一般修辞学

制作 : グループμ 
  • 大修館書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (420ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784469210958

感想・レビュー・書評

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  • (1)猫は猫である、の修辞について

    問.猫は猫である、ということは思考の運動であるか、それとも思考の停止であるか。

    ○思考することがひとつの運動であるとするとその反対は思考停止であるから、まずは思考停止の2つの様態について考える。1つに休みまたは遊びの消極的な思考停止である。休んだり遊んだりするとき、それまで心の中で思っていたり頭の中で考えたりしていた事柄は一旦中断される。これに対してもう1つの積極的な思考停止は何かについて言ったり書いたりする場合の思考された内容の固定である。心の中で思っていたり頭の中で考えたりしていた事柄を言ったり書いたりするとき、そこに意味を与えるためには言葉の形に一旦固定されて表現しなくてはならない。消極的な思考停止における中断とは思考している状態から思考していない状態への移行であり、これは他の思考への飛躍を可能性として含んでいる。しかし積極的な思考停止における固定とは心の中で思っていたり頭の中で考えたりしていた事柄を素材としてそれに言葉による加工を施すものである。したがって消極的な思考停止の中断前後で別の思考へ変わっていても不思議はないが、積極的な思考停止による固定の前後で素材とは別の加工されたものが現われるとおかしなことになる。いずれにしても、思考停止の消極的な中断と積極的な固定は相互に挟み込むことができるので、これを文章を書く場面に置き換えてみると、語句と語句の間の思考停止と思考と語句の間の思考停止、つまり中断と固定が連続することで思考の運動というものが知られていることになる。
    ●そうだとすると、頭の中で猫は猫であると考えて、それを言ったり書いたりするとそこには思考の運動があるように思えるが、そうはならない。というのも猫は猫であるということは内容をもたないからである。たとえば猫は犬である、と頭の中で考えたり心の中で思ったりするとき、そこでは猫と犬が頭や心の中で飛躍的に結び付いて、それが内容となっている。しかし猫は猫である場合はそうではなく、思考停止の固定と中断というところから考えると、猫は犬である、ということは猫の固定と犬の固定が中断の飛躍を挟んで連続している。だが猫は猫である、ということは猫が猫として固定されるばかりでそこには思考停止の連続はなく、いうなれば思考停止が停滞している。なので猫は猫である、とは思考の運動であると言えない。
    ○しかし、そのような考え方は思考停止の積極性を実際のそれとは違うものとして当てはめた結果である。つまり思考停止の固定化の場合には猫を実際に声に出したり、紙の上に書いたりするときのことが考えられていたはずなのに、いつの間にか猫は猫である、と頭の中で思い描いたことの固定された内容のなさに要点が替わっている。言い換えれば、書いたり言ったりすることの形と思考することの内容の合致がすでに前提されている。ところがそのような前提が猫は猫である、ということの思考停止を知らず識らずのうちに招いているのだから、むしろ何も考えないで猫は猫である、と書いてみたときに一体そこに何が書かれているのかを考えなくてはならない。
    ●猫は猫であると左から右へ横書きするとき、左に書かれた猫と右に書かれた猫が同じであるという意味で捉えると、(左の)猫は(右の)猫である、というように括弧で補うことができる。このとき大事なことは(右の)猫を左側に置き(左の)猫を右側へ置き換えて、(右の)猫は(左の)猫である、と書いたとしても猫は猫であるということには変わりがないということである。つまり猫に関しては左のものは右のものであり、右のものは左のものであるわけだから、これを端的に表現すれば猫の同一は左右の同一である、となる。同様に猫は猫であると上から下へ縦書きするときも、(上の)猫は(下の)猫であるとなり、猫の同一は上下の同一である。それでは声に出して猫は猫である、と言ってみる場合はどうか。そのときどんなに早口で言ったとしても、(前の)猫は(後の)猫である、ということになり前後が上下左右と同じ扱いとなる。ただし左右や上下や前後の違いは書くことと言うことの違いに由来するわけではない。たとえば同じひとつのマス目に猫は猫である、と重ね書きする場合には左右ではなく、(前の)猫は(後の)猫である、となるだろう。また左耳に猫は、と聞こえ同時に右耳に猫である、と聞こえる場合には前後ではなく、(左の)猫は(右の)猫である、となるだろう。つまり左右上下前後というのは、それぞれの書き方と言い方ないし聞こえ方の仕方の事情に応じたかたちで配分される。
    ○いや、そうではなく猫は猫である、は左右上下前後に関係なくまさしく猫は猫であるのだ、と言ったり書いたりすることもできる。しかし、そう言ったり書いたりしたときまさに猫は猫である、は左右か上下か前後に引き伸ばしたかたちで展開されることになる。つまり横書きの場合だと、[左の]猫は猫であるは[右の]猫は猫である、となるわけである。このとき左右にあるそれぞれの猫は猫である、もまた左と右の猫に分かれているわけだから括弧の種類を増やして、
    [左の]{左の}猫は{右の}猫であるは[右の]{左の}猫は{右の}猫である。
    と書くことができる。[左の]は左にある{右の}猫である、までかかっている。そして[右の]はそこから右にある{右の}猫である、までかかっている。したがって[左の]{左の}猫と[右の]{右の}猫との間には、[左の]{右の}猫と[右の]{左の}猫が挟まれていることになる。つまり左の右と右の左が同じであるということが、猫は猫であるが猫は猫であることの意味になる。同様に猫の引き伸ばされた数を4匹から8匹に増やしてもそれに応じて左右の数を左右に増やすことになるのだから、結局のところ猫は猫であるとは、猫の引き伸ばされた数と共に左と右を相互に交換することである。しかし、ここでもまた次のように言うことができる。左右はあくまで左右なのであって、左右の左右とは関係がない、と。この左右の左右とは何かというと、それを言ったり書いたりしたときに現われる無数の左と右のことである。これに対して、左右はあくまで左右だと頭の中で考えたり心の中で思ったりしたときの左右とは、左と右に分かれない一つきりの左右ということになる。ところが一つきり、もまたそれを言ったり書いたりすれば(左の)一つきりと(右の)一つきりに分かれてしまって、猫の場合がそうだったように左の右と右の左の際限のない混成として一つきりが理解されてしまう。だとすると猫は猫であると言ったり書いたりするということは、一つきりの猫が左右上下前後に無数の猫へ移り、同時に左右上下前後自身もまた左右と上下と前後それぞれの反対のものへ移ることで混成される過程である、ということになる。
    ●はじめの思考停止の2つの様態を思い出すと、思考の運動と停止の関係を猫と左右上下前後の関係に準えて考えることができる。思考停止の2つの様態の連続が思考の運動と見做されるように、猫は猫である、ということはその反対のものの連続によって運動となる。すなわち一方では、思考の運動は思考の運動である限りその反対のものである思考の停止へ移行するが、これは猫は猫である、と頭の中で考えたり心の中で思ったりするだけでなく実際に言ったり書いたりすることに相当するだろう。また他方では、思考の停止は停滞することなく括弧が付加され続けることで左右上下前後に飛躍を与えて、左の右と右の左のようにそれぞれの反対のものへ移行することが猫は猫である、ということの裏付けとなるだろう。もし思考の運動が思考の運動のままであるならば、それは猫が左右上下前後に関係なく猫であるのと同じく、そこで何が言われまたは書かれているのかを考えることなく成り立つような、思考する場所を欠いた思考の運動になってしまう。
    以上により猫は猫である、ということを頭の中で考えたり心の中で思ったりするときにはその思考は停止していると言えるが、それを声に出したり書いたりすればその行ないは思考の運動に類似してくる。
    [20.0612]

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著者プロフィール

大東文化大学名誉教授。
著書に『日本人とリズム感:「拍」をめぐる日本文化論』(青土社 2017)、『おしゃべりと嘘』(青土社 2020)他。

「2023年 『談 no.126 リズムのメディウム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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