- Amazon.co.jp ・本 (345ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480084156
作品紹介・あらすじ
わたしたちは世界史がつい先程まで「善」の通俗化としての残忍な悪と「悪」の通俗化としての残忍な善にとりかこまれていたのだということを忘れるべきではない(解説より)。-文学にとって至高のものとは、悪の極限を掘りあてようとすることではないのか…。エミリ・ブロンテ、ボードレール、ミシュレ、ウィリアム・ブレイク、サド、プルースト、カフカ、ジュネという8人の作家を論じる。
感想・レビュー・書評
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バタイユというと、西欧的理性に対する疑いへの自覚から、逆に反理性的なものを対象として論じた作家、という印象がある。本作を読んでみて、極東に生まれ育った身としては、どうして理性であらざるものを、こうも過激に論じずにはすまないのか、という違和感をやはりおぼえずにはいられなかった。問題は肯定と否定の「彼方」にある、ということをバタイユ自身感じていながら、その繊細な部分の議論を、サルトルへの批判という形で進めなければならないところに、じれったさもおぼえた。とても共感できる。でも、バタイユの到達点は、一東洋人にとっては出発点であるような気が、いつもならがする。
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サド、ジュネ、ボードレールから、意外なところでエミリ・ブロンテまで、幅広く作品から作者の深層真理を読み解いてあって、それがそのままバタイユ自身の思想にも繋がっていくようで面白かったです。とくにジュネ論はすごかった。ジュネ論というよりむしろ、サルトルの書いたジュネ論に対する解題みたいな感じで…構造複雑すぎて時々混乱しました(苦笑)
※収録
エミリ・ブロンテ/ボードレール/ミシュレ/ウィリアム・ブレイク/サド/プルースト/カフカ/ジュネ -
『バタイユ入門』は面白かったけど、そのせいか、バタイユの『文学と悪』は既視感ばかりでつまらなかった。
解説は吉本隆明。キーワードは悪、善、罪、死、生、エロティスム、供犠、消費、蕩尽。
p.343 バタイユはこの理念の落とし穴が、解放とか自由とか「のため」のたたかいという「善」概念の作り方にあるとみなした。「のため」のたたかいは「他人事」になってしまうか、またはじぶんをあの祭壇に「供犠」として与えることになるかどちらかだ。そうしたくなければ解放や自由そのものを「やる」ものであるほかない。
p.56 人間は自分自身と対立する。自分を断罪しなければ、自分を愛することはできない。
p.96 呪術と供犠との対立関係。
人間は死の支配する領域〔=不吉な領域〕とは正反対の方向へ向かうが、そのtき単に生を保存している(死を回避している)だけにすぎない。避けるべき場所へ向うとき、生を生きることができる。
強烈さは価値。持続は善。価値は善悪の彼岸。
p.259 死だけが「目的ーをー追い求めるー行動」の煩わしさから十分に逃れている。
p.279 至高性と刑罰との悲劇的な結びつき。悪は処刑されるときに始めてこの上もなく確実に悪そのものとなる。犯罪の真の王者性とは、死刑に処せられる殺人犯においてこそ始めて見られる。
p.289 禁制への侵犯こそ、至高性の本質でもある。至高性とは、生の持続を保証する様々な掟の彼方へと、死をものともせず超出する能力にほかならない。
「聖なる」とは禁制、すなわち暴力的なもの、危険なもの、それに接するだけですでに壊滅が予告されるもの、すなわち「悪」を意味する言葉である。
p.292 裸への禁制。性的な衝動。たしなみという善。悪をする理由。侵害の伝染。
p.295 悪の魅力とは、ほかならぬその無化の力にあるのだから、無化作用が完成された暁には、悪はもはやなにものでもないことになる。 〜 悪はひとつの義務となり、しかも義務とは善にほかならないものなのである。
文学は霊的交通。至高の一作者から発して、孤立した一読者の隷属性を超え、そのかなたに、至高の人類〔人間性〕へとよびかける。作者は、自分自身を否定し、自分の特殊性〔個別性〕を否定して、作品そのものを目指しし、また同時に、読者たちの特殊性をも否定して、読まれること〔読む行為〕lecture自体を目指しているのである。文学の創造とはこの至高の操作。この世のものではない霊的交通を、凝固させられた瞬間ーもしくは瞬間の連続ーとして、実在させるもの。 -
2011年3月7日読み始め 2011年3月8日読了。
(途中読み飛ばし)
初めてのバタイユだったけど、紹介されている作家のうちブロンテとカフカしか読んだことがないので、ちょっと理解できず…
また機会があればちゃんと読もうと思います。 -
学生の時に講義で読んだ本を久しぶりに読み返してみました。
バタイユは、独特すぎて強烈すぎる作家で、私は全く彼の世界に入り込めませんが、この作品ならなんとか読めました。
エミリ・ブロンテ、ボードレール、ミシュレ、ウィリアム・ブレイク、サド、プルースト、カフカ、ジュネという8人の作家の作品に見られる悪の要素に焦点を当てて論ずるという、興味深い試みです。
ただ、限りなく哲学的な作家論となっており、論じられる作家について詳細な知識を持ち合わせていないと、全く頭に入っていきません。
翻訳も、こそあど言葉が多く、私にはわかりづらく思えました。ほかの人の翻訳が出たらそちらも読み比べてみたいです。
例えばジュネ論においては、ジュネの作品のほかに、サルトルの『聖ジュネ』についても論を広げているため、そのどちらも十分に把握していないと、理解に至れないという敷居の高さがあります。
ただ、自分が学んだブロンテ、ボードレール、プルースト辺りにおいては、基礎知識がなんとか彼に追いつけたので、わかりやすく興味深く読むことができました。
カフカのプロフィールについては全く知りませんでしたが、父親の存在がその作品に色濃く影を落としているという点がおもしろく感じました。今度作品を読む時には、意識してみようと思います。
私はバタイユ自身に相当な「キワモノ」のイメージを持っていますが、彼なりに、非常に高尚な思考をもって、やはり世間一般的にキワモノ視されているサドやジュネの作品に正面から向き合って、その本質を探ろうとしている真面目な姿勢には敬服しました。
この本を真に理解するには、もっと自分に力をつけなければ太刀打ちできなさそうです。
採り上げられた作家論に共通する彼の基本思想は「エロスとタナトス」に立脚しており、その辺りを深く掘り下げたい人には楽しめる作品だと思います。 -
2010/1/13ジュンク堂で購入
2010/
バタイユの本を買ったのはこれが初めてです。
エミリ・ブロンテ
ボードレール
ミシュレ
ウィリアム・ブレイク
サド
プルースト
カフカ
ジュネ -
■暇つぶしに読んだが正直余り記憶にない。すまん。
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冷静な分析ながら織り込まれたバタイユの感性が掛け値なしに面白いんです。
ふ〜ん、なるほど、そうきたか〜なんて、不真面目に読んでしまいました。 -
文学において、悪や暴力性として現われ出る「至高性」。E.ブロンテ、ボードレール、ミシュレ、ブレイク、サド、プルースト、カフカ、ジュネについて。