「山月記」はなぜ国民教材となったのか

著者 :
  • 大修館書店
3.50
  • (3)
  • (5)
  • (6)
  • (1)
  • (1)
本棚登録 : 115
感想 : 11
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (311ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784469222326

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  『山月記』を通じた国語教育学研究の学説史、とも言える一冊。敗戦直後の『山月記』教材化が「学習者の言語経験を豊かにする」ことを目指すものだったことに着目、「教材中心」型読解授業の相対化を主張する。『山月記』における「人間性」の扱われ方に注目し、「国民文学」論争時に性急な政治主義と距離を置いた増淵恒吉の教育観が、科目「現代国語」の登場と1960年代の高校大衆化=高度経済成長の時代に見合うかたちへと展開されていった、という見立ては勉強になった。

  • 2019.3.2市立図書館
    「山月記」が高校の定番教材になった経緯をあきらかにするべく、戦後からの学習指導要領や教科書編集の変遷、授業技術のトレンドなど国語教育に関わるさまざまな動きが検証されていて、国語教育、文学教育について、初めて知ることも多くおどろかされたり感心したりしながらあらためて考えさせられる。
    かつての学習指導要領や授業技術の「教科書は一資料」「自主的自発的学び」などの発想には今に通じる新しさを感じるが、それを着実に実践にうつせたのは一握りの優秀な教師(とそれ相応のレベルの教室)だけで、しかも受験や社会からの要請に答えようとするうちにけっきょく大多数は理想からは遠い指導書をなぞった授業に落ち着いてしまうのだろうと思った。(今も昔も、国語科に限らず)
    一般的な国語の先生のやりがいの種類(文学を通じた生徒の成長)が自分にとってはかなり予想外で、でもなるほど新しい学習指導要領(高校の論理国語と文学国語とか)や教科書に採用される作品について危機感を募らせるのも道理だなと納得できるものではあった(現代国語=現国が導入されたときの動揺の記述が、ちょうど今と似ている気がした)。
    ただ、小中学校の義務教育の段階で基礎的な読解力を養った上での(後期)中等教育と考えれば、引き続きその路線でもいいかもしれないが、現実には学力がつかないまま義務教育終了扱いになって、勉強をするためというより就職の前提として進学してくる生徒も少なくはないのが現実である。本が読める人しか進学しなかった時代とは生徒の質がまったく違うのははっきりしている。またこの先は非日本語母語話者が学習言語として日本語を鍛えなければならないようなケースも増えてくる。
    このような現状では、子供の頃から本(文学)に親しみ大学の国文科や教育学部を出て国語の教員になるような人の「当たり前」や「文学への期待」の感覚はたぶん全体で見ればマイノリティであり、その独善が通じない時代になったという覚醒が必要な気がした。

  • 思いの外ダイナミックな展開となって非常に面白いと感じました。まず良書指定、ってところからして、山月記は戦後社会の荒波にいきなり揉まれ、経済成長、バブル崩壊とともに個人主義となっていく中で作者の手をとうに離れていた山月記は、教育現場の中でゆるやかに変節していく。とはいえ自分もそうでしたが結局は李徴の「放蕩野郎は…」に落ち着くのが定説になっているわけで、でもそれでは文学の価値を測る尺度としてどうなのかもありますし、教育の底なしっぷりときたら…。

  • 新着図書コーナー展示は、2週間です。通常の配架場所は、3階開架 請求記号:375.84//Sa66

  • 佐野幹『「山月記」はなぜ国民教材となったのか』大修館書店、読了。戦後日本の国語教材の定番とは中島敦の『山月記』、教科書掲載最多回数の記録を持つ。本書は203の教科書と学習の手引きを取り上げ、どのように教えられてきたかを浮かび上がらせる。著者は高等学校教員。授業での違和感が本作へと結晶した。

    自身の記憶を辿れば、国語教育における本作の翠点とは「李徴が虎になった理由」で、その模範解答は「李徴に人間性が欠けていた」こと。青空文庫で本作を読み直したがそれ一つには収斂しない http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card623.html

    教育の利益誘導は山月記に限定され得ないが、問いに対する正しい一つの答えという「信仰」は学校教育内に留まらない。文化を受容・解釈することのひな形を教育が設定するからだ。文学を読む、絵画や演劇を鑑賞することに模範解答を求めてはいないだろうか。


    本書は『山月記』が「国民教材」へと定着し、特定の模範解答に収斂しゆく過程を明かにする力作だが、その本作の射程は私たち自身の事柄であろう。教育とは何か、考えさせられる一冊である。

  • 「国語教材は実際どのような基準で選ばれているのだろう?」
    そう立ち止まって考えることが、意外にも私にはこれまでなかった。
    「山月記」がほとんどの教科書で採用されている理由についても、
    「多くの人の心に強く訴えかけるものがあるからだろう」
    と単純に考えていた。
    もちろんそれは大きな原因の一つだと推測できるけど、しかしそれだけではないのだと、この本に教えられた。

    教育者たちの教材観とは、つまるところ国語教育の目的そのもの。
    そこには、読解能力と人間育成どちらを第一にすべきかという悩ましい問題がそびえたっていて、
    社会、世論の考え方の変遷とともに指導要領もまた大きく変わってゆくため、
    現場の教師はそれに対応するべく苦労を重ねてきた…そうした歴史の流れが見えてくる。

    作中の一文にある李徴の「欠けるところ」。
    それを授業のなかでどのように取り扱っていくかという問題だけで、
    ・課題学習の一環として
    ・生活概念の獲得として
    ・研究者的作品観によって
    などいろいろな見方がある。
    このめんどくささも、教育の奥深さの一端という感じだ。

  • 中島敦の『山月記』。
    たぶん、ほとんどの人が高校の「現国」の授業で学習している小説。
    検定制度、各時代ごとの学習指導要領、数例の授業報告、などのさまざまな視点から、「定番教材」化していく過程を丁寧に述べている。

    国語が現代文(いわゆる「現国」)と古典に分けられた状況、課題学習と生活学習との対立など、時代状況をふまえて考えることで、「国語教育がどのように変わってきたのか」浮かびあがってくる。

    教育関係者はもちろんだが、教えることについて考えたい人に、是非読んで、そして、考えてほしいと思う。「小説を読むとはどういうことか」ついて考えたい人にもおすすめ。

    良書。

  • 【配置場所】工大選書フェア【請求記号】375.84||S【資料ID】91132521

全11件中 1 - 11件を表示

佐野幹の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×