増補 責任という虚構 (ちくま学芸文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (544ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480099532

作品紹介・あらすじ

ホロコースト・死刑・冤罪の分析から現れる責任の論理構造とは何か。そして人間の根源的姿とは。補考「近代の原罪」を付した決定版。解説 尾崎一郎

感想・レビュー・書評

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  • 実験から導かれる結果では、人の行動は権威に弱く、同調圧力に流され、役割を与えられると演じようとする。さらに、意思決定以前に行動が始まっていることも測定されている。
    そこから自由意志を否定しながら、責任論を哲学的に考察する。禅問答のようになって当然結論は出ないのだが、そのままでは秩序ある社会は回っていかない。
    だから、もやもやしていても、多数決が正義と決めつけて、どこで線引きするか決めつけながら、進んでいくしかないのでしょうね。
    まあ、数々の実験の結果が正しいかどうかは諸説あるようですが、行きつくところはそれほど変わらないかもしれません。

  •  哲学に興味はあるけど、カントやニーチェのことは有名な言葉だけ知っている程度。哲学関連で読んだことのある本は『愛するということ』(エーリッヒ・フロム)、『幸せになる勇気』(岸見一郎)、中島義道氏の著書数冊程度で、哲学書を一から紐解いたこともなければ、心理学と哲学の明らかな違いを述べることさえ難しい。そういうレベルの私が挑戦し、長い時間をかけて読破しました。理解度はまだまだ他の皆さんには及ばないかもしれませんが、私なりの感想を。
     読んだことのある関連書は『服従の心理』のみ。『イェルサレムのアイヒマン』はいずれ読めたらと考えています。

     専門的な用語は逐一ググッてみて、概要を簡単な言葉で表してくれているもので一時的に理解したとみなして読み進めました(でないと全く前に進めない)。

    <内容として、主に私が深く印象に残ったもの>
    ・「自由に行動できるから責任がある」のではなく、「責任のために自由を規定する」
    ・個人は外因要素が集積した沈殿物
    ・美しさや賞罰、道徳などは根拠があって決められているものではなく、大衆が認めるから基準ができて定められるもの
    ・格差を認めるために人間は自由であり、努力すれば上流階級へいけると思える仕組みができあがっている(努力しなければ自己責任、となる)

     1~4章くらいまではサクサク読み進めることができましたが、5章以降からは難易度がぐっと挙がって専門的な話が多くなり、読書スピードが目に見えて落ちていきました。しかし、それでも読み進めることができたのは、知的好奇心のせい、と言ったら格好をつけていると思われるでしょうか。

     「規範論ではない」と著者自身が言っているように、本書は「こうあるべき」といったべき論から離れて、あるがままの世界の仕組みを俯瞰し、「こういう風になっているんだよ」と次々に教えてくれるような内容でした。
     本書もかなり苦労して読了したのにも関わらず、著者の別著作も読んでみたいと思えるほど、読了後には目を開かされた思いで爽快感があり、達成感も一入です。何となく暮らしていたら絶対に気づけなかったようなことに、(本書を読んだことで)気づくことができました。
     題の『虚構』という部分に惹かれて読むことを決めましたが、ここがまさに争点であり肝だったのは、読む前から理屈では理解できなかったものの、自分の着眼点を素直に褒めたいと思います(笑)
     「増考」の内容もかなり難しめでしたが、自由意志と因果律、責任と自由について、より深く理解するためにはとても重要な内容だと感じました。
     巻末の解説を読んで本書全体の内容をざっとおさらいすることができて、しかも分かりやすい形に変換してくれていたのでとても助かりました。
     文庫版と単行本、どちらを読もうか迷っている方がおられましたら、文庫版をお勧めします。

     じっくりと取り組んでみて分かったことですが、哲学書を読む最大のコツは「結論を急がない」「慌てない」「なるべくコンディションが整っている時に読む」ですね。

     時間をおいて、またいつか再チャレンジしてみたい本です。

  • 責任は、秩序を保つために必要な虚構である。決して、その当人に原因があるから罰せられるわけではない。罰するために、当人に原因があったと決めるのである。

    こういった「見たくないもの」を直視して社会のあり方を根本から問うことができる力は、早いうちに身につけておきたい視座だ。思春期にこれを読めば、もっと早くから社会課題に直接対峙できたかも。30代の今だからこそ刺さるのかもしれないですが。。

  • 2年ぐらい前に衝撃を受けたあの本が文庫化してる!ということで読みました。
    これはすでに単行本読んだ人でも読む価値ありだと思います。
    単行本は手元になく違いは正確にはわからないですが
    最後に「補考」の章が付け足されています。「あとがき」で筆者が「内容にはほとんど手を入れていない」と述べる通り、本文の展開としては大きくは変わっていないのかな?読み返すとかなり新鮮な発見もあったりして、内容が濃くなってるように感じましたが単純に忘れてるだけか。
    「補考」が一番重要でオイシイところだと思います。「大澤真幸・河野哲也・古田徹也・國分功一郎・斎藤慶典諸氏の考究と対峙し」、筆者の主張をより際立たせるような結びの章となっているため。

    初読の時より知識が増えた今読むと、また違った疑問が生まれてきました。もう一回読みたい

  • 【私が読んだのは単行本版です。増補も読みたいと思っています】

    一言で感想は言えない。自分の心と自分がいま暮らす社会の仕組みをざくざくと抉り返されるような本だった。

    有名なアイヒマン実験、ホロコーストの社会機能的構造、死刑制度、冤罪の成立等を例に上げながら、絶対的な真理や倫理の概念の脆さや責任と自由意志の関係を紐解いていく。

    【ちょっと長いけど引用】「哲学者や数学者が厳密な手続きを通して意識的導く論証ならば、所与のデータに対して論理的な吟味が十分なされた後で結論が導き出されるという道筋をとる。しかし一般に人間の思考はそのような線形展開を示さない。例えば(中略)などの政治的テーマについて討論する場面を考えてみよう。相手の主張を最後まで虚心に聞ける人はまれで、相手は左翼なのか右翼なのか、味方なのか敵なのか論者は信用に値するのかそれとも政府の御用学者なのかという範疇化がすぐさま無意識に行われる。相手が展開する論理は、こうして予め作られた思考枠を通して理解され、賛成の安堵感あるいは反対の怒りや抗弁が心の中で積み重ねられてゆく。(中略)つまり論理的手続きの進行方向とちょうど反対に、まず既存の価値観に沿った結論が最初に決定される。そしてどのような結論が選び取られたかに応じて、検討にふされるべき情報領域が無意識に限定・選択される。まず客観的な推論がなされその結果として論理的帰結が導き出されるのでなく、その逆に、先取りされバイアスのかかった結論を正当化するために推論が後から起こる」【引用ここまで】

    こういう最初に自分の立場があって、それをより強固にする記事や世論を集め、それが彼らの正義や倫理観の根拠になってるEcho Chamber現象はあちこちで見てきたし、その集団内にいる人たちが自分の拠って立つ正義や倫理が客観的論理的でないことに自ら気付くことは相当困難なのだと。


    私自身は、甘ったるいかもしれないけど、自分の従う道は世論や集団に流されずできるだけ自分自身の意志で見つけたいと思うほうなんだけど、たとえ完全な自由意志が無理だとしても、自身の拠って立つものが集団の秩序を維持するための正義かそうでないかは常に自問自答しようと思った、かな。
    自分のバイアスになるべく自覚的になるというか、自分の所属する集団がどの位置にあるか客観的に眺めるというか。そうでなければ無自覚のうちに集団からこぼれ落ちる人を踏み潰すことになってしまうんだなあと。。




  • 一般常識的には、自己の行為に対する原因として責任や罰が理解されたが、それは主体性・自由意志が行為を導くという近代市民社会における幻想によるものだった。無意識や条件反射下においては主体性や自由意志は根拠を失い、自己は集団に支えられた残滓としてしか見出されない。集団の社会システムの機能として責任は理解されうるが、前近代の絶対的外部根拠としての神・自然なき近代共同体では、コンセンサス的な社会規範が外部として機能する。スケープゴートとしての犯罪者=責任者を決め、社会秩序を回復し、感情を鎮静化するために、責任という虚構が人間世界には必要となる。
    認知心理学実験、脳科学、哲学、文学など豊富な議論で、一貫した主張をするために恣意的に論証するのではなく、様々な観点から矛盾しない点を打ち出していく、大変興味深い著書。

    以下メモ。
    序章
    ミルグラムの拷問実験服従率65%。生まれや環境・遺伝の偶然も外因であり、個人の肉体的精神的性質に行動を帰しても主体的責任は導けない。精神分析は無意識、行動主義は条件反射、行動を自由に選択し自らの行為に責任を負う主体的人間像は浮かんでこない。態度や考えが変わっても行動も変化するとは限らない事実が社会心理学の常識。行動が意識を形作る。右側のもの、サブリミナルで好き嫌いや判断に影響し、理由は無意識に常識の中から捏造される。人間は合理化する動物。自己は恒常普遍ではなく記憶の沈殿物。葬式は記憶を整理して死者を別の場所へ住まわせる儀式。主観は実体として分離できず、社会化の影響を捨象する時に余る残滓あるいはノイズ。不断の自己同一化によって今ここに生み出される現象、これが主体の正体だ。行為と意志は同時信号だが、行為運動が起きるまでの時間が少しだけ長いため、意志が行為を引き起こすと錯覚する。
    自己は集団によって支えられ同一性を保ち、影響され判断する。
    第4章
    自由と責任を結びつける常識を再検討。どんな存在も原因となりうる。火事の酸素、銃殺事件の鉄発明家、は犯人にならない。偶然起きたか、情状による責任の多寡は運。ナチスドイツの市民は悪行を働いたが、他国では課せられなかったため罪には問われない。不合理だが、道徳状況は運命。因果関係では責任を捉えられない。意志は個人に属する実体ではなく、社会秩序を維持するために援用される虚構の物語。意志が行為の原因として認められる限りで、因果律を基に責任が定立できる。実際には無意識やリベットの脳信号実験から意志は事後的に構成される。ある身体運動を出来事ではなく行為とする判断形式が意志。
    法規則は自然科学の因果関係とは異なり、社会調整として強制力として働き、自由は因果律・決定論とは別次元にある。自由とは望む通りに行動できる感覚、かつ強制力を感じないこと。ギリシア語アイティアは原因・罪の意で、客観的因果律よりも基礎的概念として責任や罰があった。アリストテレスの社会慣習、キリストの神など外部に秩序の根拠がある場合には問題とならなかったが、近代的主体に責任の根拠を持たせる時に不都合が生じる。時代によるけじめの付け方が責任現象の解明に重要。
    犯罪のない世界は画一的な全体主義社会で、価値観を超える創造的個性も許さない世界。
    第5章
    集団は、時間的空間的にも別の個人で構成されるため、道徳的責任を転嫁することはできない。不断の同一化によって集団に自己を同一化し、自分が穢れたように感じる、これが集団的道徳責任。
    常識的には事件→犯人→責任判断→罰という順序だが、フォーコネは、犯罪は共同体に対する反逆で、秩序が破られた社会の感情的反応を鎮めるため、犯罪の象徴を選びシンボル破棄の儀式を通して共同体の秩序が回復される。犯罪の代替物=責任者=スケープゴート。社会規範の再確認。
    自己責任論は、実際には個人主義の対極にあり、集団の自己保存機能が再編成される。魔女裁判や生贄と同じ。
    第6章
    記憶・意味・心理現象・社会制度は虚構抜きには成立しない。責任・道徳・社会秩序に根拠はない。にもかかわらず人間世界を根拠づける社会秩序の外部をどう規定するか。ホッブズリヴァイアサン=君主、ルソー一般意志・法、アダムスミス見えざる手の外部性。貨幣・贈与の虚構的外部性。モースのマオイ族の霊ハウの贈与現象根拠をレヴィストロースが交換システムの根拠として捉え直す。両者は矛盾せず、ハウはジンメルの「社会心理的信仰」という第三項が外部として機能することでシステムとして統一される。ヘーゲル外化・マルクス疎外、人間が作ったシステムが、人間と乖離し外部化することで安定する。ハイエクの超意識的に機能する。デュピュイのアトラクタ(定点)を、社会は自己言及によって形成する。ジンメル循環的推理、ピグマリオン効果、根拠はは後から生成される。パスカル「根拠という名の虚構。それは人間世界を根底から規定する論理構造だ。」法・道徳・意味に根拠はない。現在から過去を辿ればランダムでも道筋は一義的に同定され、決定論と未来予測不可能性は矛盾しない。真理・偶然・一回性・超越・意味、結局は同じことを指す。
    トクヴィル「平等社会ではどんな小さな不平等でも人の気持ちを傷つけずにはおかない」。遺伝・家庭教育・遺産などは本人の責任ではない。伝統社会では身分世襲・固定によって下層の不幸原因を運命に外部転嫁できる社会装置があったが、近代以降はロールズ的正義に支えられた社会秩序がもたらす階層分布によって、誰のせいでもない、才能や努力という各人の個性が問題になる。完全平等が不可能な以上、底辺の者は変革を求め続け、社会正義は正当化を永久に強いられる。完全公正な秩序透明化社会は人間には住めない地獄の世界だ。デュルケム「社会が象徴的に把握され、変貌したものが神に他ならない」
    結論に代えて
    真善美、真理や根拠は集団性の同意語だ。倫理判断は合理的行為ではなく、信仰だ。それゆえに道徳・社会規範は強大な力を行使する。

  • 死刑制度は、誰もが責任を感じさせないシステムになっているからこそ、維持可能である。
    この指摘が、本当にショッキングだった。
     
    第1章で、ホロコーストは、高度な組織化のもと作業分担が行われ、責任が分散化することによって可能だったということを具体的かつ丁寧に論じた後、第2章(表題は「死刑と責任転嫁」)で、終局的な死刑執行場面のまざまざしい描写にはじまり、死刑制度はホロコースト同様、分業体制がこれを支え責任が分散化されているからこそ(あるいは「無責任体制」だからこそ)、維持可能だと説得的に論じていくので、全体として第2章は、心情として読むのが非常につらかった。つらすぎた。

    死刑を執行する者、言い渡す者、求刑する者、執行命令に署名する者、それぞれの心理負担を軽減するメカニズムなしには、制度が機能しない。
    「受刑者を死に至らしめる罪悪感は、こうして組織全体に限りなく転嫁・希釈される。」

    第3章以降では、責任の虚構性を論じています。
    責任は、因果関係ではとらえられず、「主体」「責任」「自由意思」は、虚構性を巧妙に隠された、社会に必要な虚構にすぎない。これらを、脳科学の知見などあの手この手で論じています。

    ただ、自由意思という概念を持ち込まないと、近代の処罰制度は機能しない。
    スケープゴートを正面から受け入れる制度に戻ることは、もっとできない。
    他方、処罰がない、社会規範からの逸脱がない社会は、突き詰めると恐ろしい全体主義でしかない。

    死刑への責任の分散化は、さらに辿れば「国民の大半は死刑制度の維持を望んでいる」とする法務省、死刑制度の正当化の「根拠」たる国民の「意思」へ行きつく、とも考えられますが、その「意思」すら無根拠の虚構となってしまい、もうどうすればいいのか。

    できることは、虚構性を認める視点を持ち合わせ、その上に立っていることを自覚して、社会に、処罰制度に、向き合うことでしょうか。

    その他。
    「殺意は、殺そうという心理状態でなく、このような状況では殺意があったと認めるという了解だ。つまり、意思と行為の関係は物理的な因果関係でなく、社会規範である。」

  • 3.4

  • 一般的には自由と責任は表裏一体の因果関係であり、なので法や規範の判断の元になる自由意志によって罰される。

    ただ、人の行動は脳の信号を起点に人が意識を持つ以上、自由意志はないので責任はないはず。それにもかかわらず規範で人を罰する矛盾をつく。

    結局自由も責任も、社会が決めた虚構であり、自由意志みたいな内側にあるものじゃなくて外側にあるもの。普遍的な規範を追い求めても袋小路じゃないかと問題定義している。

  • 摂南大学図書館OPACへ⇒
    https://opac2.lib.setsunan.ac.jp/webopac/BB50194490

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著者プロフィール

小坂井敏晶(こざかい・としあき):1956年愛知県生まれ。1994年フランス国立社会科学高等研究院修了。現在、パリ第八大学心理学部准教授。著者に『増補 民族という虚構』『増補 責任という虚構』(ちくま学芸文庫)、『人が人を裁くということ』(岩波新書)、『社会心理学講義』(筑摩選書)、『答えのない世界を生きる』(祥伝社)、『神の亡霊』(東京大学出版会)など。

「2021年 『格差という虚構』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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