前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書 987)
- 筑摩書房 (2012年12月7日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480067005
感想・レビュー・書評
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この本が出たのは五年前。あまり深く考えずに手に取ったのですが、この時差がけっこう面白いかも。私はアイドル界のことはよく知りませんが、当時は的を射ていた分析も、年月が経つとまた違って感じられるかもね。前田敦子さんも結局は消費されていく芸能人の一人だったのかなあと思ったり、頂点を極めたらあとは落ちていくのが自然の理なのかなと思ったり、いろいろ感慨深かったです。
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この著者、AKBの追っかけしてるからじゃなく、
自著の想定読者に届く言葉かどうかを全く斟酌せずに専門用語を轟々と語りまくる、その一人よがりっぷりが
正真正銘の「オタク」なんだと思った。
AKBというシステムを宗教と対比させた視点は面白い。
資本主義社会の中では、こ~ゆ~カタチでしか純愛は成立しないのかも…とも考えた。
でも、これって決して新しいシステムでもなんでもなく、郭や茶屋の女たちだって、古くは白拍子だって、同じように「女」を売って―いや売られて、商売道具にされてたんだよね。
人気があれば着飾った絵姿なんかも出回った訳でしょ?
ぶっちゃけ水商売って普遍の商売なんだろぉな…。
ただ昔は買えたのは富がある者ってだけで。それが庶民まで下りてきたって事か。
貴賤貧富の差・男女の性差別が無くなった今、実際の性交渉が除外されたってだけだよね…とも思った。 -
AKB48の魅力とは何か? なぜ前田敦子はセンターだったのか?後に『不動のセンター』と称せられた前田敦子ちゃんを徹底的に分析することによってAKB48の持つ「宗教性」をあぶりだしていきます。
『前田敦子はキリストを超えた』
このセンセーショナルなタイトルは筆者の友人であり評論家の宇野常寛氏のツイートがきっかけとなっているのですが、時代と場所が違えば恐らくこれは轟々たる批判を浴びていたであろうなぁと思いながら本書を手にとって見ました。
内容はというと、自らもまたAKB48の『ヲタ』を自認する筆者があっちゃんこと前田敦子(性格には元メンバー)と筆者自身が『推しメン』として大ファンであるぱるること島崎遥香を中心にしてとしてのAKB48を新書一冊分丸々使って語りつくすと言うものです。それにしても『識者』と呼ばれる人間に思い入れ100%の本を何冊も書かせるAKBグループはいまや巨大な『モンスター』となってしまった感が否めません。
僕は半ば距離感を置いて本書を半分ほど読み終えた頃、好きな作家の佐藤優氏がラジオでここに書かれていることとほぼそのままの見解を話しているのを聞いて、やっぱりキリスト者(佐藤氏はプロテスタント神学)からAKB48を見ても、彼女たちにはそういった側面を持っているものだったんだなと思い、改めてここに書かれている内容を読み通してみたのでした。
「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」
前田敦子ちゃんが第三回選抜総選挙で1位を取った際、壇上で彼女が話したスピーチの内容は有名で、この中には『利他性』というものが存在すると筆者は説いております。この『利他性』というある種の『自己犠牲』はAKBメンバー1人1人の中に刻み込まれており、ついでにいうなれば第五回選抜総選挙で1位となった「さしこ」こと指原莉乃ちゃんの中にも確実にそれらが存在すると思うのです。
僕はこの辺のことをまったくわかっていないのですが、『アンチ』という存在がいて、1つはAKBそのものに対して否定的な、もしくはまったく興味の無い『AKBアンチ』もう1つはAKBの『ヲタ』のなかに存在する『AKBヲタ内アンチ』というものがあるそうで、これは昔日の会社の中にあった『派閥』のようなものだなと思っております。日ごろは『○○アンチ』や『××アンチ』といったようにメンバーやそのファンたちを非難していても、外から彼女たちの悪口を言われればガッチリと結束する。そういう風に捉えております。
しかし、彼ら彼女らがネット上に膨大な量で排出する匿名の批判。場合によっては誹謗中傷とも取れる発言の数々になぜああも耐えうることができるのか?その疑問に対しても筆者は、握手会や劇場公演などのナマで彼女たちを見る機会、さらに直接ファンとメンバーが直接交流できる機会を通じて、『ヲタ』が『メン』に大して語りかける励ましの言葉によってであるという分析は『あぁ、なるほどなぁ』と感じ入ってしまいました。
さらには、AKBグループ独特のシステムである『推し』について、第三章の『なぜ人は人を「推す」のか』で徹底的に語られており、AKBの運営は「偶然性」というものに彩られているということや、「擬似恋愛」としての側面を挙げて、彼女たちへの『ヲタ』の想いは恋愛でも性愛でもなく『恋→政=愛』という形態をシステム化させたということや、古典的なロマンチックラブの甦り、さらには彼女たちが成長していくのを「見守る」という「喜び」そして「商品」でありながら人間でもあるというアイドルのある種不思議な存在にぱるること島崎遥香ちゃんの例を用いて解説されており、その『熱さ』に思わず打ちのめされそうになってしまいました。
最後になる第四章の『AKBは世界宗教たりうるか』では
「たかがアイドル、されどアイドル」
で本当に世界宗教になるのか否かということはさておいても、ここまでのシステムを「偶然」とはいえ作ってしまった秋元康氏とわずか7人という観客からスタートし、今やその一挙手一投足までもが衆人にさらされるようになり、その中でも『傷つきながら、夢を見る』彼女たちを『推し』たくなるという『ヲタ』たちの内在的論理や行動原理は少しだけわかったような気がいたしました。 -
内容としては、なぜAKBファン(オタ)になるのか。AKBがファンを虜にする仕組みと関係性について書かれた内容になっている。
筆者の更なる言及と、もっと幅広いメンバーについて、新書以外で読んでみたい気もしますね。 -
「推し」とは何か?
絶対的なものへのコミットメント
⬇
境界線の恣意性
⬇
恣意性からコミットメントへ
(あえてコミットメントする)
宗教からAKBへはこういう一サイクルとなっています。
深いコミットメントを描いたここ最近の作品として
『1Q84』2009年村上春樹
『借りぐらしのアリエッティ』2010年 宮崎駿監督
しかしこの辺の作品が描く他者へのコミットメントとAKBの誰かへのコミットメントは違う気がする。
〈宗教〉としてのAKB48とは何か?
「あえてコミットメントする」から「あえて」がとれて
⬇
「(絶対的?)なものへのコミットメント」
まで1週したということ? -
ぜんぜんまとまってない。こじつけにも程がある。でもなんかもうAKB好きなんだろうなぁという感じはすごいする。それが面白い。それでいい。
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本屋にて立ち読みでパラパラ読みでサラリと読了
我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか
というキリストの言葉と
私のことは嫌いになっても、AKBのことは嫌いにならないでください
という前田敦子の言葉を重ね
2人に自分を犠牲にして他者を活かす「利他性」を見出したり
オタクホイホイと呼ばれる握手会でのメンバーを
人間を釣る(漁をする)漁師
と評したり
キリスト教ネタを知ってる奴には楽しめるムダに熱い本
でもおもろかった!
古本で半値以下になったらじっくり読もうかな…ただその頃にはAKB終わってるかも(´・ω・`)