部落解放同盟「糾弾」史: メディアと差別表現 (ちくま新書 1131)
- 筑摩書房 (2015年6月8日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480068378
感想・レビュー・書評
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■不快語とは
・差別語を含んだ大きな内容を持つ概念で個人の生理的な不快感や思考の領域に属する言葉といえる
・個人の身体的特徴や性癖などを侮り,悪意を放つ言葉ではあるが,排他的な社会構造の中から生まれてきた言葉ではない(例:ハゲ,チビ,ノッポ,ボケ,カスなど)
■差別語とは
・他者の人格を個人的にも手段的にも傷つけ,蔑み,社会的に排除し,侮蔑,抹殺する暴力性を持つ言葉のこと
・自己選択できない自然的・社会的属性を理由に差別の対象とされた人や集団を賤しめていう賤称語であり,差異化された一定の社会集団(社会階層)に対する差別意識=憎悪感を共有する社会性を持つ(例:穢多,鮮人,ビッコ,メクラ,キチガイなど)
・さらに差別語はそれ自身に固有の歴史的,社会的背景を持っている。その時々の歴史状況から生み出され,社会的偏見に基づく差別性(マイナスの価値)を含んだ言葉であり,人種,民族,宗教,性,職業,国籍,身体的,精神的特徴など,様々な差異を手掛かりに排他的イデオロギーを持ってつくられる -
部落解放同盟の「糾弾」と聞くと、なにやら恐ろしい気がするけれども、「糾弾」という言葉がよくないだけで、「差別をなくしてほしい」「このような点が問題である」というお願いや指摘と言えるのではないだろうか。
差別の問題は難しい。けれども、根気よく「糾弾」していかなくてはいけないと思う。今は部落解放同盟が弱腰になってきているようだが、差別問題については、毅然とした対応が望まれる。 -
特に1980年代以降の「差別事件」・・・すなわち、解放同盟が「糾弾」の対象としたメディアの事例を中心に語る「糾弾」史。
「なぜ部落解放同盟はこのように社会的影響力を失い、組織存亡の危機に瀕しているのか」(p.12)という問いをたて、それに比しておおよそ2000年代以降「抗議しやすい企業、宗教、メディアなどに対してのみ(糾弾を)行い、本来の対象である権力への糾弾を回避したということにある」(p.12)、あるいは「差別を、国家を通じて、つまり法と制度によってなくしていこうという方向をとったこと」(p.126)により、政治的解決のみが目指され、「社会的解放」を忘れてしまったとする。そのうえで、「社会的影響力」のあった時期(1980~90年代)の事例を本書では取り上げ、運動の本来の姿を描き出そうとしているのである。
しかし、解放運動の弱体化は、「本来の理想から遠ざかったから」だけなのだろうか・・・?「権力と反権力」という二項対立図式が、ポストモダンのなかで相対化されていくなかで、「糾弾」という運動の手法そのものの有効性が失われてしまったからということはないのだろうか。これはむしろ、日本における反権力的なあらゆる運動(労働運動、市民運動・・・)の弱体化という問題ともつながるわけだが・・・
「糾弾」という手法は、解放同盟が何らかの権力・権威を持っていてはじめて有効な手段であろう。現状では、政治家もメディアも、解放同盟からの「糾弾」を何も恐れてはいないだろう。それは、運動が「理想から遠ざかったから」というだけではなく、社会のなかでの権力・権威の偏差の構図が変わってしまったからであろう。だとすれば、追究すべきは、2000年代以降の「権威・権力の偏差の変化」なのだろうと思う。 -
差別事件とそれに対する糾弾の数々がほとんどを占める構成であり、終章の「解放同盟弱体化の根源はどこにあるか」がさらっとしか書かれておらず読み応えはイマイチ。「糾弾」という言葉からして誤解しがちなところがある。しかし、「「差別した者と差別された者が手を結び、差別させているものと闘う」思想の獲得をめざし」「説得と納得を超えて、共感、共鳴、共振をめざしている」という「部落解放運動の生命線」としての糾弾という説明には、運動としての積み重ねを感じる。
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部落解放同盟の基本的姿勢はよくわかるが、
差別表現の基準はやはりわからない。
果たして客観的基準など存在しうるのだろうか? -
事実の羅列
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