正統とは何か 新装版

  • 春秋社
4.41
  • (11)
  • (3)
  • (2)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 117
感想 : 5
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (305ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784393416105

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み

  • 必要以上に逆説だらけですが、とても面白い。

    「狂人とは理性を失った人ではない、狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」

    「心に神秘を持っているかぎり、人間は健康であることができる。神秘を破壊する時、すなわち狂気が創られる」

    「精神的にも、平常人の視覚は立体的なのだ。二つのちがった物の姿が同時に見えていて、それでそれだけよけいに物がよく見えるのだ。こうして彼は、運命というものがあると信じながら、同時に自由意志というものがあることを信じてきたのである。こうして彼は、子供は天使であると信じながら、同時に、子供は大人の言うことを聞かねばならぬと信じてきたのである。若さのゆえに青春を賛美しながら、同時に、若くはないゆえに老年を賛美してきた。このように、一見矛盾するものを互いに釣り合わしてきたからこそ、健康な人間は晴れ晴れと世を送ることができたのである。神秘主義の偉力の秘密は結局こういうことである。つまり、人間は、理解しえないものの力を借りることで、はじめてあらゆるものを理解することができるのだ」

    「つまり、今日の精神的破綻をもたらしているのは、理性の暴走であって想像力の暴走ではないのだ、と。高さ1マイルの銅像を作るからといって気ちがいにはならないが、その銅像が全部で何インチ平方になるのか、いちいち考えていては気ちがいになる、というわけだ」

    「キリンを描く時は、ぜひとも首を長く描かねばならぬ。もし、勇気ある芸術家の特権を行使して、首の短いキリンを描くのは自由だと主張するならば、つまりはキリンを描く自由が無いことを発見するだろう」

    「あらゆる幸福の源は感謝である」

    「人生はダイアモンドのように輝くが、同時に窓ガラスのように壊れやすい――(中略)壊れやすいというのは、壊滅しやすいというのと同じではないのだ。ガラスを打てば、一たまりもなく壊れてしまう。だから要するに打たなければよろしい。そうすればガラスは何千年でも元のままである。人間の喜びとは、まさにこれだと私には思えたのだ。幸福は、われわれが何かをしないことにかかっている」

    「われわれの住むこの世界で本当に具合の悪いところは何か。(中略)一番具合が悪いのは、この世界がほとんど完全に合理的でありながら、しかも完全に合理的ではないということだ。(中略)かりにどこかの天体から非常に数学的な生物がやって来て、人間の体を仔細に点検したとする。すぐに判明することは、人間の体にとって左右相性が欠かせぬ用件だということだろう。一人の人間はいわば二人の人間の合成であって、右半分の人間は左半分の人間と正確に対応している。右に腕があれば左にも腕があり、右に脚があれば左にも脚がある。この事実を発見した宇宙人は、さらに次の発見へと進んで行く。どちら側にも同数の手の指があり、足の指もまた同数である。目が一組、耳も一組、鼻の穴も一組、さらには頭の中の脳葉まで左右一組になっている。ついに宇宙人はこれを一個の法則と考えるに到るだろう。そして、次に、一方の側に心臓のあることを発見して、当然もう片側にもう一つ心臓があるにちがいないと推論する。ところがその時、まさに推論の正しさをもっとも深く確信したその瞬間、それが誤りであることを思い知らされるにちがいない」

    「たとえば、自分の知らない男のことを、いろんな人が噂しているのを聞くとしよう。その男は背が高すぎると言う人があるかと思えば、背が低すぎると言う人もあるとしよう。ああ肥っていてはいかんと言う人もいれば、ああ痩せていては見苦しいと言う人もいる。髪が黒すぎると言うかと思えば、髪の色が白すぎると言う人もある。そういう場合、一つの説明の方法は、今まで見てきたのと同じ方法で、つまりその男はいかにも妙な格好だろうと考えることである。しかしまったく別の説明の仕方もなくはない。その男はまったく正常な格好かもしれないのである。途方もなく背の高い人なら、その人のことを背が低いと思うだろう。非常に背の低い人なら、その男のことを背が高いと思うだろう。中年肥りしてきたダンディなら、その男は肉のつき方が足りぬと思うだろうし、中年も過ぎてやせ細ってきた伊達者なら、その男は肉がつきすぎて優雅の域を超えていると思うだろう。(中略)要するに、この異常な物というのは、実は尋常の物なのだ。少なくとも普通平常の物であり、つまり中庸であり中心である。結局、正気なのは実はキリスト教のほうであって、狂気なのは実は批判者のほうではあるまいか」

    「キリスト教は剣をかざして登場し、この二つを一刀両断に断ち切ってしまったのだ。罪と罪人を両断したのである」

    「自然界には平等などありはせぬ。だが同時にまた、自然界には不平等も存在してはいないのである。平等と言い、不平等と言うからには、何らかの価値の尺度がなければならぬ。動物界の無政府状態に貴族主義を読みこむのは、民主主義を読みこむのと同様センチメタルと言うべきだ」

    「(ある男が)かりに、青い世界を作りたがっているとする。(中略)世界を青に変えるには、ずいぶん長い時間をかけて営々と努めねばならぬかもしれぬ(中略)けれども、もしこの高邁なる改革者が懸命に仕事をつづければ、ともかく世界は、最初に比べて明らかに改善され、明らかに前より青くなるはずだ。草の葉を、一日一枚、自分の理想の色に塗り変えていくならば、じつにまどろこしいことは確かでも、とにもかくにも彼の仕事は進んで行くだろう。しかしながら、もしかりに彼が一日一回、自分の理想の色を変えたとしたならば、仕事は一歩も前へは進まない。(中略)現代の思想家が陥っている状況は、実は、まさしくこれである」

    「牛馬のごとく労働者を酷使している雇主に向かって、私がこう言ったとする――「奴隷制は進化の一段階に適合しただけだ」雇主が私に向かってこう答えたとする――「奴隷制は進化の現段階に適応しているのだ」もし永遠の基準がなければ、どうして私はこれに応酬することができるだろう」

    「たとえば、白い杭を放っておけばたちまち黒くなる。どうしても白くしておきたいというのなら、いつでも何度でも塗り変えていなければならない――ということはつまり、いつでも革命をしていなければならぬということなのである。つづめて言えば、その古い白い杭が欲しければ、新しい白い杭にしなければならないのだ」








  • “狂気がそれ自体として魅力的であるというような御仁もある。それは事実だ。しかしそんな連中はいい加減いい気なもので、そのことはちょっと考えてみればすぐわかる。病気が美しいというのは他人の病気の時だけである。(…)狂人自身にとっては、自分の狂気などまったく散文的でしかありえない。なぜならそれは事実そのものなのだから。”

  • この本に魅了されたのは、冒頭にある、次の言葉でした。

    「詩人はただ天空の中に頭を入れようとする。ところが論理家は自分の頭の中に天空を入れようとする。張り裂けるのが頭のほうであることは言うまでもない」

    「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆるものを失った人である」

    唯物史観が元気だった時代。つまり、何やかや言っても、社会は、決められた「合理的な」コースを運行していくものだという考え方の優勢だった時代に、猛烈に反対したのが、チェスタートンだった。

    この唯物史観的考え方は、進化論にも通じる考え方。単純生物から複雑生物、そして、人間に進化する。

    チェスタートンの反対の第一声は、「いやいや、世界や生物は予定調和的にレールの上を動いているっているだけじゃない。だって、世界は、まさに驚きに満ちているではないか!」と。そして、その驚きを作り出すのが、人間であり、神だ、と。

    「世界、宇宙は、人間の理性が捉えられるほど、そんなちっぽけなものじゃない」とも言える。いやぁ、そうだなぁ!って、読んでいてうれしくなりました。

    「言葉」のとらえ方にも通じるものがあるかもしれません。「言葉」で伝えれば、すべて伝わると考える考え方と、「言葉」で表現できないものを伝えたいので、こんなにも頑張って「言葉」を使っているんだという考え方と(ここは、生煮えなので、もう少し掘っていかないと・・・)。

  • イギリス保守主義の代表的文献ということで読んでみた。後半のカソリック教義の正統性を主張しているところは東洋の一庶民であるぼくには納得はできないが、キリスト教保守主義とはこういうものかと思った。前半の論理的一貫性よりも「健全性」を重視する思想や、バランスを重んじる思想はよく分かる。序をのぞいて全8章、「脳病院からの出発」は如何に論理が狂気をもたらすかを述べている。「思想の自殺」はデカルト主義、進歩主義、進化論、ニーチェなど意志の哲学の批判であり、「おとぎの国の倫理学」ではいかに民衆の智慧が健全なものかが説かれ、日常が「クルーソーによって引き上げられた物」として輝いているかを述べている。「世界の旗」はペシミストの批判、「キリスト教の逆説」は三位一体や奇跡などのキリスト教の神秘がいかに真理であるかと説いている。「永遠の革命」は教会が現在も生きてキリスト教の伝統を守っており、これが現実を変えていることを書く。「正統のロマンス」は正統教義の意味を解説、最終章「権威と冒険」では正統カソリックは表面的には悲哀があるか、根本に歓喜があるとする。神秘主義はこの反対であるそうだ。チェスタトンによれば、神秘主義や東洋の思想(仏教)は円環を描き出られないのに対し、キリスト教の十字架は中心に矛盾を抱えながらも、四方に無限に伸びていくそうである。チェスタトンの基本的な態度として活力ある冒険的な人生をよしとする前提がある。東洋の思想とはまずこの人生に対する前提がちがうと思われる。

全5件中 1 - 5件を表示

ギルバート・キースチェスタトンの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×