「他者」を発見する国語の授業 (TaiShuKan国語教育ライブラリー)
- 大修館書店 (2001年6月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (242ページ)
- / ISBN・EAN: 9784469221558
感想・レビュー・書評
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全般的に、国語教育において、主体性は大事だが、それ以上に大事なのは「他者」との出会い、対話という部分が丁寧に論証されている。
一口に授業といっても、そこには様々な価値観、思想があり、そこからにじみ出たものに過ぎない。その価値観を腑分けした上で、事の是非を論じないと情意に基づいた議論しかできなくなってしまう。
・中村:みずからの内なる悪と正面から向き合う。山口:文化は混沌をみずからのうちに不可欠な部分として保持しなければならない。---私たちの社会は本来、混沌=他者を内に含んでいなければならないが、「郊外」とはそのようなものを排除し尽くした社会であり、その均質さ、つまり他者を排除し尽くしたとき、その社会には「悪」が奇怪な形で噴出する。
・郊外は伝統的社会と都会的隠れ家の二重の意味でコミュニケーションチャンスから阻害されている。
・今度は孤立化した子どもたちの単声化した言葉が教室をおおうだけ。問題は異質な価値に支えられた子どもたちの言葉を、どう「対話的関係」に組み込んでいくかである。
・学習者自身の言葉を教材化して教材自体を対話性豊かなものとし、そのことによってここの学習者の内的対話や学習者相互の対話を活性化しようというのである。
・両者(柄谷、竹内)に共通する「他者」像とは、パタンや規則を共有せず、むしろそうした共同性を危うくする存在であり、真のドラマや対話とはそうした他者との出会いの中でのみ可能になるという認識である。
・創造の契機としての他者
・主体とは他者との関わりにおいてはじめて存立可能なものであり、したがって主体性もまた他者性との関わりにおいてはじめて確保しうるものと考えるべきであろう。
・想定された他者よりも、現実の他者の方が、論理を鍛える上でより重要な契機となる場合が多い。(コーエンとライエルの研究)
・ロトマン:芸術的効果は常に関係である。それはなによりも芸術と現実の相関である。芸術家によって作り出されたものは、芸術作品の内在的検討によってではなく、それと再現の対象、すなわち生との対比によって、見る人に明らかなものとなる。
・トルストイの主題表現への批判。
・主題観を「目標としての主題」から読みを確認し合うための「手段としての主題」へと転換する。
・方法としての主題--フィクションとしての主題ー>蓮見重彦:フィクションというのはとりあえずある事態を想定して、そうした条件下で何が言え、またそれが機能しえなくなるのは場は何かを見るための一種の装置である。
・作品がつねに「他者」として現前しうるというのは幻想のように思われる。作品に自己を投影するだけに終わってしまう読みの方がむしろ多いのではないか。だとすれば、そういう強固な自己の殻をうち破って、作品の「他者性」と向き合わせてくれる、より確度の高い契機となるのは、やはり、文字通りの「他者」、つまり他の学習者の読みとの出会いだろう。
・学習者個人の読みを出し合い、つき合わせることによって、「より豊かな、より深い、よりおもしろい、より意義深い」読みへと発展させることもできる。
・いじめや不登校などの問題も、実は日々の教科学習の中にこそ胚胎していると思うからです。詳細をみるコメント0件をすべて表示