうだなと納得した。
あとがきの抜粋。
【したがって、勉強するということは、まず私たちひとの生物性を一度否定することと言えましょう。(略)まず先に「私」があって、後からその「私」が知識を身につけていくのではありません。近代的な主体である「私」をつくるために、ひとの本能や自然性に逆らって、知的な身体に変えていくことなのです。】詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
著者は、教育の目的は「知識の伝達」ではなく「人間的な成長」であるという立場をとっています。
そして標題の答えは「明確に答えを出さない」でした。
前著「オレ様化する子どもたち」は面白く読まして貰いましたが、本書は心に響く内容ではありませんでした。
もっと人間的に成長してから読めば違うのかもしれません。 -
根拠のない自分の思い込みに基づいた一方的な議論を展開していくが、それでいて途中で一貫性も失われていく。
新書の分量として仕方のないところもあるが、子供の変遷や外国との対比は著者の経験則に過ぎない。特に西欧の教育論はあまりに神の存在に原因を置き過ぎている。
教育の結果が得られるかどうかは、万人向けの方法論があるわけではないとして、近代主義から脱却した個性を育むゆとり教育の思想部分では賛成しているとしているが、最後の結論では、子供はとりあえず勉強はするものだとして受け入れろと、?な展開をする。
80年代に社会的な個人ではない、単なる私論が台頭してきたという辺りから、年配者の愚痴のようになってしまった。
ただ影山氏等の他の教育論に関する部分は読む価値があった。 -
ありのままの自分を断念し、社会的なあるべき姿に合わせるということ
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ゆとり教育とは何だったのか、
よく分かりました。
子供の変化と家庭教育についても、
納得できました。 -
学力至上主義に異を唱える。なんのために勉強するのかということに経済観念で考えるのには限界がある。
今、君たちが最も関心のあることの一つかもしれない。でも、そんなこと考える前に勉強するっていうのも一つの手です。長山 靖生『不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か』(光文社新書2005)は勉強する意味が見つかるかも。 -
この本はまず、現在の受験戦争の早期化の時代背景を説明し、その後「ゆとり教育」の目的について話し、学校の必要性について説いた後、「学力向上」を求めるだけでは学力は上がらず、近代的な個人(おとな)になることができないことを述べ、最後にこどもにとって、ひとにとっての垂直的な存在(絶対な存在)の必要性について説明し、本を閉じている。
筆者は近代を「農業社会的な近代」、「産業社会な近代」、「消費社会的な近代」の3つに分けている。「農業社会」では共同体の力が強く、こどもは自身共同体の1個人であるという感覚を持っていた。自分が勉強し、頑張ることが親のため、家族のため、共同体のためになるという感覚が漠然とあった。「産業社会」では、生活の中に「消費」という概念が入り、裕福な家族像を描きながら、家族の一人一人が「個」としての存在を形成していった。「消費社会」では一人一人が「私」という感覚を持ち、それぞれがお互いを主張する関係性に発展していった。そのような時代に生まれ育ったこどもは、幼い時から「私」という感覚を持ち始めた。「社会」があって、「私」があるのではなく、「私」があって、「社会」があるという感覚だ。
そのような時代のこどもに合わせて行おうとした政策が「ゆとり教育」である。私は恥ずかしながら、ゆとり教育の目的やヴィジョンを分かっているようで、理解していなかった。教育の有り方を細分化し、こどもに決定権を与え、社会にこどもを合わせるのではなく、こどもたちが選択した道によって社会を形成しようというのが、ゆとり教育の目的であり、それによってこどもたちは一人一人が大切にする「個性」を持った近代的個人に成長し、社会を形成していく、ヴィジョンがあったのだと、解釈した。しかし、結局親、こどもが学校教育のゴールは良い大学に入って良い企業に入るというゴール像に縛られてしまったことや、教育の多様化が義務教育時間の削減と教育の細分化という「科目」の面でしか改革が行われなかったことなどから、失敗してしまった(と認識されてしまった)。細分化されても、結局細分化される前の道をこどもは選択した(させられた)ため、細分化される前の道筋だけが残った。また時間に「ゆとり」ができたため、お金に余裕のある家庭は塾などにこどもを通わせ、教育格差が広がった。「ゆとり教育」が終わった今、またこどもの学力を向上させることが学校、家庭の役割であるという考えが強くなってきている。
しかし学校はこどもの「学力向上」の機能だけではなく、社会のルールや、コミュニケーション能力など、「生きる力」を学ばせる場所である。学校は塾がなくても存在することができるが、塾は学校がないと存在することができない。学校で「生きる力」を学び、その土台があった上で塾などの教育機関で学ぶことができるからだ。だから、こどもは学校に行かなければいけないし、親もこどもは学校に行ったほうがいいと、直感的に分かっている。
消費社会的な近代において、こども、ひとは自分の考えを主張し、自分の分かっている範囲内で周りの物事を判断するようになってきている。自分は1人の自立した個人であり「私」であるのだ。しかし、人とはちっぽけな存在であり、社会を構成する一要素(その人がいないと今の社会が成立しないという意味で大事な要素ではあるが)でしかない。その事実を認識させてくれる、絶対的な、垂直的な位置に存在するものが、今の日本には無いと筆者は述べる。筆者は日本の中学校で先生をしていたころ、オーストラリアの生徒が海外から交換留学に来て、その子の「決して自分の主観だけで物事を判断しない姿勢」に衝撃を受けたという。それは彼女にキリスト教という絶対的な宗教が存在し、それによって、彼女は自分自身を客観的に評価し、高められたのだと、筆者は考えている。この考えに、自分の過去に見たり聞いたりした経験が重なり、深く共感した。
現在の消費社会的な時代において、ひとが自立するというのは、自分が1人では生きていけないことを認めることだと、彼は言う。たしかに、勉強し、新しいことを学ぶということは、一度、そのことを知らなかった自分を否定し、それを自分の中に内面化する作業であるし、内面化した内容によって、「私」という存在が再構築されていく。
自分は「私」であるというありのままの「私」を一度否定し、私はいろいろなものに依存しながら生き、社会という圧力の中で部分的な「自分らしさ」を失い、自分が大切にしたい(とがりたい)「自分らしさ」を内面に持つこと(たこつぼ的な)。これが近代的な個人なのであり、勉強する意義なのだと思った。