「聴く」ことの力: 臨床哲学試論 (ちくま学芸文庫 ワ 5-5)

著者 :
  • 筑摩書房
3.77
  • (16)
  • (27)
  • (15)
  • (8)
  • (0)
本棚登録 : 779
感想 : 26
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480096685

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 原著は20年以上前のものである。「聴く」を仕事の中心に置いている身として、なぜもっと早くに手に取らなかったのだろうと...。「同じ方向を見る」が「いる」と同義である私には満足いく内容。ケアする者に手に取って欲しい一冊。あとがきの卵の話は、「なんのために学ぶのか?」を問いかける秀逸なエピソードだ。う~ん、たどり着く場所は概ね近似している。以下に印象深かったフレーズを。
    ・「<臨床>」とは、ある他者の前に身を置くことによって、そのホスピタブルな関係のなかでじぶん自身もまた変えられるような経験の場面というふうに、いまやわたしたちは<臨床>の規定をさらにつけくわえることができる。」
    ・「ことばは、聴くひとの「祈り」そのもであるような耳を俟ってはじめて、ぽろりとこぼれ落ちるように生まれるのである。苦しみがそれをとおして現われでてくるような≪聴くこと力≫、それは、聴くもののことばそのものというより、ことばの身ぶりのなかに、声のなかに、祈るような沈黙のなかに、おそらくはあるのだろう。その意味で、苦しみの「語り」というのは語るひとの行為であるとともに聴くひとの行為でもあるのだ。」
    ・「(略)ケアとはその相手に「時間をあげる」こと、と言ってもよいような面を持っている。あるいは、時間をともに過ごす、ということ自体がひとつのケアである」。つまり、「いる」というのはゼロではない。なにかしってあげないとプラスにならないのではない。
    ・じぶんが方法の道の上にいればぜったいにふれられないものに、ふれるのである。ホスピタリティの道は、おろらく適当に休みながら、できればいっしょに休みながら、道草もして、うねうね進むしかないのだろう。が、その過程こそが大事なのだろうとおもう。この過程をともにすること、なんの目的もなくいっしょにぶらぶら歩くこと、このぶらぶら歩きがもつ意味を、その途すがら考えつめること、そこに臨床哲学の道があるようにおもう。

  • 東京都市大学都市生活学部准教授・坂倉杏介さんが選ぶ「ウェルビーイングを感じる本5冊」 | sotokoto online(ソトコトオンライン)
    https://sotokoto-online.jp/5833

    筑摩書房 「聴く」ことの力 ─臨床哲学試論 / 鷲田 清一 著
    https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480096685/

  • ちょっと不思議な内容でした。

    聴くことに興味があったのですが、副題の臨床哲学試論というのを見逃していました。

    臨床医療と同様、よりそう哲学という意味で臨床哲学となっていると理解しましたが、巻末に重たい結論が待っていました。

    気になったのは以下です。

    ・<聴く>というのは、なにもしないで耳を傾けるという単純に受動的な行為なのではない。それは語る側からすれば、ことばを受けとめてもらったという、たしかな出来事である。
    ・聴くことが、ことばを受けとめることが、他者の自己理解の場を劈くということであろう
    ・物と親身に交わること、物を外から知るのではなく身に感じて生きること
    ・ある思想を学ぶというのは、まずある思想が世界を見る、世界に触れるそのスタイルに感応することである。そして、語ること以上に、聴くことに神経を傾ける必要があるということ。
    ・西田幾太郎言:視界は開かなければならないのであって、はじめから開いているのではない
    ・話しかけるということ
     ①話しかけるということは相手にこえで働きかけ、相手を変えることである。
     ②どうかわってほしいかがはっきりしないと相手は変わらない
     ③声がうまくとどいた感じがしないときは、その隔たりに負けないような音声で呼びかけようとするがそうればするほど、相手は、自分が話しかけられたという感じがしなくなる。
    ・わたしたちが失いかけているのは、「話しあい」ではなく「黙りあい」である
    ・ふれるということは、ふれるものと、ふれられるものとの相互浸透や交錯という契機を必ず含んでいる。
    ・さわるときは、ふれるときとは逆のことが起きている
    ・ケアとはその相手に「時間をあげる」こと、と言ってもよい面をもっている。時間をともに過ごす、ということ自体が一つのケアである
    ・死期におけるケアの本質は、延命的な医療行為をすべきかどうかとか、どこで迎えるではなく、最期をだれと迎えるかということにある

    巻末に阪神淡路大震災のときに、「聴く」ことというふるまいにわたしを向き合わせることとなったとある。
    「わかるけど納得はできない」。「わからないけど納得はできる」という心の揺れ。納得というのはするものではなく、その到来を待つものだと思うようになった。

    極限の状態にあって、ただ「聴く」ことが臨床哲学という考え方を生み出したのでしょうか。

    目次は以下です。

    第1章 <試み>としての哲学
    第2章 だれの前で、という問題
    第3章 遇うということ
    第4章 迎え入れるということ
    第5章 苦痛の苦痛
    第6章 <ふれる>と<さわる>
    第7章 享けるということ
    第8章 ホモ・パティエンス
    あとがき

  • 他者にとっての他者としてのじぶん、存在証明

    眼が「かち合う」ときのあのひきつるような感覚、シンクロナイズの現象

    彼等はつぎつぎと話相手をかえては、より深いコミュニケーションを求めて裏切られてゆく。そして、沈黙も饒舌も失ってスピーキング・マシーンのように「話しかける」ことと「生きること」とを混同しながら年老いていくのである。

    自他のあいだの〈間〉、自己調整の場
    他者の存在とともにその前にいま疑いもなく存在するものとしてじぶんを感じる
    揺らぎを許容するすきまが、剛性ではなく柔性が、ひとの存在にしなりやたわみといった、少々のことではポキッと折れないしなやかな強さをあたえる
    アイデンティティは他者との関係のなかでそのつどあたえられるもの、確証されるものであって、ひとが個としてもつ属性なのではない

    「さわる」と「ふれる」
    全身をくまなく慈しみ、抱きしめ、撫でまわされた体験 風呂場で体を抱かれ、顎の下、脇の下、股の付け根、足の指のあいだを、丹念に洗われて…… 乳首をたっぷりふくませてもらい、乳で濡れた口許を拭ってもらい、落としたおもちゃを拾ってもらい、便にまみれたお尻を上げてふいてもらい、髪を、顎の下、脇の下を、指の間、腿の間をていねいに洗ってもらった経験 他人になにかを「してもらう」という、〈存在の世話〉をしてもらうという経験のコア

    未来にある意味を仮託することが、あるいは未来の視点に立って現在を見ることが、そのひとをかろうじて自己崩壊から救う→ナチの強制収容所、クリスマス後
    『生命についての問いの観点変更』
    わたしたちは人生の意味を問う者としてではなくて、それを「問われた者」として体験される 「人生は彼らからまだあるものを期待しているということ、すなわち人生におけるあるものが未来において彼等を待っている」 だれかに「待たれる」という受動性

    他者の現在を思いやること、それはわからないから思いやるんであって、理解できるから思いやるのではない
    ケア、歓待、応答すること、compassion、他者

    《ホモ・パティエンス》、苦しむひと
    生きもの(Lebewesen)とは苦しむもの(Leidewesen)生きる(live)ことそのことが災い(evil)でありうるように

  • 私にとっては難解でした。

  • 哲学書としてはとても平易な本だ。
    レヴィナスなど、他者論は20世紀の哲学・思想において中心的なテーマであり、実に多くの本が、この主題で書かれてきた。私もそれらに大変共鳴し、触発されてきた。木村敏氏の本にも大いに感銘を受けた。
    この本もそうした系列の一つだ。
    「聴くこと」とはここでは他者の声に耳を澄ますことである。この、他者とのコネクトにおいて、いったん自我は捨象される。
    そこまではいいのだが、最近の私が気になっている問題、つまり、集団的自我、しばしば狂気の行動へと陥る共同性については、これをいかに回避しうるか。
    集団との対比ではむしろ自己の個人性の方が重要になるはずだ。個人性を失うことは、行為の責任を消滅させてしまう。しかし自我に固執しすぎると他者の声が聞こえなくなってくる。
    この本はたぶんよい本なのだが、その先はどうなるのか? そろそろ他者論だけにとどまらない、次のステップが必要なのではないだろうか。

  • 非常にいい本だった。
    生き方を教えてくれる。

    聴くという行為は相手が必要だ。
    それは人間である必要はなく、人生そのものかもしれない。
    対象との関係性は常に変化する。
    聴くためには相手になりきる必要がある。
    相手を全面的に受け容れることによって相手とコミュニケートできる。

    この感覚は常に意識すべきものだ。
    生きている間ずっと。
    人間に向き合っている時だけでなく、生活のすべてにおいてそうだ。
    そうすることによって自分が変化する。成長する。


    方法は、対象が強いてくる。
    これは何でも同じだ

    マインドフルネスに通じるものがある。

  • 人が言葉を持ったことで考える生き物となった。言葉は、他者と話すことで成り立ったものだ。
    言葉のやりとりも様々あると、気付かされた。言葉を相互に交わす会話でなく、声を合わせることで互いに思いを通わせ合うということもある。
    自分とは何か。他者との関係から作られる。言葉は贈られ、受け止める。寄り添うことは、簡単にできることではないだろう。でも、寄り添いたい。自分もそうしてもらったことがある。そうありたい、行動していく。人としてあるために。

  • 使う言葉が難しいので私にはまだ理解できていないところがたたあったので、理解できてからレビュー書きます。
    ただわざわざわかりにくいように書く必要あるの?言葉の言い回しをと考えてしまします。

  • 聴くことへの考察。
    聴くことの力。

    苦しみのなかにあるとき、ひとはことばを喪ってゆく。
    不幸から脱したいという気持ちそのものも消えてゆく。
    ことばをもつことそのことがすでにひとつの救いである。
    それでは、ことばはどのようにしたらもてるのか。
    そのとき、そのひとのそばにいる私たちに何ができるのか。

    少しだけ引用します。

    「ことばは、聴くひとの「祈り」そのものであるような耳をしってはじめて、ぽろりとこぼれ落ちるように生まれるのである。苦しみがそれをとおして現れ出てくるような《聴くことの力》、それは、聴くもののことばそのものというより、ことばの身ぶりのなかに、声のなかに、祈るような沈黙のなかに、おそらくはあるのだろう。その意味で、苦しみの「語り」というのは語るひとの行為であるとともに聴くひとの行為でもあるのだ。」(引用ここまで。)

    ことばを聴くことは、祈ること。
    こぼれ落ちたことばを大切に受けとめて、慈しむこと。
    その「前提」があってはじめて語られること。

    何となく手に取ったこの本、出会えてよかった、読めてよかった、と思える一冊でした。

全26件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

鷲田清一(わしだ・きよかず) 1949年生まれ。哲学者。

「2020年 『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

鷲田清一の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
フランツ・カフカ
ミヒャエル・エン...
エラ・フランシス...
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×