理不尽な進化 増補新版 ――遺伝子と運のあいだ (ちくま文庫)

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  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (496ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480437396

作品紹介・あらすじ

進化論の面白さはどこにあるのか? 科学者の論争を整理し、俗説を覆し、進化論の核心をしめす。科学と人文知を切り結ぶ現代の名著。解説 養老孟司

感想・レビュー・書評

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  • 文筆家にして編集者・吉川浩満インタビュー 情報収集術から人文書の潮流まで語り尽くす|Real Sound|リアルサウンド ブック
    https://realsound.jp/book/2022/03/post-979840.html

    生物はすべて合理的である – 『理不尽な進化』 (池田 信夫)| アゴラ 言論プラットフォーム(2015.2.15)
    https://agora-web.jp/archives/1631866.html

    『理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ』(朝日出版社) - 著者:吉川 浩満 - 島田 雅彦による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS(2020/3/21)
    https://allreviews.jp/review/4339

    生きづらいのは進化論のせいですか?/『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』著者、吉川浩満氏インタビュー - SYNODOS(2016.6.13)
    https://synodos.jp/opinion/science/17264/

    理不尽な進化|特設サイト (朝日出版社)
    https://www.asahipress.com/rifujin_web/

    筑摩書房 理不尽な進化 増補新版 ─遺伝子と運のあいだ / 吉川 浩満 著
    https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480437396/

  • 【はじめに】
    参加した読書会の課題本として挙げられていたため読んだ。
    著者の吉川さんも参加されていて、本のタイトルは『理不尽な進化「論」』であるべきだったかもしれないが、それだけ「進化論」が理不尽だという全く違う意味に誤解されかねず、また『理不尽な進化論「論」』でもよかったかもしれないが、「ロンロン」となるのも変なので、『理不尽な進化』にしたとのこと。

    なお著者は「理不尽」という言葉の選択の理由を次のように説明している。
    「理不尽さ、などという妙な言葉を選択したことには理由がある。端的にいえば、本書をアート(文学、芸術)の本にもサイエンス(学問、科学)の本にもしたくなかたからだ。あるいはアートもサイエンスも、という本にしたかったからである」

    つまり、本書は「進化論」に関する本であり、進化論の「正しさ」に対して信を置きつつも、同時に実際の歴史の理不尽さを対置し、その二つの間を取りもとうとする意図をもったものなのである。

    【概要】
    ■ 進化論「論」と適応主義の浸透
    ダーウィンの進化論の果たしたインパクトは、生物進化を自然主義的に説明する道を拓いたということにある。それまでは、精妙に作られた生物の仕組みができあがったことを説明する理論を人類は持っていなかった。星々の運行が、神の手がなくとも科学(=自然主義の論理)で説明がつく中で、そこ(=生物)には神が介入する余地(=複雑性)があった。ダーウィンによって提唱された進化論は、我々を含む生物界がこのような姿にあることを超越者なしで説明することを可能とした点で画期的であった。

    1)個体間に性質の違いがあること(変異)、2)その性質の違いが残せる子孫の数と相関すること(適応度の差)、3)それらの性質が次世代に伝えられること(遺伝)、という三つの条件が揃ったときに進化が起こるというのが自然淘汰の要諦であり、生物の複雑性を説明できる理論となった。

    著者は、進化論を強く支持するダニエル・デネットがまとめたダーウィニズムの意義を次のようにまとめる。
    ・ダーウィンの革命性は生物進化が自然淘汰というアルゴリズミックなプロセスの結果であることを見出した点にある
    ・進化論とは自然淘汰のアルゴリズムをリバース・エンジニアリングによって解読する学問である
    ・進化論が行うリバース・エンジニアリングにおいて中心的役割を担うリサーチ・プログラムが適応主義である

    ここで言われる「適応主義」のプログラムがアカデミックな研究領域として非常に上手く機能している。現代においては、適応主義は学問的パラダイムとして確立しているのだ。その点についてはこの領域に関わるほとんどすべての人にとって共通理解となっている。
    「デネットにとって(もちろんドーキンスにとっても)、適応主義を採用するのかしないのかということは問題ではない。よい適応主義者になるのか、それともわるい適応主義者になるのか、もはやそれだけが問題なのである」(p.218)

    さらに著者によると、進化論のパラダイムは生物としての人間自体をその帰結として含んでいるため、その射程には心理学、哲学の領域まで含まれているのである。マルクス主義がその時代の乗り超え不可能な哲学だとサルトルが言ったように、「ダーウィニズムこそ、われわれの時代の乗り超え不可能な哲学である」といってもよい状況になっている。進化論をそのうちに含まない哲学はこの時代においてはもはや成立しない。

    さらに進化論のパラダイムは生物進化の理論として正当に適用される範囲を超えて通俗化して使われることも多い。例えば、企業の栄枯盛衰や、競技やゲームでのプレイヤの競争などで「適者生存」や「突然変異」が本来の意味を逸脱して利用されることもしばしばである。進化論のコンセプトは、すでに一般社会の中で「言葉のお守り」にもなっているのである。

    ■ グールド vs. ドーキンス論争の意義
    この適応主義が描く自然主義的世界観に対して異議を唱えたのがスティーブン・グールドである。グールドは、「断続平衡説」など修正ダーウィニズムの論客として知られ、ネオ・ダーウィニズムを「適応万能論」として批判した。本書第三章「ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるか」は、ほぼその章丸々がグールドと『利己的な遺伝子』の著者でネオ・ダーウィニズムを代表するドーキンスとの争いの振り返りに当てられている。

    グールドは、その文才を生かした流麗なエッセイによって有名になった。しかし、あらためて彼の『パンダの親指』の第八章「利他的な集団と利己的な遺伝子」でのドーキンス批判や『ダーウィン以来』の第三十二章「遺伝的可能性と遺伝決定論」でのE.O.ウィルソンの社会生物学への批判を読むと、グールドが主張している論点が理解できなかった。「あなたたちは間違っているはずだ」とグールドが主張したいがためにただ言葉を重ねているようにも感じる。また本書の中でもグールド批判に対するドーキンスの主張が書かれているとされているドーキンス著『延長された表現型』第三章「完全化に対する拘束」を読んでも論争の噛み合わなさを感じてしまうだけだった。

    グールド・ドーキンス論争の顛末を描いたキム・ステレルニーは、その著書『グールド vs. ドーキンス』の最後で次のように結論付けている。

    「私の手の内のカードをさらしておこう。私自身の考えは、グールドよりもドーキンスのほうにむしろ近い。とりわけ小進化、すなわち地域集団内での進化的変化に関しては、ドーキンスが正しいと考えている。しかし、大進化は小進化をスケールアップしただけのものではない。グールドの古生物学的な視点は、大量絶滅とその結果について、そしておそらくは種と種分化の本質について、真の洞察をもたらしてくれる。したがって、地域的なスケールの進化についてはドーキンスが正しく、一方、地域的スケールの事象と古生物学的に長大な時間スケール事象との関係については、おそらくグールドのほうが正しいということになるのだろう」(p.166)

    『利己的な遺伝子』や『盲目の時計職人』などを読んで、自分はもっとドーキンスの方の理があると思っていたが、まとめるとするとこういうことなのかと納得できるレベルのまとめだと思う。

    これに対して著者は、学会の論争においてはグールドはドーキンスらネオ・ダーウィニズムに敗れたということを著者も認めつつ、次のようにこの論争自体への最終評価を保留する。
    「これは、ダーウィニズムの仕事を二つに切り分けたうえで、ドーキンスの土俵を進化のプロセスを探る研究に、そしてグールドの土俵を進化のパターンを探る研究に割り当て、それぞれの土俵で両者に軍配を上げる判定だ。私も自分の考えはグールドよりもドーキンスに近いと感じているが、このステレルニー判定は基本的には妥当なものだと考えている。とはいえ、このように土俵を切り分けることでグールド問題が解消されるとは、とても思えない」

    そして第三章の最後で、各章の関係を次のように述べた上で、「理不尽にたいする態度」と題された終章に進んでいく。
    「ここまで、グールドの敗北にはもっともな理由があったことを論じてきた。しかし他方で、グールドが不利な挑戦をやめなかったことにも、もっともな理由があったのではないか。それは進化論という学問そのものの存立にかかわる重大事でありながら、あるいはむしろそれゆえに、彼を混乱させ、分裂させ、自滅させる蟻地獄になったのではないか。じつは勝利者が決して近寄らないその場所にこそ、進化論が喚起する魅惑と混乱の源泉があるのではないか。こうした見立てのもと、次の終章では、その魅惑と混乱の源泉を目指して歩を進めることにしたい。そこで明らかになるのは、グールドの敗走が、第二章で論じた私たちの誤解や混乱と無縁でないどころか、その鏡像のような、あるいは生き別れた双子のような存在だということである。そしてそれは、第一章で論じた進化の理不尽さを、いわば真に受けた結果なのだ」(p.258)

    ■ 「理不尽」に対する態度
    著者がグールドにこだわる理由は、グールドが見せた「進化の理不尽さへの執着」なのである。それは、「歴史」および「事実の複雑さ」を可能な限り尊重する姿勢と言えるのではないか。そしてグールドが論争に敗れたとして、おそらくはなぜ敗北することをわかりつつ攻撃的な批判をしなくてはならなかったのかを突き詰めるによってなぜ「理不尽さへの執着」が必要なのかが明らかになる。

    その理由のひとつは、「学問」と「歴史」とを同列に扱うべきではないということが主張される。学問においては、ドーキンスは勝利し、グールドは敗れざるを得なかった。著者が指摘するように、「強いていえば、「説明」だけが方法的である。学問とは「説明」という方法と、それによって獲得された知の総体にほかならない」からだ。しかし、その上でグールドは次のように考える(と著者は指摘する)。

    「グールドにとって、現在的有用性と歴史的起源の区別、つまり進化のメカニズムにたいする生命の歴史の独立性は、どうしても確保されなければならないものであった。(略) 進化論をかたちづくるのは、進化のプロセスを扱う自然淘汰説だけではない。進化論にはもうひとつの柱があり、それが、進化の歴史を扱う生命の樹の仮説である」(p.295)

    こういったグールドの考え方が重要なのは、われわれ一般人もしくは社会の進化論の受容とグールドの考え方には共通するものがあるからだと指摘する。グールドのエッセイが一般に受け入れられた理由の一端はおそらくそこにある。
    「ここで大事なことは、目的論的にしか理解できない事象を結果論的に説明する革命的理論を手にしたとしてもなお、私たちがその事象を目的論的にしか理解できないという事態は変わらないということである」

    この認識は先に指摘した「言葉のお守り」のように無見識に進化論のコンセプトが利用されることにつながっている。
    「進化論の学説はもともと学問的な限定がなされることで有効性が確保されているのだが、私たちはそのような限定から離れて融通無碍にそれを利用する。(略)私たちはグールドの切った空手形をドーキンスの名声によって現金化する」

    ■ 人間中心主義と進化論
    最後に、科学=自然主義としての進化論を突き詰めたとき、われわれにとって進化論はどういった意味を持つのかを本書に沿って考えたい。

    著者はまず次のように宣言する。それは現代のいわゆる人間中心主義のパラダイムに沿っているように思われる。
    「私たちは学問=科学の遠心化作用にたいして、あらためて「それは人間であることとなんの関係があるのか」と問わなければならない」
    そして続けて次のように人間中心主義とは別の新しいパラダイムの出現を予言する。
    「近代人たる私たちには、もうひとつ逆向きの問いが必要である。すなわち「それは人間であることとなんの関係があるのか」と問うだけでなく、返す刀でこんどは、「それは進化/進化論となんの関係があるのか」とも問わなければならない」

    著者がその後、「科学的知見の理解を邪魔するのは、多くの場合、私たちのなかの「人間」なのである」と書き、グールド・ドーキンス論争や、グールドのE.O.ウィルソンに対する批判が発生した背景を科学ではなく、「人間」が問題であったと指摘する。
    「適応主義、そして社会生物学をめぐる論争があのように激しいものになったのは、それが歴史認識や政治や宗教といった「人間的、あまりにも人間的」な領域へのコミットメントと切り離し難いトピックであったからだ」

    そして、人間中心主義への批判としてすでに言い古されたフーコーのあの言葉を持ち出してくる。「人間」はそれほど簡単には消えないのではと躊躇いながら書き記す。
    「経験的=先験的二重体としての「人間」は近代とともに誕生した歴史の産物だと、先のフーコーは言った。そして「人間」は近い将来、「波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」という言葉を残した。私には「人間」の行く末がそうなるかなどわからない。いま進行しているのは「人間の終焉」というより、経験的主体と先験的主体のあいだの懸隔の広がり、あるいは解離的共存であるように思われる」

    グールドが示した理不尽さへのこだわりへの感性が重要なのだと著者は言っているような気がする。

    「本書の主目的が進化論の解説ではなく、私たち自身の進化論理解を理解するという点にあることを考慮すると、グールドの敗走が真価を発揮するのはむしろこれからである」

    【所感】
    なかなか理解するのが難しい本であった。書いてあることが難しいということではなく(簡単ではないのだが)、それよりも著者の意図をつかむことが難しかったという印象である。

    その中での自分の理解として、この本で著者が言わんとしていることは、進化論が必然的に踏み込んでくるわれわれ自身の存在に関する還元主義的な考え方への「異和感」なのかもしれない。そうであるがゆえに、この本は、論理的にはドーキンスの肩をもちつつ、どこまでもグールドに関する本になったのだ。少なくとも自分にとってはそう感じ、そう考えたとき、すっと腹に落ちる感覚があった。
    言い換えると、進化の理不尽さに拘るグールドの「理不尽さ」と、そこにある誠実さについての本だとも言える。それは著者が言う進化論にまつわる「哲学的困惑」にも相当するのかもしれない。

    著者は、「いま私は、「ダーウィニズムこそ、われわれの時代の乗り超え不可能な哲学である」と叫びたい気分である」(p.410)と書き、「ダーウィニズムという万能酸はまだ世界の一部分しか浸食し終えていない。それが効いてくるのはむしろこれからであろう」と書きながら、一方でグールドが主張し続けたこだわりを捨て去ることができない。われわれは、「それは進化/進化論となんの関係があるのか」という問いを繰り返して、何とかやりくりをしていく方法を見つけなければならないのだろうか。

    いずれにせよ、グールドを切り捨てることに躊躇いを生じさせる何かこそ著者の吉川さんがこの本の中で扱おうとしていたものなのではないかと思った。そしてそれを語るために、この本の長さと迂遠さとが必要になったのではないかと。

    誰にでもお薦めする本ではないが、自分にとって進化論を巡るすでに答えは出ていたと考えていたことについて、いろいろと考えさせる本であった。

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    『ドーキンス VS グールド』(キム・ステルレルニー)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4480088784

  •  文庫本オビの名だたる評者のコメントに魅せられて手に取ってしまった一冊。  

     本書は科学としての進化論について論ずるものではないし、一般読者にも理解できるよう丁寧に論述されているが、内容を一言で説明することは難しいので、気になったところを、以下書き留めておく。

     「私たちは進化論が大好きである」(序論)との印象的な一文から本書は始まる。そもそも進化論は、生物の世界を説明する科学理論である。と同時にそれは、"新たなビジネス環境への適応"、"進化する天才"、"○○のDNAが流れている"といったワードを日々目にするように、物の見方やイメージを我々に喚起するものでもある。

     本書は先ず、「適者生存」として語られる進化論を、圧倒的多数の絶滅した種から見るとどうなるのか、という問いから思考を進めていく。遺伝子が悪かったのか、運が悪かったのか?それを説明するキーワードが"理不尽な"である。生存のためのルールが変更されてしまう、そして新しいルールはそれまで効力を持ってきたルールとは関係ない。こうして多くの種が絶滅し、代わってその空きに新たな種が登場する。

     第二章では、科学理論としてのダーウィニズムと、スペンサー流発展的進化論として私たちが抱いている進化論的世界像(との分業体制あるいは乖離的共存の状況について語られる。この辺りの論は非常に面白い。

     第三章は、適応主義を巡り、進化生物学者として有名なグールドとドーキンスの間で行われた論争を取り上げる。論争の判定としてはドーキンス側に軍配が上がったというのが今日的評価だが、著者は、なぜグールドは死ぬまで負けを認めようとしなかったのか、その点について終章で考えていく。
     
     ここでのキーワードは「歴史」である。グールドは、生物がもつ特徴が何の役に立っているのかという「現在的有用性」と、それがどのような経緯でそうなったのかという「歴史的起源」の区別を保持することが重要であると言う。ではなぜ歴史が必要とされるのか。進化の道筋はそのメカニズムとは外的な関係にある物理的諸条件に左右されるという事実は、進化の歴史が単なる発展や展開ではなく、ほかならぬ歴史であることと同義であるからである。
     そして、ダーウィニズムの心臓部には「説明と理解」、すなわち「自然の説明」と「歴史の理解」という哲学的問題がビルトインされている。


     本書はたしかに進化論に関する本である。そこで取り上げられている内容だけでもとても興味深い。同時にものの見方、考え方についての人文学的内容に溢れた本である。ニ読、三読することでそのつながりや著書が本書全体を通して言わんとしていること、面白さがより分かってくるのではないだろうか。
     
     

  • 生物種にとって「絶滅」とは理不尽なものだ。
    本書でも例に挙げられているとおり、白亜紀末の隕石落下による恐竜らの大絶滅は、それまで地球上で覇権を握っていた大型恐竜たちが「たまたま」体が大きかったせいで、小型哺乳類にとって代わられることになった。でも哺乳類がなにも優れていたわけではない。環境が安定していれば、適者生存の論理もそれなりに有効だけれど、「弾幕の戦場」のような劇的変化となれば、それまで強者の条件としてまかり通っていたものが理不尽にも足元からひっくり返される。

    けれども人間たちは、適者生存、弱肉強食、イノベーションなど、進化論を通俗化してなんでもかんでも社会に適用して得々としてみせる。進化も裏を返せば絶滅の条件であるとも知らずに。そして、ナチスという進化論の悪用を経験した現代でさえ、ITをめぐって同様の文言が流用されたりしている。

    本書は、なんとなく向上や成長や前進やの、資本主義にまつわる後戻りのできなさを進化論に託している私たちに、進化論の真相をつきつける。でも意地悪にではない(ひどく意地悪にも書けそうなものだけれど)。ユーモアというオブラートに包んで。

  • はじめて進化論がらみの本を読んだのがグールドの『ワンダフル・ライフ』だったと思う。20年以上まえ、グールドが亡くなる少し前のこと、たまたま本屋で平積みになっていたのを手に取った。読んでみていたく感心して、ほんの数冊だが他の著作も読んだ。その後、グールドが非主流派というかキワモノ的な立ち位置でドーキンスらとのあいだに論争があることを知り、ドーキンスも『利己的な遺伝子』は読んだがグールドとの違いは何もわからず、なにか引っかかるようなものを抱えながらも今日まで特に不都合もなく生きてきた。

    この本のおかげですっきりしました。進化論にとっては重要な論争かもしれないが、あまりにも概念的で素人的には「まあまあ、どっちでもよくない?」みたいなところもあるので、これくらい噛み砕いてもらってはじめて理解できた(気がする)。

    科学の方法論としてはドーキンスら主流派の唱えるとおりだが、一方でわれわれが歴史を語るときには、グールドが迷い込んでしまった難儀な領域にわれわれも否応なしに足を踏み入れざるを得ない、といったところか。

  • 一般的に流布してる進化論はスペンサー、ラマルクの発展的進化論(進歩論)で、ダーウィンのそれとはことなる。ダーウィンは存在の連鎖から、系統樹的枠組を提示した。進化は遺伝子の累積的適応結果の事実を指すのであって、より良い、より適応すると言った価値を含まない。生存結果が「適応した」ことの基準であり、適応する様に進化したとか、強者が生き残るという言い方は転倒。運や遺伝子の累積的変化がら「たまたま」環境に有利だった場合に生存するわけでそれが結果的に「適応した」と評価される。運悪く絶滅したものは今からは見えないため、「残るべきものが残った」かの様に、進歩したかの様にみえるだけ。
    進化という語が、向上や進歩など肯定的な意味を帯びた「二時的評価語」として使われている。

    適応主義的説明をめぐるグールドとドーキンス、デネットとの論争。
    負けたもののグールドの歴史的起源と現在の適用有用性を峻別する態度(ダーウィンも無駄の痕跡こそ歴史をたどる鍵と見ていた)。

    グールドが科学者でありつつ偶発性の概念にあらたな方法論を担わせようとしたことが、彼をロマン的科学者と反還元主義的な全体主義的科学者へ分裂させた。科学における説明と理解の共存の夢想。

    ガダマーは理解は学問ではなく特殊性、真理にかかるもの、学問は説明による方法のこととする。

    ヤスバースの「形而上的な罰」、サルトルの「嘔吐」の主人公ロカンタンがマロニエの根っこをみるあの有名なエピソード(不条理な存在の開示)を引いて、グールドのいう偶発性が、科学(の方法論)の外の領域のテーマであると正しく整理するくだりは本書の白眉。本書が進化論を扱いながらその実は科学哲学的なテーマを扱っていることがわかる。ガダマーのいう「真理」の領域で、古来、芸術や文学が扱ってきたところ。
    進化論が非目的的なプロセスの方則を取るにもかかわらず、説明が目的論的にはなりがちなのは、あったかもしれない偶発性を方法論としてはリサーチプログラムゆえにあえて織り込まないからだ。

    ここでいう理不尽さとは何か。それは例えば普通にタバコを買いに出てその途中でいきなり脈絡もなく射殺される理不尽さである。そのことは殺されるものからすると、科学的な因果関係などつけようもない偶有時でしかない。がそれが歴史(個人史)そのものであることも間違いがない。状況論や統計に汎化することで、ひとつのデータ要素として科学的に扱うことはできようが、個人史としての立ち現れはそこでは扱い様がない。かけがえのなさ感と言おうか。そういうものとな間の「頭ではわかるが納得できない」という感覚。

  • とても面白い。
    最初の話を読んだら諦観しそうだが、そうはならないので知的なジェットコースターのような感覚でもあった。
    生きる上での一つの軸になりそう。

  • これを読んだあとは、日常に蔓延する進化論的コピーが気になってしまう。

    社会でも、会社でも、個人でも、強いから/能力があるから生き残っていると思い込むのは間違った認識。実力勝負は確かに存在するが、実力勝負にいたる舞台の設定は運でしかない。たしかに。

    適者生存というスローガンが指すのは、生存したものが結果的に環境に適応したに過ぎないということだけ。いま生き残っているのが優れていることを証明するわけではない。誤解して使い過ぎている。
    言葉のお守り的用法、周りにたくさんありそう。

    好きな言葉、
    現実はもっと理不尽寄り。

  • 進化というか進化論についての本。初めは面白い考察だなあと読み進めていたけど、長くて周りくどくて途中から苦痛になって断念。断念した本って久しぶり。色々考察して描く必要がありそこが妙なんだろうけど、頭の良い人って面倒臭いなって思った。

  •  題名に惹かれて読み始めたのだが、素人相手と書いてあるのに、難しいし細かいシツコイので、読み進めるのがたいへんだった。

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著者プロフィール

吉川浩満(よしかわ・ひろみつ):1972年鳥取県米子市生まれ。文筆家、編集者。慶應義塾大学総合政策学部卒業。書評サイトおよびYouTubeチャンネル「哲学の劇場」を山本貴光とともに共同主宰している。おもな著書に『哲学の門前』(紀伊國屋書店)、『理不尽な進化増補新版』(ちくま文庫)、山本との共著に『人文的、あまりに人文的』(本の雑誌社)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(筑摩書房)、『脳がわかれば心がわかるか』(太田出版)がある。

「2022年 『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である 増補新版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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