哲学は対話する: プラトン、フッサールの〈共通了解をつくる方法〉 (筑摩選書 180)
- 筑摩書房 (2019年10月15日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480016898
作品紹介・あらすじ
プラトン、フッサールの哲学は、互いの意見を確かめ、共通了解をつくりだす「対話」の哲学であった。そのことを丁寧に確かめ、現在の対話に活かす方法を考える。
感想・レビュー・書評
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500ページ近い大著である本書は、哲学の原点に立ち還るような根源的試みだ。
哲学の原点といえば、古代ギリシアでくり広げられた市民たちの「対話の文化」にある。
市民たちがごく普通に哲学的対話に花を咲かせ、その文化土壌から、ソクラテス、プラトンに代表される多くの哲学者たちが生まれ出た。
現代日本においても、「哲学カフェ」と呼ばれる〝草の根の哲学対話会〟が少しずつ広がってはいる。だがそれでも、古代ギリシアの「対話の文化」にはほど遠いだろう。
著者は、そのような「哲学対話」が日本の市民社会に広まり、定着することを願っている。
言い換えれば、哲学がインテリの占有物にならず、広く市民が「よき生き方」を探るためのよすがとなることを。また、哲学が空疎な観念の遊戯に終わらず、人々の生を豊かにするツールとなることを……。
そのための地ならしというか、〝理論的土台作り〟を企図したのが本書である。
著者は本書で、古代ギリシアから現代までの哲学史を駆け足で概観する。そして、「哲学の歴史は、古代ギリシア以来、独断論と相対主義がせめぎ合う歴史」(318ページ)であったと捉える。
「独断論」とは、究極の真理を追い求める哲学の謂である。
「究極の真理とは◯◯だ」というふうに、断定して結論づけるそうした哲学は、提唱者の独断とならざるを得ない。ゆえに「独断論」なのだ。
そして、独断論が横行したあとには、反動として、また独断論の持つ「権力性」・独善性への批判として、相対主義の哲学が生まれてくる。
しかし、「相対化がいきつくと『すべてが人それぞれ』になる」(15ページ)ため、哲学は「社会に矛盾が大きくなったとき、自分たちで認識を共有し解決していく」ためのツールとしては役立たずと化してしまう。
哲学が人々の生をよりよくするための英知ではなくなってしまうのだ。
20世紀は相対主義の哲学がとくに力を持った時代であったから、21世紀は哲学の〝役立たず感〟が著しい。
だからこそいまは、独断論と相対主義を「解体」して捉え直し、哲学対話によって「皆が納得しうる共通了解の形成」(16ページ)を目指す第三の道を模索する必要がある。
……と、そのような現状認識のもと、著者は対話哲学の再興を願って本書を著したのだろう。
そのために著者が選んだ方法は、対話哲学の本家本元ともいうべきプラトンの「対話篇」と、「共通了解」を目指したフッサールの現象学の見直しであった。
本書は3部構成。
第1部でプラトンの代表的「対話篇」が読み直され、第2部ではフッサール現象学から対話哲学の要諦が抽出される。
この1~2部は、プラトン(及びその師ソクラテス)の哲学、フッサール現象学の平明な入門として読むこともできる。
とくに第2部は、難解なフッサール現象学の本質が手際よくあぶり出され、見事だ。
そして第3部は、フッサールの方法論「本質観取」を用いての、対話哲学の実践編である。
この第3部では、正義の本質とは何かというテーマを立てた場合、どのように哲学対話を進めていけばよいかが、具体的に詳述される。
巷にあふれる「哲学カフェ」の運営に携わる人は、この第3部を手本とするとよいと思う。
本の帯には、「哲学の可能性はここにある!」との惹句が大書されている。
たしかに、「これからの時代にこそ、実践的ツールとしての哲学が必要だ」と思わせる本であった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
誰にでもわかりやすいコトバで哲学の根本的意味を問いつつ、プラトンやフッサールの思想を通じて、共通了解に向けた哲学対話の具体的手法を提示しつつ分断→共存の社会を目指した画期的な大作。
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対話のアプローチは1つではない。哲学的なアプローチが本質観取である。
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対話を通じて共感できる点を探し出すことの重要性や、対話が私たち個人や社会に良い影響をもたらす可能性について、具体的な実践方法を紹介しつつ説明する本。
ソクラテス・プラトンの考え方や、フッサールの考え方が前提とされているが、それらについても、簡明な言葉で丁寧に説明されており、とても分かりやすかった。
哲学というと、難しくてとっつき難いものという印象があるけれど、これなら普段の生活(仕事や家庭など)でも役立ちそうだと思えた。 -
3部から読んだら具体的なワークショップの方法が書いてあった。1,2部について、とくにフッサールの部分はわかりにくかったような気がした。
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哲学カフェなどで「勇気」「死」「正義」などのテーマをめぐる哲学対話を実践してきた著者が、プラトンやフッサールの思想を解釈しつつ、対話を通じて公共的な妥当性を形成していくことの哲学的根拠を明らかにする試みです。
著者の議論は、竹田青嗣から継承した独特の現象学理解にもとづいており、「客観的認識についての確信成立の条件」を解明したという点に、フッサール現象学のもっとも大きな意義があったと理解されています。
こうした立場に立ちつつ、著者はフッサールの「本質観取」の方法の有効性についてくわしい説明をおこなっています。著者は、フッサールという一個人がみずからの体験について反省することで取り出された「本質」は、「この私の体験」という事実性を超えた「自我一般」の了解につながっていることに注目することで、現象学の方法は相互の確証や訂正が可能な公共的な議論の次元をもっていることを明らかにすることを試みています。
本書の最後では、「正義」というテーマについて「本質観取」の実践がおこなわれ、公共的な議論によってたがいに対立する見解を乗り越え、対話を通じた正義を実現するための道筋が示されています。
竹田現象学の思想的可能性を測定することができるという意味でも、興味深い内容だったように思います。