責任と判断 (ちくま学芸文庫)

制作 : ジェローム コーン 
  • 筑摩書房
4.10
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本棚登録 : 697
感想 : 17
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  • Amazon.co.jp ・本 (558ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480097453

作品紹介・あらすじ

アレント生前に発表された講義や論説を「責任」と「判断」の下に編む。道徳が崩壊した経緯を問い、善悪の判断を促すものを考察する

感想・レビュー・書評

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  • 「道徳性というのは一種の習慣」
    これは恐ろしくも鋭い指摘だと思う。

    現代で「いいも悪いもない、価値観だ」
    みたいな語り方がされるのは、ある種
    的を得ているんだろう
    そしてアーレントはそれに
    挑戦しようとしていた。

  • 責任と判断
    (和書)2012年03月07日 19:48
    2007 筑摩書房 ハンナ・アレント, ジェローム・コーン, 中山 元


    あまり期待していなかったけど、読んでみるととびきり良い本だった。なんだか今までの自分自身を問い直すことができるように感じた。

    ・・・十分な数の人々が「無責任に」行動して、支持を拒んだならば、積極的な抵抗や叛乱なしでも、こうした統治形態にどのようなことが起こりうるかを、一瞬でも想像してみれば、この〈武器〉がどれほど効果的であるか、お分かりいただけるはずです。・・・

    自分自身と矛盾することができない。

  • 一回、全員目を通すべき本では。
    カントに関する道徳と自己p111
    悪と記憶p157

  • アレント後期の未刊行論文集。講演やスピーチとして聴衆に語る形式になっているので、いくぶん分かりやすい。なかで「独裁体制のもとでの個人の責任」は全体の要約ともいえるもので、国家の命令で犯罪に手を染めた個人の責任を問いかける。人間の責任の意味と判断の能力について考察する。判断の基準を喪失した現代こそ、アレントがもっと認められてもいいと思う。

  •  こうした問題の議論において、特にナチスの犯罪を一般的な形で道徳的に非難しようとする際に忘れてならないのは、真の道徳的な問題が発生したのはナチスの党員の行動によってではないということです。いかなる信念もなく、ただ当時の体制に「同調した」だけの人々の行動によって、真の道徳的な問題が発生したことを見逃すべきではないのです。誰かが自分の「悪党ぶりをあらわに」しようと決心し、折りさえあれば、モーセの十戒の掟を逆転させて、「汝、殺すべし」という命令から始めて、「汝、嘘をつくべし」という掟で終わるような行動を試みることがありうることを理解することは、それほど難しいことではありません。
     どんな社会にも犯罪者がいるのは周知のことです。犯罪者の多くは、かなり想像力に欠けた人々のようですが、なかにはヒトラーやその取り巻きに劣らぬ才能を備えた犯罪者もいるかもしれません。ヒトラーとその取り巻きがやったことは悍(おぞ)ましい犯罪ですし、これらの人々がまずドイツを、次にナチスによって占領されたヨーロッパを組織した方法は、政治科学においても、統治形式の研究においても重要なものです。しかしこうした犯罪はどれも、道徳的な問題を提起するものではありません。
     道徳性がたんなる習俗の集まりに崩壊してしまい、恣意的に変えることのできる慣例、習慣、約束ごとに堕してしまうのは、犯罪者の責任ではなく、ごく普通の人々の責任なのです。こうした普通の人々は、道徳的な基準が社会的にうけいれられている間は、それまで教え込まれてきたことを疑うことなど、考えもしなかったでしょう。この問題、この事実が提起する重要な事態は、ドイツの国民がナチスの教義を信じつづけたわけではないこと、僅かな期間の予告だけで、「歴史」がドイツの敗北を告げただけで、元の道徳性にもどったことです。この問題は未だに解決されていないのですし、わたしたちはこの事実に直面しなければならないのです。
     ですからわたしたちは、「道徳的な」秩序の崩壊を、一回だけではなく、二回、目撃したのだと言わざるをえません。戦後に「通常の道徳性」に唐突に回帰したことは、ごく当たり前のようにうけいれられていますが、このことは道徳性そのものへの疑念を強めるだけなのです。

     こうして思考という危険で成果のない営みの最後の、おそらく最大の危険性が生まれます。ソクラテスの取り巻きには、アルキビデスやリティアスといった人々がいました。これらの人々は、ソクラテスのいわゆる弟子たちのうちでも最悪の弟子だったわけではないのですが、アテナイのポリスに深刻で現実的な脅威をもたらしました。それもシビレエイのソクラテスによって麻痺させられたからではなく、アブのソクラテスによって目覚めさせられたからでした。
     これらの人々は目覚めて、勝手気ままな行為とシニシズムにたどりつきました。これらの人々は思考することも教えられて、しかも理論を学ぶことができなかったので、ソクラテスの思考の吟味の成果のなさを、否定的な成果へと変えたのでした。敬虔とは何かを定義することができないなら、敬虔であることをやめようというのです。これは敬虔について議論することで、ソクラテスがもたらそうとしたこととはまさに正反対のことでした。
     意味を追い求める営みは、すでにうけいれられているすべての理論や規則を容赦なく新たに吟味し、解体します。これはいつでも、みずからに向かう刃となって、古い価値を逆転させて、これを「新しい価値」として宣言することができます。ニーチェがプラトンの哲学を逆転させたときも、まさにこのことを行ったので、プラトンを逆転させてもプラトンのままだということを忘れていたのです。マルクスはヘーゲルの哲学を「逆立ち」させながら、あくまでもヘーゲルの歴史哲学を構築してしまったのです。
     このような思考の否定的な成果は、古い価値と同じように、思考を伴わないありきたりの営みとして、眠りながらでも使うことができます。こうしたものを人間の行為の領域に適用した瞬間から、思考のプロセスを全く経験していないかのように進むのです。わたしたちはニヒリズムを歴史的に位置づけたり、政治的に非難したり、いわゆる「危険な思想」を思考したりする思想家のものと考えがちですが、実はこのニヒリズムと呼ばれるものは、思考の活動そのものに伴う固有の危険性なのです。危険な思想というものはありません。思考そのものが危険なのです。そしてニヒリズムは思考の産物ではありません。ニヒリズムは伝統を固持する傾向の裏面なのです。ニヒリズムとは、現在のいわゆる確立された既存の価値を否定しながら、そうした価値にあくまでも固執するところから生まれるのです。
     批判的な吟味を行おうとすれば、まずすでにうけいれられている意見とその「価値」が意味するものと、その暗黙の前提を調べることで、少なくとも仮説としてはこうした意見や価値を否定するという段階を経る必要があります。その意味ではニヒリズムは思考につねに存在する危険性とみなすことができるでしょう。しかしこうした危険性は、吟味されていない生は生きるに値する生ではないというソクラテスの信念から生まれるものではありません。そうではなく、もはや思考し続ける必要がなくなるように、なんらかの成果をみいだしたいという願望から生まれるのです。思考はどんな心情にも危険なものであり、新しい信条を生みだすものではないのです。
     こうしてみると政治的にも道徳的にも、思考しない方が望ましいと思われるかもしれませんが、思考しないことにも固有の危険性があるのです。人々を吟味の危険から隔離してしまうと、それがどんなものであっても、その時代にその社会で定められた行動規則に従うように教えることになります。人々が慣れ親しんできたのは、規則の内容でも、特定の事例を包摂する規則を所有することでもないのです(もちろん規則の内容を吟味することは、つねに人々を困惑させることになります)。ということは、人々が慣れ親しんでいるのは、自分で決める必要のない状態だということなのです。
     ですから、なんらかの理由や目的から、古い「価値」や徳を拒絶したいと考える人がいたら、その人は新しい決まりを提示しさえすればよいのです。この新しい決まりを確立するには、矯正も説得も不要です。新しい価値が古い価値よりも優れたものであることを証明する必要もないのです。人々は、古い決まりをうけいれるようになるのが素早いほど新しい決まりを自分のものとしようと努力するでしょう。特定の状況のもとでは、こうした逆転がきわめて容易に行われうるという事実は、そのときすべての人が眠っていたのだということを示すのです。二〇世紀にはわたしたちはこうした経験にいくつか直面しました。全体主義の支配者がいかに、西洋の道徳性の基本的な掟を逆転させることに成功したかをご覧ください。ヒトラーのドイツでは、「汝殺すなかれ」という掟が、スターリンのソ連では「汝の隣人について偽証するなかれ」という掟が、最も簡単に逆転されてしまったのです。

     政治体において平等はそのもっとも重要な原則であるが、社会におけるもっとも重要な原則は差別である。社会とは、政治的な領域と私的な領域にはさまれた奇妙な領域で、どこか雑種のようなところのある領域である。近代の訪れとともに、ほとんどの人は社会のうちで過ごすようになった。わたしたちは壁で囲んで守ってくれる自宅から足を踏みだして、公的な領域のしきいをまたいだ瞬間から、わたしたちが入るのは平等を原則とする政治的な領域ではなく、[差別を原則とする]社会という領域なのである。わたしたちは生計を立てるため、または職業につきたいと願うため、あるいは他人とともにあることの喜びに誘われたいために、この領域に入らざるをえないのである。そしてこの社会という領域に足を踏み入れたとたんに、「類は友を呼ぶ」という古い諺にしたがって制御されているのである。
     社会で重要なのは個人的に優れた特性ではなく、人々が所属する集団の差異である。ある集団に帰属するということは、同じ領域のほかの集団を差別することで、その集団の一員として識別されねばならないということである。アメリカの社会では、人々は職業、所得、人種の差異に基づいて集団に集い、ヨーロッパでは階級の差異、教育、作法に基づいて集団に集う。このようにして他の集団との差異を明確に示すのである。人格という観点からは、こうした差異に基づくやり方は意味のないものである。しかし問題なのは、社会的な領域では、人格というものが存在するのかどうかということなのである。いずれにせよ、なんらかの差異と差別がなければ社会は存在しなくなるのであり、自由な結社と集団の結成の重要な可能性が失われるのである。
     大衆社会とは、差異の境界をあいまいにして集団の違いを均らす社会であり、これは個人の全人格的な一体性よりも、社会そのものに危険をもたらすものである個人的な全人格の一体性の<根>は、社会的な領域の彼方になるからである。しかし順応主義は大衆社会だけの特徴ではなく、すべての社会でみられるのもである。その集団たらしめる差異の全般的な特徴に順応しない人々は、その社会的な集団にうけいれられないのである。アメリカにおける順応主義の持つ危険性は(これはアメリカ合衆国の建国以来の危険性である)、住民がきわめて不均質であるために、社会的な順応主義が絶対的な力を発揮して、国民としての均質性に代わる傾向があることだ。
     いずれにせよ政治体にとって平等が不可欠なものであるのと同時に、社会にとっては差別と差異は不可欠なものなのだ。だから重要なのは、どうすれば差別をなくすことができるかではなく、どうすれば差別をそれが正当に機能する社会的な領域のうちにとどめておくことができるか、そして差別が破壊的な力を発揮する政治的な領域に、はいり込まないようにできるかということにある。

  • ナチスドイツの体制のもとで、想像を絶する反人道的な犯罪行為を犯したアイヒマンたち。自分は組織の歯車に過ぎなかったと主張する被告たちの個人としての責任を追及できるのか、また、普通の人がなぜこのようなおぞましい行為に加担できたのかをハンナ・アーレントは懸命に思考した。そのことに並々ならぬ思いを感じた。
    本書に「過去に立ち返って自分のしたことを思い出すことを拒む」と「人格であることを拒んだ人」になり、最大の悪を犯し得るというようなことが書かれていた。
    現代においてもこの考えを持っておきたいと思った。そうすれば大きな声で無責任なことを喚いている人々を注意して見ることができると思った。

  • ゼミの読書会で読みました。ガザで起きていることを踏まえて、先輩方が選んでくださってありがたかった。一読する価値は十分にあるかと思います。

  • “凡庸な悪”とは何か、アイヒマンが法廷に立ったあの時と、アウシュビッツにいたあの時とはどう違うのか。
    政治、道徳というテーマを、古代ギリシャからカントやマキャベリ、ニーチェ等の思想も踏まえながら、組織に生きる我々はどのように生き、そして「無批判に行動すること」の危険性を示唆する内容となっている。
    研究が進み、アイヒマンの行動それ自体にも本書(本講演?)登場時よりも明らかになった部分も増えていると聞く、そのため究極は最新の学説も踏まえて解釈する必要はあるが、思考することの必要性、戦後世界における道徳と政治の関係性および危険性に触れることができる一冊。

  • 2022I140 080 C ア-7-4
    配架場所:D1

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著者プロフィール

1906-75年。ドイツに生まれ、アメリカで活躍した哲学者・政治思想家。主な著書に、本書(1958年)のほか、『全体主義の起源』(1951年)、『革命について』(1963年)など。

「2023年 『人間の条件』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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