ケインズとハイエク―〈自由〉の変容 (ちくま学芸文庫 マ 26-1)
- 筑摩書房 (2006年11月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (235ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480090218
感想・レビュー・書評
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ハイエクは社会の長期的な持続の条件を考察した理論家である。ケインズは目前にある危機に対処しようとした実際家である。二人の市場経済論の違いはここに由来する。市場が相対的に安定している正常な状態においては適度な価格の変動は資源配分を最適化する。ハイエクが想定するのはこうした市場である。ところが投機が市場を呑み込んで行く時、急激な価格変動が将来の合理的な期待形成を不可能にし、市場そのものを掘り崩して行く。ケインズが直面したのはそういう異常事態である。彼にとっては価格が安定することこそが問題であった。
二人は対立するようで意外に共通性があるというのが本書のモチーフだが、著者の意欲は是とするも十分成功しているとは言いにくい。「ケインズもハイエクも、人間は不確実な世界に生きることを余儀なくされており、まさにそのために、いわば不確実性の中の唯一の確実性としてルールや慣行を必要としている、と考えた」と著者は言う。大筋はその通りだが、ややミスリーディングである。ハイエクはルールも慣行も共に重視するが、市場経済を念頭に置く時、彼の力点はあくまでルールである。それは確実性の追求というより恣意性の排除である。ケインズの場合、重視されるのは市場の安定性を維持する種々の慣行であって、その慣行があやふやになる時、ルールを度外視してでも安定性の回復を優先する。それは当然恣意性を免れない。この違いは大きい。
全体的にハイエクの論難に対してケインズを擁護するというトーンで書かれてはいるが、両者の市場経済論の特質をその思想的な背景も含めて手際良くまとめている。特にハイエクの主著『 自由の条件I ハイエク全集 1-5 【新版】 』の解説は秀逸である。(随分昔に読んだので忘れていたが)自由主義がハイエクの擁護する消極的自由(〜からの自由)から、積極的自由(〜への自由)に力点をシフトしていく分岐点にJ・S・ミルが位置しており、そこには個性を賛美したイギリス・ロマン主義が介在しているという指摘は、興味深い再発見であった。後期ウィトゲンシュタインとハイエクの類縁性の指摘もキラリと光っている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
間宮陽介
ケインズとハイエク 副題「自由の変容」
とても難しい。副題の自由はもっと広い概念だと思うが、読みにくいので、自由=自由経済と読み替えた。
ケインズとハイエクは、20世期のヨーロッパから 自由経済の変容を感じとり、それぞれの方法で 経済の秩序を図ろうとしたことを論じている。ケインズは 政府介入により 経済の秩序を維持し、ハイエクは 法により自由の枠組みを守りながら、市場による自生的秩序を図っている
ハイエクの自由論は 常識的な定義で 受け入れやすい〜自由とは、他者を害さないかぎり認められ、法により自由の枠組みが決まり 国家の介入から免れるもの。
ハイエクは 自生的秩序である市場を 自由と位置づけている反面、民主主義を多数者による人口的な秩序形態として 危惧している。民主主義により 権力が 少数者の自由を抑圧することを批判している。
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間宮陽介著「ケインズとハイエク 自由の変容」ちくま学芸文庫(2006)
自由論という視点から2人を論じようとしたのは、2人が自由の変容という問題状況をどのように把握するに至ったかをしっかり見据える事。これが本書を貫く基本視点である。
「ハイエク」
*確かに人間はいつも失敗ばかりしている。だが、このような人間でも失敗を重ねて行くうちに首尾よく成功をおさめる事がある。また対人関係において、他人の領域を侵害すれば一時的にはともかく長期的には決して引き合うものではないことも分かってくる。こうして人間は利益をもたらす知識、方法、規則などが時という試金石にかけられて生き残る。そうして生き残った知識、方法、規則などがハイエクのいう慣習あるいは伝統である。
*ハイエクは自分のいう自由主義のことを「進化論的」な自由主義と読んでいる。進化論といってもダーウィニズムとは正確を異にしている。ダーウィニズムは、ハイエクによれば制度や慣行ではなく個人の淘汰に、そして個人の文化的に伝達される能力よりは先天的能力の淘汰に力を入れすぎた。ハイエクは個体それ自身の進化ではなく、人間という個体が生活し生きて行くための諸条件、つまり広い意味での制度が歴史の過程で進化していくと考えている。進化の過程とは人間が経験から学ぶ過程のことである。
*ハイエクにとって人間は、自らの利益や目的を追求する動物であると同時に、ルールに従う動物でもある。ルールの意義は人々が抱く様々な期待を調整することにあり、このルールがあるおかげで人々は自分の抱く期待のどれが当てにでき、どれが当てに出来ないかをあらかじめかなりの確実さを持って知る事ができる。
「ケインズ」
*初期の著作から一般理論に至までケインズの経済社会についてのビジョンは一貫している。
*ケインズも市場経済が慣行というルールを内包し、このルールの存在によって秩序と安定を保と見ていた点ではハイエクと同じである。ケインズもハイエクも人間は不確実な世界に生きる事を余儀なくされており、まさにそのために不確実性の中のヒュいつの確実性としてルールや慣行を必要としている、と考えた。また経済を実証主義の物理的平面に老いてみるのではなく、モラルの中で考察しようとした。経済学は自然科学ではなく、本質的には道徳(モラル)サイエンスであるというのがケインズの持論であった。経済学は人々の様々な動機、期待、心理的不確実性などを取り扱わざるを得ない。
*ハイエクのモラルの空間が個人の創意とルールに基づく社会秩序を大きな柱として組み立てられているのに対して、ケインズは様々な矛盾とジレンマから構成されていると言えるだろう。この矛盾とジレンマに満ちたモラルの経済がケインズの言う貨幣経済であった。
*貨幣経済とは貨幣によって結合された経済的領域と非経済的領域である。貨幣経済に生きる人間は各種の断層の間に生きる人間である。そして貨幣はそれらの断層をつなぐ媒体である。例をあげるとある高額の商品を買おうか迷っている。迷ったあげくその商品を購入。だが後に残る不安感。この出所は貨幣を所有することによって開かれていた多くの可能性を特定の1商品の形に固定かした事によると判明する。貨幣と引き換えにものを購入するという事は貨幣という形で事態を流動的にしておく代わりに、事態を固定化してしまう事である。等価であれば何でも好きな物と交換できる貨幣は裏を返すと事態ろ流動化しておくための手段だ。 -
経済理論についての説明は、正直あまり理解できなかった。ただ「自由」という概念について、単なる経済論からだけではなく、もっと深く広い視野て突き詰めて考えた知性に敬意を覚えた。計画経済vs自由経済という100年前の対立軸が、バブル以来の日本経済の随所に写像されている気がしてならない。
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自由については、政治哲学の側面での自由論と経済学の領域での「自由主義」といった議論がそれぞれ行われているが、実はそれらが互いに関係ないものではないということに、この本を読んで気付かされた。
ケインズとハイエクを並べて論じることで初めて得られる視点ではないかと思う。
政府による規制か自由な市場経済かといった論争が現在もあるが、本書を読んで過去の論争を振り返ることで、より広い視野からこの議論を考えることが出来ると思う。
1989年に書かれた本であるにもかかわらず、現在の問題を考える上で貴重な論点が述べられている点で、素晴らしい本であると感じた。 -
ケインズとハイエクはともに「自由が変質している」という意識を共有していた。それぞれの思想はこの同一の問題に対するそれぞれの解答である。
自由主義と自由放任主義は違う。アダム・スミスの言う「利己心」は限定つきの利己心である。
つづきは後日。 -
ケインズ、ハイエクの経済理論というより、そのもう少し奥にある自由というものの捉え方にたいする考察。
正直理解し切れなかったが、経済学が哲学とも親和することにようやく気付いた。 -
「民主主義は究極的あるいは絶対的な価値ではなく、それが何を成し遂げるかによって判断されるべきもの」
ハイエクについて詳しくもなければ、ケインズについて詳しくもない僕には、とても勉強になった。且つ刺激的で面白い。ニューディール政策のケインズと新自由主義のハイエク。全く交わらない考えを持っていた二人だけど、危惧していることは同じだった。それは「自由」の変容だ。簡単に言うと自由主義から自由放任主義への変化。
平等とか自由とか当たり前に使われている言葉だけど、その意味はどうにでも解釈できる。抽象的なんじゃなくて、定義がボンヤリとしているのだ。
・自由主義は法の支配によって機会の平等を実現する
・共産主義は不平等の是正によって平等を実現する
・自由主義は政府機能とその権力の制限に関心を持つ
・民主主義は誰が政府を指導するのかに関心を持つ
・民主主義は全体主義化への可能性を孕んでいる
・自然権は理性的な動物という人間観に裏打ちされている
・自由主義は人間の不完全性から出発する
ハイエクが繰り返し語った「自由」とは唯一、強制からの自由だった。ハイエクは言う、人間は生まれながらにして理性的なのではなく、本質的には不完全。そんな無力な人間だけど、それを克服しようとするのも人間の本質。自己の限界を拡張し、常に限界を克服しようとするのが人間。そんな、がんばれる人間には上から与えられる保証や義務はいらぬおせっかいなのだ。
確かにそんな前向きな人間ならば自由万歳だ。でも、今になって思う。今の僕たちの生活の中で、僕たちの周りに抗いたくなるような強制なんてあるのだろうか。日本はとりあえず自由で平和っぽい。
過去の人たちのおかげで、もうケンカする相手がいなくなったのか、それともただケンカする相手が見えにくくなっただけなのか、はたまた僕たち自身にケンカする気がなくなったのか。民主主義という方法は、その目的を正しく正当化できているのだろうか。
全く持って悩ましいのだ。