- Amazon.co.jp ・本 (276ページ)
- / ISBN・EAN: 9784393133491
感想・レビュー・書評
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坐禅の意味を語る南氏の言葉が興味ぶかい。加えてテーラワーダへの批判、ここも成る程と。
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寺院の生まれでないからこそ、「仏教とは何か」ということを掘り下げられたのかもしれない。
たとえとして適当かわからないが、男として生まれ男として生きる者は、「男とは」なんてことはあまり考えない。せいぜいがその場しのぎ的に「男らしさ」などというものを一貫性もなく振りかざす程度であろう。
一方で性同一性障害などで生まれ持った性とは別の性で生きる者にとって、「男とは」「女とは」という問いは重要である。時として存在証明ですらある。
宗教者もおそらくそれに近い感覚があるのだろう、生まれもって僧になることを運命付けられた者にとって、「僧とは」「仏教とは」という問いには気づきにくい。
著者は寺生まれではなく、また仏教系の学校の出でもなく、一般の職業に就いた後に仏門を叩いた。青年時代に哲学に関心を持ったということもあるのだろう、仏教の、僧の、寺の役割、存在といったものを深く思慮している。
世襲でない僧というものが少数派であるためか、著者はどうやら異端とされるらしい。事前の情報がないためよくわからないが、本書で語られる内容を見るに、確かにそうなのだろうという気はする。もちろん私は「一般の僧」というものがどういう人々なのかすらもよく知らないわけだが。
時折ニュースなどに出てくる奇抜な僧というのは、寺を継ぐのを嫌がって出て行ったものの、どうにも行き詰ってやむなく帰ってきて、そこでやりたかったことの代償行為をしているだけ、という指摘を別の場所で見かけたことがあるが、本書にも似た記述があるので引用する。おそらく著者が現代日本における寺のあり方、仏教の在り方について強く懊悩している部分だと思う。
「もう、事情が変わった。葬式法事をしていれば僧侶でいられた時代は終わりつつある。ところが、少なくとも江戸時代以降これまで、日本では生き方を参照する原理として、仏教が機能したことがない。そういう観点から仏教を語る僧侶もいなかった。だから悩める人が仏教を頼らない。
しかし仏教がもともと人の生き方の教えだったことを鑑みれば、いまここで生き方の参照原理なり生の基準としての仏教をもう一度復活させるのが、われわれの大きな使命だと思う。
にもかかわらず日本で起こることは倒錯としかいいようがない。若い世代に仏教を伝えようというと、いきなりイベントやコンサートの企画になる。あるいは仏教をわかりやすく説こうとすると、最近の事件や新聞記事、流行のロック歌手の歌詞を持ちだしてくる。そんなことを若い人が求めているわけではないと私は思う。お寺の中でファッション・ショーをやったりコンサートをやればいいのか。断じてそうではない」
仏教は新興宗教に比べれば巨大であるが、世界の趨勢から言えば弱小である。キリスト教やイスラム教のように侵食的でないし、ユダヤ教のように経済力もない。そもそも布教に熱心でない。弱肉強食の理論でいえばとっくに滅びていてもおかしくない宗教であるが、どっこい今に生きている。それはなぜか。仏教者は、今こそ仏教の存在意義を問わなければならない。他の宗教やサービスと同じことをやっていても勝ち目はない。もちろん最適を極めた結果仏教滅ぶべしという結論になるかも知れない。それはそれで仕方ないが、少なくともそこに仏教者自らが至らなければならない。
著者はそうした問題提起をしているような気がする。
私にとっては2018年最初の本であるが、年始からなかなか読み応えのある本だった。これは幸先がいい。今年もなるべく沢山の本を読もう。 -
著者は,他の著作と同様,龍樹『中論』における縁起(空)の思想を基本に一切皆苦・諸行無常を解釈し,実体としての「真理」「宇宙の生命」などといったマジックワードによって「自己」の存在意義を規定する安易な理論を否定する。
その上で,世界とどのように向き合うべきか,どうやって生きていけばよいのかという「問い」に答えるべく四苦八苦するのが仏教であるという。
オウム真理教と仏教徒の関係,今後の仏教の在り方(特に,出家の在り方),十二支縁起の解釈,自身が結婚していることと仏教者としての立場,テーラワーダの問題点,因果律など,多岐にわたる論点について,冒頭の視点から論じていく。 -
「なぜ生きるか」と問わなければ生きていけないような人が人生に対してどう臨み得るのか、仏教をひとつのトリガーにしながら展開されるこの本は抽象的な題材を扱っているようで、非常にプラクティカルな示唆があります(特に「賭ける」という姿勢について)。そのような問いに実感がない人でも、このような先鋭的な仏教家が日本にいたのか、という驚きを得られるかと思います。
テーマは以下の6つに分かれてはいますが、1つ1つは関連しています。
1.オウム真理教は仏教か:21世紀の日本の仏教が答えなければいけない問いから始まるインパクトが大きい導入です。別の本ではオウムのことをばっさりと切り捨てていたように思えますが、この本ではその影響構造について論を進めています。
2.出家のいきさつ:これは南さんのインタビューや「語る禅僧」を読まれ方たには重なる部分も多いかと思います。言語的、論理的に世界を積み重ねるという行為は、少なくない若者が通る道のように思えますが、喘息の身体経験が南さんをユニークにしたのでしょうか。
3.仏教は何を問題にしているのか:「賭ける」という言葉が全面に出てきます。仏陀も道元も「生きる方に掛けた」という指摘は非常に面白い目ウロコでした。この章では、哲学の言語ゲーム的な議論が多くなりますのでウィトゲンシュタインが好きな方には刺さりがよいのではないでしょうか。
4.生命について:宗教家はあいまいな「いのちは大切」といった言説に逃げるのではなく、具体的な問いに即座に答えを出しその言説に責任を持たないといけないというスタンスは、確かに科学が残している(判断しない)倫理の分野における判断の役割を宗教家に与えるという観点で、21世紀の宗教家にとって極めて大事な指摘のように思えます。
5.修行と性欲について:修行による身体経験と、それらの「悟り」の後にどう生きるかという問題が本質的な問いだということ、そして触れにくい問題があけすけに書かれています。男性ならば面白おかしく読めるかと思います。
6.霊魂と因果について:「・・・無前提に断定するのではなく、目の前の人間との勝負で決めるしかないのだ」というところに、南さんの仏教観なり人生観が込められているように思えました。
なお、対話集の形式を取っていますが、文末に書いているようにとある評論家との対談の記録ベースに編集者が書きなおしているものだそうです。 -
久々にのめり込める本だった。
中身の対談相手の正体は、評論家の宮崎哲也氏さん。
故に質問の切り口がとてつもなく鋭く、また南さんの回答も、欺瞞の無い、誠実さに満ちた内容となっていた。
全体を通して、原始仏教に立ち返る内容だったように感じた。南さんは禅僧であるので、道元禅師の凄さも書かれているが、「100%盲信してしまうのは違う」といった趣旨の発言もあり、こういうスタンスの人間はとても信用できるな、と感じた。
老師と少年を読んだ人には、これは延長上で話の内容のステップがいっきに上がった感じ、になっていると思う。
しかし老師と少年で面白さを感じた人には最後まで無理なく読めるだろうと思う。
また、茂木さんとの対談「人は死ぬから生きられる」と内容が一部重なっているところもあるが(そりゃあ同じ仏教に関する話のわけですから)、十分に新しい発見のできる本であると思います。 -
著者が「上司」とかいうのが面白いと思った。寺社会ってものがあるんだろう。