日本の建築: 歴史と伝統 (ちくま学芸文庫 オ 21-1)

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  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480095442

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  • '神社建築が倉庫から始まったとする説は、神社をホコラというのはホクラの変化したもので、ホは美称でありクラは倉であるとし、また、神社建築の発生は農業生産を主とした時代にあるから、豊作を祈り、また感謝するところに発し、穀物を入れる倉が重要視されて社殿になったのであるとする。

    日本にイス式が入ってきたのは5ー6世紀ごろと思われるが、そのころ、日本ではすでにその必要が認められなかったからであろう。というのは、6世紀頃の貴族住宅はユカのある家であったから、地面の湿気を避けることも、また貴族が権威を示すことも、この高ユカの家で十分充たされていた。こう考えなければ、イス式に転ずるのが世界一般の傾向であり、常にシナ文化の強い影響をうけていた日本が、イス式だけを採り入れなかった理由を考えることができないであろう。

    それが寺社や貴族住宅と構造の系統を異にするということは、民家の屋根構造が、仏教建築で代表されるシナ建築の伝来よりも古く、かつ、神社建築で代表される古墳時代の貴族住宅とも違った起源を有することを示している。

    このようにみてくると、古墳時代の日本の住宅は、板敷ー切妻(平行垂木)ー垂直材で棟木を支える貴族住宅と、土間ー寄棟(放射状垂木)ーサス造の庶民住宅の2系統であったと考えられよう。


    平安時代の住宅では「3間4面の寝殿」などという語が多く使われている。これは「母屋の桁行の柱間が3つで、4面に庇のある寝殿」という意味である。…切妻造のマヤの周囲に次第にヒサシがついていって、入母屋造の寝殿にまで発展したのだろう。

    寝殿造では寝殿は入母屋造であるが、東西の対屋は切妻造である。このことは、前述の平面記法とともに、貴族住宅が切妻造(マヤ)から発展したことを証するものである。

    切妻造であれば、垂木は当然平行の配置となる。ところが、シナ建築では古くから放射状の垂木が使われており、日本にも7世紀ころ伝来していたことが四天王寺の発掘で確かめられている。にもかかわらず、日本では、扇垂木は鎌倉時代に宋建築が伝えられてから後でないと、一般的には使われない。

    法隆寺では直線の角垂木で、一重である。構造的にみれば、寄棟造や入母屋造では隅の垂木を放射状にした方が合理的であるにもかかわらず、シナ建築のこの手法だけは真似しないで、平行垂木を用いたのは、マヤにおける直線の平行垂木の感じが、人々の頭のうちに深く浸透しており、これを変えることを許さなかったのであろう。


    自然は左右非対称である。山も河も、木も森も、左右対称のものはない。人間や動物の顔かたちは左右対称であるけれども、自然のなかに動物を見たとき、正面からこれを描くことはない。

    建築が自然のうちに含まれ、自然の一点景として考えられるとき、それは左右対称形を必要としない。しかし、建築を人間が造ったもの、自然に対するものと考えたとき、自然を超えた厳正な相称形の配置が必要となる。日本の建築が左右対称形を重んじないというよりは、むしろ避けようとしたことは、このような自然との関連のなかから生まれ出たものであろう。

    人間の造ったもの、それには自然界とは違った、別の統一ある秩序が必要である。造形の書くとなるべき中心が必要である。飛鳥寺の場合、釈迦の墓標である塔が中心となり、金堂はその三方から、塔を包むように立っている。

    再建された法隆寺の場合はそうではない。同じく塔と金堂とを囲んで、回廊がめぐるけれども、伽藍を遠望すれば、山なみの起伏するがごとく、高い塔と、どっしりとした金堂とが、中の左右に並んでいる。それはさらに、左右への拡がりさえ予想させる。


    これは平城京がきちんとした完数で全体を抑え、内部はこれに従って計画しているのに対し、平安京の場合は、最小の単位である坊をみな同じ大きさにつくり、これに必要なだけの道路幅を加えるといった形である。平安京の場合は個々の坊の集積という形で都城が計画されている。これは全体から部分へという考えと、部分から全体をという考え方の差である。

    …シナ建築の特色は外部空間に対して閉鎖的で独立的であり、形としては中庭をもった囲繞的であるが、日本の建築は開放的で、その配置は羅列的である。あるいは彫塑的と絵画的、立体的と平面的と言ってもいいだろう。

    シナの都城は高大な城壁によって囲まれる。それは広大な平野のうちに忽然と現れた一つのモニュメントであった。城の内外は厳重に区画され、都市は単なる人間の集まりではなく、城壁はその内の人々の生死を分けるものであった。

    しかし日本ではその必要性はなかった。日本の建築は自然と対立するものではなく、自然のうちに融けこむものであった。京の周囲を画す羅城も羅城門左右に造られただけで、東西北の三方には設けられた形跡がない。しかもその高さはわずか4mたらずのもので、宮城の垣より低かった。それは羅城門とともに、ここからが都城であるという標識にすぎず、都の正面を飾るためのもので、長安のものとは計画の原理を異にするものであった'

  • 伊勢神宮、平安京、貴族の住生活、重源の果たした役割、金閣銀閣、城と書院造り、桂の離宮、建築遺跡調査などなど、さまざまなテーマで日本の建築を論じるもの。日本固有の建物と、外来の建物との違いを論じる部分など、本当に面白いです。

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著者プロフィール

1912年、東京生まれ。1935年、東京帝国大学工学部建築学科卒業東京大学助教授・教授、東京大学名誉教授、武蔵野美術大学教授、九州芸術工科大学学長、武蔵学園長を歴任、日本学士院会員。2007年没
【主要編著書】『奈良六大寺大観』(全14巻、岩波書店、1968~73年)、『大和古寺大観』(全7冊、岩波書店、1976~78年)

「2019年 『奈良の寺々 古建築の見かた』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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