古典と日本人~「古典的公共圏」の栄光と没落 (光文社新書 1233)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334046408

感想・レビュー・書評

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  • 先の感想で書いている方もいますが、なぜ「古典」を学ぶのか?ということに関しては、冒頭と末尾に少し触れられているのみです。その他の部分に関してはそれを補完するための専門的な説明が主ですので、注意です。

    なぜ古典を学ぶべきなのか?という問いに関しては明確な答えなどないと思います。アイデンティティの形成や過去の追体験など、学ぶべき理由は様々挙げられます。私自身は、知的財産の形成だと考えていますが、そういった理由は他の学問を学ぶより古典を学ぶべきかという答えにはなっていません。

    しかし、こういった本を読むことで改めて自分の中で学ぶということの意義を考える契機にはなりますので、興味がある方は読んでみることをおすすめします。

  • まどろまぬうつつながらにみる夢はおもひつづくるむかしなりけり
      二条為世

    「古典なんて、学ぶ意味あるの?」
     受験生がため息と共にもらす素朴な疑問だが、古典教育不要論は、明治20年代にも登場していたという。昨今は実利主義的な面から不要論が蒸し返されているが、明星大学教授の前田雅之は、古典を学ぶ意味を、近著で丁寧に順序立てて説明してくれている。

     キーワードの1つは、「古典的公共圏」。その説明を引用すると、「古典的書物の素養・リテラシーと、和歌の知識・詠作能力とによって、社会の支配集団=『公』秩序の構成員が文化的に連結されている状態」という。

     そんな公共圏に参加できたのは、貴族・騎士・僧侶のみであったが、古典知と和歌詠作能力を身につけるために、「古今集」や「伊勢物語」の注釈も深められていった。

     前田によると、 古典的公共圏の成立は、後嵯峨院時代(1246年~72年)という。裏付けるものは、その直後に起こったモンゴル襲来である。

     掲出歌は、「新後撰集」撰者の作。モンゴル襲来という危機が訪れていたにも関わらず、「新後撰集」にその影響はなく、風雅な回想が歌われていた。当時の公共圏内部において、モンゴル襲来は存在しないものであったという事実こそ、注視すべきものなのだろう。

     近代は、古典的公共圏を捨ててしまったが、現代を相対化しうる〈他者〉の視点を持つためにも、古典は学ぶ意味があるのだ。
    (2023年1月15日掲載)

  • 京都府立大学附属図書館OPAC↓
    https://opacs.pref.kyoto.lg.jp/opac/volume/1268171?locate=ja&target=l

  • 帯に「なぜ古文を学ぶことが大事なのか?」とあるのでその話がメインなのかなと思ったがあまりそういう話ではなかったので注意。

    古典が生まれ、廃れていった歴史についての話。
    著者の言う古典とは「古今和歌集」「伊勢物語」「源氏物語」「和漢朗詠集」であり、注釈書を持ち、権威を身につけた書物が古典であったという。
    「古典的公共圏」がうまれ、上記古典書物や和歌の知識のある人たちが貴族社会で認められていくようになり、江戸時代には庶民にも紙や教育が拡大したことから古典的公共圏も広がっていく。
    ところが明治になり教育システムが整備されたことで、「古典」は一つの科目になり、古典的公共圏も崩壊した…ということだった。
    前近代では古典知識があり和歌を読めるということが一人前として認められていたが、一つの教科に成り下がってしまった…と。

    最後に、「古典を持つ国民は宿命として背負っていくしかない」「アイデンティティのために古典を知るべき」とあるがあまり共感はできない。
    本書で語られた古典的公共圏の繁栄と現在の姿を見るに、現代で以前のような古典の繁栄を望むのは難しいと思うし、これからも古典不要論は数多出てくると思う。
    古典が大好きだけど、なぜ必要かと問われると正直自分もわからない。でも絶対に後世に残していくべき日本の資産だと思う。どうしたらもっと古典好きが増えていくか、大人として考えたい。

  • 古典が貴族や学者の常識となり権威となっていった「古典的公共圏」の歴史と、明治以後軽んじられてきたことが語られる。「教養と人格とは関係がない」とか「教養で自分の本音や正体を隠すのに役立つ」などリアルな見方も。

  • 東2法経図・6F開架:B1/10/1233/K

  • <目次>
    序章   古典を学ぶことに価値や意味はあるのか
    第1章  古典意識の成立~古典なるものと藤原俊成の戦略
    第2章  古典的公共圏の先駆~古典と注釈
    第3章  古典的公共圏の確立~身だしなみとしての和歌・古典
    第4章  古典的公共圏の展開~戦乱においてますます躍動する和歌・古典
    第5章  古典的公共圏の繁栄~古典の王国だった近世日本
    第6章  古典の末路~古典を見捨てた近代
    終章   古典の活路~それでも古典を学ぶことには意義がある

    <内容>
    高校の国語から「古典」が消えつつある(「漢文」は既に消えた)なか、古典とは何で、どのように日本に展開してきたのかを、「古典的公共圏」という言葉で説明していく。これは、「古典の素養と本歌取り・題詠和歌の創作能力(古今和歌集から)をもって一人前の人間と見なすこと」らしい。まあ、世界と違って、宗教的な古典を持たないのが、日本の特徴らしいので、基本は『古今和歌集』からの和歌、『源氏物語』などの作品を指すらしい。それが藤原俊成、定家親子あたりから「古典化」し始め、戦国期からの「古今伝授」を経て、江戸期に蔵書家が生まれて、一気に古典が花開いたわけだ。現代における「古典勉強」の目的は希薄だが、教養として必要かな?と思う。

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著者プロフィール

1954年生まれ。1979年、早稲田大学教育学部国文科卒。1987年、同大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程を単位取得退学退学。東京女学館短期大学教授、東京家政学院大学人文学部教授を経て、現在、明星大学人文学部日本文化学科教授。専門は古典学。
著書に、『今昔物語集の世界構想』(笠間書院、1999年)、『記憶の帝国 「終わった時代」の古典論』(右文書院、2004年)、『古典的思考』(笠間書院、2011年)、『古典論考 日本という視座』(新典社、2014年)、『アイロニカルな共感 近代・古典・ナショナリズム』(ひつじ書房、2015年)、『保田與重郎 近代・古典・日本』(勉誠出版、2016年)など。
編著に、『〈新しい作品論〉へ、〈新しい教材論〉へ 古典編』(共編、右文書院、2003年)、『中世の学芸と古典注釈 中世文学と隣接諸学5』(編著、竹林舎、2011年)、『アジア遊学 もう一つの古典知 前近代日本の知の可能性』(編著、勉誠出版、2012年)、『高校生からの古典読本』(岡崎真紀子、千本英史、土方洋一共編著、平凡社ライブラリー、2012年)、『幕末明治 移行期の思想と文化』(青山英正、上原麻有子共編著、勉誠出版、2016年)などがある。

「2018年 『なぜ古典を勉強するのか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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