- Amazon.co.jp ・本 (207ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480041388
感想・レビュー・書評
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へのへのもへじ文庫で借りた本。ちくまプリマーブックスに入ってる本は、好きでよく読んでいた。
借りたときには気づかなかったが、動物学者・小原秀雄の対談相手は谷川雁(『工作者宣言』とか『北がなければ日本は三角』の人)だった。長野へ移住したあとの谷川がやっていた『十代』という月刊誌で1985年から3年かけてとびとびに掲載されたものが元だという。なので、その後の研究などがすすんでいれば、科学の世界としては「分かったこと」が増えたり、解明されて書き換えられたこともあるのかもしれないが、それはともかくおもしろかった。
動物好きなたちではないが、山麓に住んでいるため、動物に会うし、関心はあるという谷川は、雪道についた足跡から(子づれの母ギツネがびっこをひいているのでは)と考えたりする妄想癖もつよく、こんな勝手な話をバカにせず整理してくれる専門家はいないものかと考えていたそうだ。
谷川のこわいもの知らずの質問に対して、にこにこ笑って答えてくれたのが小原秀雄。
▼どんな「珍問奇問」にも打てばひびくように答が返ってきます。それに耳かたむけていると、動物というものはなんとしなやかな存在であることか。それを見つめる動物学の基本態度というものも、なんと透明でほがらかであることか。(p.206、谷川)
そういう話が、シカ、クマ、ゾウ、タヌキ、ネズミ、リス、ウサギ、モグラ…などを中心に繰り広げられる。巻頭は「動物を襲うのは人間の本性か」という問いが語りあわれている。動物の攻撃性(=積極的に食べものを求めていく働き)は、食物を求めるために必要なことで、「植物が無機物から自力でエネルギー源を生産できるのに対して、動物はほかの生物の生命をうばわなければ生きていけないわけで、そこに攻撃性の一つの根源があるのはもちろんです」(p.14)ということなのだ。
自然な状態であれば、どれほど攻撃的な動物であろうと、無制限にはならない。ところが人間は文明の力で攻撃を続けることが可能で、枠がはずれてしまっている。人間がほかかの生物にとって決定的な災いとなることを、動物学者の立場からどう考えるかと問われて、小原はこう答えている。
▼小原 ヘビがきらいとなったらとことんまで殺すというような行為が、もしも人間の情動のレベルに原因を持っているとしたら、いくら私たちがヘビを殺すなといっても無力のような気がします。しかし、小さな子どもはみんな動物が好きです。それは自然に根拠があるとみられます。それがだんだん変化するわけで、むしろ教育というような側面で"きらいな動物"と排除する方法とをつくり出しているんじゃないかと思われるわけです。小さなときなら共存可能な情動を持っているようですよ、人間も。(p.15)
この「教育というような側面で」の箇所が、巻頭では印象的だった。
「後方を十分注意するというようなことが、シカにかぎらず、動物の意識の中では薄いような感じがしますね」という谷川の問いに、「生物にとっては生存の欲求のほうが防御心よりも強いということです」(p.30)という答。
白いゾウ=アルビノのことも、つい最近『アルビノを生きる』の本をもらった私には、そうかあれもアルビノかと印象に残った。
▼小原 …自然界でアルビノが生まれる率はほかの種もあるのでわりあい高いかもしれませんが、大部分はすぐ死んでしまって、われわれの目にふれるのはごく一部のもののようです。ゾウの場合は連帯意識が強く、また力も強いですから、ほかの動物のように天敵にとられることがなくて、残りうる。とくに人間に飼われているゾウですと、白象を尊ぶというような面が人間にありますから、人為淘汰を受けて大切にされて生きのびることができるのですね。…(pp.83-84)
「飼いウサギはほとんどが色素欠乏で白なので、目の血管がすけてみえるというだけ」(p.155)、つまりウサギの赤い目もアルビノゆえのこと。
ネズミの生態と比べると、人間が「可能性の動物」だと自己認識しているだけ、という指摘もおもしろいと思った。
▼小原 …人間だって何でもできるといわれますが、考えればすぐに、われわれは何かほかのものをからだにくっつけて、それを利用しているだけだと思い知らされます。形態的に、たとえばペタッとうつぶせに水に入れば顔(鼻)が水についてしまうので、溺れざるをえない。ネズミのほうは、自然に鼻先が水面から上に出る形をしています。人間は自分で頭を持ち上げることをやってはじめて水を泳げるので、そういう点で"可能性の動物"と自己認識しているだけですね。それは、新たな対応を考え出し、道具を作ったりできる能力がある点ですぐれているでしょう。それを今まではからだにそうした能力があると誤認していたともいえます。(pp.113-114)
人間が自然破壊するのと、動物が一見自然破壊に思えることをするのと、両者の大きな違いは「取りこぼし」だということ。ネズミが庭に入ってきて、ランやユリなど球根や地下茎を食べてしまうものの、根絶はしない。それは「本能的に残すのか、それともどうしても機能的に残ってしまうのか」という谷川の問いに、小原は「取りこぼしがあるということ自体が自然のプログラムに組みこまれていると考えたいのです。ネズミはまったく意図することなく、せっせと食べているのだけれどども、やっぱり取りこぼす。そういうふうにネズミの存在が作られている」(pp.122-123)と答えている。
高層ビルの高いところはクマネズミ、下のほうはドブネズミという住み分け例が出てきて、ドブネズミとは共存できるハツカネズミが東京に復活しているという話があるという。大都会は「三者共存という、ネズミにとっては天国のようなところ」(p.125)で、一見近代的なビルなどでも、排水溝のなかには必ずネズミがいて、エサにありついているという。「それほど多くなっているのに、皆あまり気にならなくなっているのはどうしてだろうと、私はそのことが気になるのです」(p.125)と小原は語る。気になるところが、ちょっと違うんやなーと思う。
リスは人間と同じく視覚型の行動をするが、そうではない動物も多い。人間の"視点"でうっかり勝手にものを考えてしまいがちなところを、小原は指摘する。
▼小原 どうも人間は目で見て道をたどったりしますから、動物もそうだろうと考えてしまいますけれども、イタチはともかくも、シカやヒツジなどはひづめの間や足首などににおいを出す分泌腺があって、一度通った自分の跡を容易にたどることができるんですね。ですから、注意深くする必要があるときには、かならず自分の踏み跡をたどって歩くのです。"けものみち"はそうやってできるわけです。(pp.136-137)
モグラの話のところで、地下が安定した環境だと話しているのが、『スキマの植物図鑑』のスキマの話のようだった。
▼小原 …地下というのは、いったん入ってしまえばごく安定した環境で、あまり変化を必要としない世界ですね。はじめに原始的な哺乳類の中に、この世界を利用するために地下に入る者が出てきました。(p.175)
モグラはどうしても見かけることが少ないので、絵本の絵に描かれているようなイメージだけで勝手に考えていたりするが、体がひじょうにやわらかいとか(谷川が、たまたま地表でモグラが死んでいるのを見かけるとグターッとしていると言っている)、土を掘り進むには胸部がしっかりしていないといけないとか(谷川が「からだつきも水泳選手みたいですね。胸部が非常に発達し、そのわりには腰があまり大きくない」と言っている)いう観察にもとづく表現がおもしろかった。谷川の経歴のせいか、炭鉱での仕事になぞらえた話もあった。
目次に並ぶ各章タイトルがおもしろい。
動物を襲うのは人間の本性か
シカの角はむだなようだが
大力で草食にも向く肉食の動物、クマ
ゾウ、美しい工科系の野性
タヌキ汁はアナグマだった?
都会はネズミのために存在する
尾を立てないリスの平和
ビタミン剤を自家製造するノウサギ
モグラが地図を訂正するとき
哺乳類を理解するために(小原秀雄)
しなやかなおとなりさん(谷川雁)
小原秀雄の比較的最近の著作には『人類は絶滅を選択するのか』や、『「弱肉強食」論 動物からヒト、人間まで』があるらしい。この本での対談はもう30年くらい前のことなので、最近の本も読んでみたくなった。詳細をみるコメント0件をすべて表示