白い線

著者 :
  • 大和書房
4.00
  • (0)
  • (3)
  • (0)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 16
感想 : 1
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784479880417

作品紹介・あらすじ

「暗夜行路」へ通じる静かな哀しみを記した「実母の手紙」、戦後日本がまざまざと蘇える「灰色の月」など、四十二篇を収録。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 志賀直哉は昭和46年まで生きたが、戦後はほとんど小説を書いていない
    この本には、戦後の随筆や掌編小説といった仕事が
    42編収められている

    「白い線」
    昭和31年
    年老いた志賀直哉は漸くにして
    親や祖父母の気持ちがわかるようになり
    若いころ自分が書いた短編の薄っぺらさにも気づいたという
    けれども、人間社会を見るにあたっての率直なまなざしを失い
    打算や、献身を装う自己愛などといった他者の裏面を
    書かずにいられなかったこの時期の志賀直哉(73歳)から
    かつての魅力が多少なりとも損なわれているのは確かだ
    もっとも、いずれにしたところでそれは
    昔と変わらぬ思い込みの激しさなのかもしれないが…

    「夫婦」
    寝る子が口に含んだガムを吐き出させたはいいけれど
    捨て場に困った母は、横にいる夫の口にそれを突っ込んでしまった
    汽車の中でそんな光景に出くわした志賀は
    自分の妻にもそういう気安さがあったなあと考えて
    まあ、悦に入るわけだ

    「少年の日の憶い出」
    志賀の祖父はあらぬ疑いをかけられ、逮捕されてしまった
    相馬事件といって、詳細はWikipediaにも載っているんだが
    いいがかりをつけてきたNという男は
    それをネタに小説を書くなどして、かなり儲けたらしい
    後年…戦争の始まる少し前、志賀直哉は妙なところでNの孫と出会う
    Nの孫がそれを誇らしげに語る一方
    志賀は自ら名乗ることもなかった

    「蓮花話」
    志賀直哉も年老いてからというもの
    子供たちに叱られることが増えたらしいが
    これは、忠心ゆえ主君に背いた臣下の話である

    「灰色の月」
    終戦後、はじめて発表した小説
    山手線の電車内で
    戦争中の殺気立った空気も緩んできたことを示す出来事に出会い
    嬉しく思ったのも束の間
    隣に座っていた少年の捨て鉢な態度を見て
    よけい暗澹とした気持ちにとらわれる

    「玄人素人」
    コブラとマングースの戦いを16ミリフィルムで観戦した志賀は
    庭でみつけたアオダイショウに飼い犬をけしかけてみる
    ニヒリズムとも違う独特の無常観があって面白い

    「紀元節」
    紀元節とは、神武天皇が即位したとされる日のこと
    昭和30年代、どうもこれを祝日として復活させる動きがあったらしい
    それに志賀直哉が苦言を呈する一文で
    まあ尤もな話だが
    しかし何かを信じてなければ駄目になってしまうことも
    人間にはあると思う

    「山鳩」
    作曲家の福田蘭童は恐ろしい男で
    志賀直哉のご都合的なセンチメンタリズムを
    嘲笑うようなところがある
    かつて太宰治は「二十世紀旗手」のなかに福田蘭童のことを書いた
    メディアの中の彼は要するに、太宰にとって悪のお手本だったわけだが
    戦後、なぜかその福田と志賀直哉が親しく付き合っていたらしい
    互いに老境を迎えてのこととはいえ
    読者からすれば、謎の多い関係である

    「東京散歩」
    昭和33年、雑誌の企画で尾崎一雄をともない
    東京じゅうの旧跡を見てまわったのだが
    そこで昔を懐かしむ思いがほとんどなくなってしまった自分に気づく

    「加賀の潜戸」
    松江に住んでたころ、里見トンらと連れだって
    的島の神潜戸というところに行き
    そこで栄螺を食ってみたところ、これがたいそうマズかった
    ところが30年後
    ふいに里見が「的島の栄螺はうまかったねえ」などというものだから
    志賀はおおいに困惑するのだった

    「杳掛にて」
    芥川龍之介が死んだとき出された追悼文
    戦前のものです
    志賀直哉にとっては父親との確執と和解が大きなテーマだったが
    幼いうちから母方の実家へ養子に出された芥川龍之介に
    父親は縁遠いもので
    そのことが、両者の性格に大きな違いをもたらした
    小説家として大家族を養っていくことに対する芥川の不安を
    志賀直哉はあまりにも軽く見すぎてるように思う
    あと「筋のない小説」という芥川晩年のこだわりが
    志賀の直接の助言から生じたらしいことは
    この一文からわかる

    「小林多喜二への手紙」
    プロレタリア作家たちが書いた、思想を解説するための小説に
    苦言を呈している
    小林多喜二は結果的に
    その死をもって自らの存在を示すこととなった

    「太宰治の死」
    理想主義者の集まりと目される白樺派の中で
    有島武郎や武者小路実篤がその実践に走る一方
    志賀直哉は基本的に何もしない人であった
    何もせず、「文学の神様」と呼ばれる立場に居座っていた
    怠慢ではない
    ただ志賀直哉がそこにいることで安心でき
    それ以上は望まない人が多くいたというだけのことだ
    プチ天皇である
    しかしそれでいて、彼は紀元節を理屈で攻撃するような人だった
    よその神を否定する神といった存在のありようは
    今ならカルト、あるいは原理主義と呼ばれかねないものである
    「如是我聞」を書いた太宰治にしてみれば
    それを危険とまでは言わないにせよ
    鼻持ちならないやつ、ぐらいのことは思っていたはずだ
    ひょっとすると、そんな志賀直哉の足場を崩すべく
    自らがより神の高みに近づくためには
    再び死線を踏破せねばならない、なんてことを考えたのかもしれない
    ユダや公暁のようなやり方では
    むしろ相手の伝説をより完璧なものにしてしまうからだ
    …まあ真相はどうあれ、結果的に太宰は死に
    志賀が当たり障りのない追悼文を書いて、この話は終わるのだけど
    しかし後年、伝説として残ったのは死んだ太宰だった

全1件中 1 - 1件を表示

著者プロフィール

志賀直哉

一八八三(明治一六)- 一九七一(昭和四六)年。学習院高等科卒業、東京帝国大学国文科中退。白樺派を代表する作家。「小説の神様」と称され多くの作家に影響を与えた。四九(昭和二四)年、文化勲章受章。主な作品に『暗夜行路』『城の崎にて』『和解』ほか。

「2021年 『日曜日/蜻蛉 生きものと子どもの小品集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

志賀直哉の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×