- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480061348
作品紹介・あらすじ
太陽の輝き、朝のコーヒーの香り、小鳥のさえずり…私たちの意識は鮮やかな質感(クオリア)に満ち満ちている。物質である脳が、心の中に、そうしたユニークな感覚を生み出すのはなぜか?そして、すべてを感じる存在としての「私」とは何ものなのか?人類に残されたこの究極の謎を解きほぐす鍵は、他者との関係性の中でダイナミックに変化する脳のはたらきにある。既存の科学的アプローチが解明できずにきた難問に新境地を展開する画期的論考。
感想・レビュー・書評
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クオリアの解説。感覚の説明を言葉で分かりやすく。
<あるもの>が<あるもの>であること。なぞなぞのようだが、最も適した表現である。言葉とクオリア、言葉は共有できるが、クオリアは感覚であるので、共鳴か?共振か?
感覚の揺らぎ=ファジーであること。
「ふり」をする能力、感じでは振り、降り、
ミラーニューロンとは、クオリアを伝える、行動である。同一の機能である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
♠クオリアがゲシュタルト崩壊しそう
♠前半よりも中盤あたりからなんとか咀嚼できたかんじ。人に伝えるってなったら…うん……
♠「”本来の私”をAとすると他者との社会においてA'、A"、…と一日中「ふり」をしていて、それは”私”の相手の捉え方も同じ様である。だがそもそも主格である”A”が存在するかも不明。」
♠「私たちは日常生活で言葉の意味を明示的に問うことなく用いている。…いざとなれば意味を問うたときに記述が生成されることを可能にする形で〈私〉の中でさまざまな言葉がクオリアという形式をとって同一性を維持し続けている。」 -
脳科学から哲学的な領域に入った茂木さんの意識論。やはりクオリアに関する記述も多く、理解しにくいきらいもあるが子供の「ふり」に関する考察や痛くて泣くという行為は母(他者)にみられることで意味を持ち、見られていなければ意味を持たないといったことから導かれる「自己という同一性とは他者との関係性によって生み出されるもの」という考え方は、面白い話だと思います
これは、仏教で言うところの縁起の思想そのものだと思われ、最新の脳研究の知見を考察した茂木さんからも2500年まえの釈迦の思想が導かれる不思議が面白い。 -
平易に記述されている中で、尋常ならざる難しさが垣間見えます。したがって、本の内容はよくわかっても、その内容の本質はほとんどわからない。上辺だけをなぞったという感じでしょうか。そして上辺だけをなぞるのは、現時点では致し方がないのでしょう。
『クオリア入門』よりは、読みやすかったですね。 -
意識が物質である脳からどのように生み出せれるのかにとても関心がある。それでこの本を読んだのだが。
著者も書いてあるように,そのことに関して,今の段階で脳科学もまだ解明できていないようだ。
そのせいだろうが,すっきりしない。 -
例えば落合陽一みたいな人ってけっこう機能主義なのかな?
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主に認知に関する議論が多い。例えば、小鳥のさえずりや鮮やかな赤を、いかにして脳でユニークなもの(クオリア)として認識しているかという問いについて議論している。脳の解明はやはり難しく、1か0かではないところに科学らしくない科学といった印象を受ける。学問もヒトに近づけば近づくほど白黒はっきりできないものが多いように思う。もちろん共通言語として論理的に考えることはツールとして必要だが、世の中すべてを単純化して見てしまうことは、あらゆる弊害を生む気がする。もしかするとICTの限界はその辺りにあるのかも?
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最初のうちは、分かっていながらもなかなか言葉に出来ないことが、”クオリア”として表現されることで、スッキリした気分を味わえた。読み進むにつれて、同意反復が気になってくるというか、”クオリア”に関する解釈を、ひたすら言葉を変えて繰り返しているだけに思えて、だんだん辛くなってきました。もう少し厚みが欲しいというか、一冊の書として纏めるには薄いというか。正直、学術論文くらいの長さで纏まっていた方が、インパクトも高まると思うし、ニュアンスもより良く伝わったんじゃないか、と思えてしまいました。
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2015/7/26bookoffで購入。
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「クオリア」ということばが何度も登場する。本書のテーマになっていることばだ。しかし、どうもこの言葉の意味をうまく人に説明することができない。自分で使うこともできない。本書によると、クオリアとはもともとは「質」を表すラテン語で、心の中で感じるさまざまな質感を表すことばとして定着してきた。では「質感」とは何か。いろいろな具体例で説明がなされているが、私なりに解釈をすると、「苦い」ということば1つを取ってみても、コーヒーは苦くて好きになれないという人もいるだろうし、その苦さが好きだという人もいるだろう。同じことばでもそれぞれの人にとっての感じ方は違う。もっと言うと、赤いリンゴを見たとき、私とあなたで本当に同じ赤色を感じているのだろうか。それまでに生活してきた文化的な背景によっても感じ方は違ってくるのではないか。そういったそれぞれの意識の持ち方が「クオリア」となるのだろう。しかしそんなことを一々考えていたのでは話が進まない。だから皆が同じように感じているとして話を進めてしまう。ちょっと立ち止まって考えると、それは突然「難しい問題」として目の前に現れてしまう。それは哲学の問題だ。そんなことは科学としては扱えない。科学は客観的に数値で扱えるものしか扱わない。ところが、それが最近少し変わりつつあるのだそうだ。脳の研究者の中で「意識」ということを扱うのはタブー視(良いことではないと)されてきた。技術の進歩で、何かをしているとき、何かを感じているとき、脳の中のどこがはたらいているかを突きとめることが出きるようになってきた。人間の「意識」を科学として扱うことが出きるようになってきたというのだ。20世紀は物理学の時代だと言われた。21世紀は生物学の時代、特に脳研究の時代と考えられる。本書のテーマはしばらく大きく発展していくに違いない。しかし、今のところ私には、本書の内容はボヤーとしか感じることができない。ちょうど養老先生と本書の著者との対談が出版された。それも読みながらさらに考えてみたい。