2016.6.29
デカルトと言えば近代哲学の始祖であり、「我思うゆえに我あり」で有名な人、くらいの認識しかなかったが、フッサールの現象学の大きなベースになる思想のようなので、読んでみた。感想。思っていた以上に面白かった。というか、学問としてというより、生きる事すなわち考えること、として人生を歩もうという気持ちがある人にとっては、一つの座右の書とも言えるものになるのではないだろうか。なぜならここには、問い、考え、真実を探求するものとして生きたデカルトの、知的生活としての方針が書かれているからである。その方針は、特に私には第二部及び第三部が参考になった。思考の方法の規則として、明晰判明であるものは真であるという”明証性の規則”(これこそまさにのちにフッサールが鍛え上げるものではないか)、複雑なものを分解して原子的な原則を見出す”分析の規則”、その原子的なものからスタートして複雑なものを構成していく”総合の法則”、そして全てを見渡し抜けがないかを再検討する”枚挙の規則”である。これだけでも面白いが、さらに私にとって驚いたことは、これとは別の実践道徳的法則も考えていた点である。理想ばかり追い求め、考えるばかりで答えは出ず、故に生活上の決断をし損ねてただじっと黙るばかりであることが多かった私にとっては、真なる答えを求める哲学的生活のための思考の規則と、答えとしては不完全ながらもその時のベスト解としてその場での行動を導く実践的生活のための道徳の規則とを分けて考えるという発想はなかった。なるほど、家を取り壊し立て直すには、借りぐらしの場所が必要なわけである。第三部に展開されるその道徳の法則は、まず法と穏健な意見に従うこと、根拠薄弱な答えであっても一度決定したなら確信して実行すること、できることとできないことを認識すること(これはニーバーの祈りと同じ)、そしてこのような道徳は暫定的なものであり、哲学含め真実への探求を続けていくこと、である。別に哲学的な難しい話をしているわけではなく、故に内容も思弁的ではるが、まるでデカルトが、こうしたらいいんじゃないかなと語りかけているかのような、そんな親近感をもった本である。それまでの様々な知見を方法的懐疑によって全て退け、自分の頭で考えた人であった。人の意見に惑わされず、自分一人で考えた人であった。この方法も精神も、大きくフッサールに受け継がれている気がする。私も是非この本を、考える私としての座右の書とし、その精神を学び取りたい。惜しむらくは、コギトから神の存在証明へ移ってしまったことだろうか。