客観性の落とし穴 (ちくまプリマー新書 427)

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  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480684523

作品紹介・あらすじ

「その意見って、客観的なものですか」。数値化が当たり前になった今、こうした考え方が世にはびこっている。その原因を探り、失われたものを明らかにする。

感想・レビュー・書評

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  • 特集論文 言葉とつながれないこと
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/shitsuforum/13/0/13_21/_article/-char/ja/

    客観性の落とし穴 村上 靖彦(著/文) - 筑摩書房 | 版元ドットコム
    https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784480684523

  • 数字、客観性、それに伴うエビデンスは人を説得、納得させる事ができる。
    しかし、その数値化等は、そもそも一人ひとりの偶然かつ個別的に生じるものから法則性を導き出している。
    この本は、その個別性、出来事の生くささが重要であることを説いている。

  • 客観性の落とし穴
    著:村上 靖彦
    ちくまプリマー新書 427

    客観性+数値を過信せずに、経験にもとづいた方法論をとれ、ということいっています。

    ただ、書名については、違和感がありです。高さがちがうというか、あっていないというか 客観性⇔主観性、数値化⇔言語化といった軸を期待したのですが。

    「はじめに」の冒頭にあるように、「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか」という問いがでてきます。筆者は現代を支配する、数値と客観性への過度の信仰に対して疑問を呈している。

    要は、過度の客観性信仰の陰で、主観性である経験を重視しようという流れとなる

    客観的な測定
     ①感覚の段階
     ②視覚化の段階
     ③数値化の段階 判定者が重要になるから、証言によって結果を保証する必要があるのはここまで
     ④誤差理論の段階 以後、測定者の手を離れて自立していく、より客観的になる
     ⑤指示・記録計器の段階
     ⑥デジタル化の段階

    科学の客観的価値とは何か ⇒ 科学はものごとの本当の関係を教えてくれるのか

    客観性の追求
     ①資料の収集
     ②資料批判
     ③正しいと判断した資料にもとづいて、過去の事実を記述する が客観性である

    自然が客観的な真理とされたことで社会から人が切り離されていく。
    人間の経験は科学的知見から切り離された 
    ⇒ 人間の心、魂も、客観的にすべきでは
    ⇒ 研究対象となるのは、あくまでもの、心理現象であって、事物的な反応に限られる
    ⇒ 心はデータとなり得ない
    ⇒ すなわち、人間の主体的経験は消されていった 【前半で浮かびあがった問題点①】

    数値市場主義、自然と社会の森羅万象が数値化されていく
    世界そのものが数学化された社会では、世界は統計によって支配されることとなる
    数値化されれば、個人に責任が帰される社会は不安に満ちており、社会規範に柔順になることが合理的になる

    ⇒ 生産性によって、人間を分断し、顔がみえない匿名的なものへと変えていく
    ⇒ その帰着として、数値において、優秀な人間と劣る人間という序列化が生まれ、劣るとされた人間が差別されるとともに、排除される 【前半で浮かびあがった問題点②】

    後段は一転、経験、言葉を中心とした議論が展開される

    一人称の視点から人間を分析するとき、外から見た客観的な指標では見えてこない像が生まれる
    ⇒ 人の経験を大切に扱うこと
    ⇒ 語られた言葉をそのまま記録する

    経験の生々しさ:インタビューは、人生全体の要約であり、省略であり、近似値である
    語ることが難しい経験を、あえて言葉にしている

    統計学とは、たくさんのデータを集めて数学的な処理をすることで出来事の中から法則性を見出すもの
    ⇒ しかし、偶然との出会いから生まれる唯一無二の経験や説明を超えた変化を、統計学は考慮しない
    ⇒ 経験のダイナミズムは座標に位置づけられないし、計測することもできない
    ⇒ 経験のダイナミズムの1つとして、変化のダイナミズムを考えよう

    経験の内側からの視点 
    ⇒ 経験を尊重しつつキャッチするためには、客観とは異なる視点を取る必要がある
    ⇒ 経験の内側に視点をとる思考法
    ⇒ フッサールによる現象学

    個別的経験を尊重することは、あらゆる人を尊重することを意味する

    【結論】客観性と数値を盲信することなしに、顔の見えないデータや制度からではなく、一人一人の経験と語りから出発する思考方法を提案する

    目次*Contents

    はじめに
    第1章 客観性が真理となった時代
     1 客観性の誕生
     2 測定と論理構造
    第2章 社会と心の客観化
     1 「モノ」化する社会
     2 心の客観化
     3 ここまでの議論を振り返って
    第3章 数字が支配する世界
     1 私たちに身近な数字と競争
     2 統計がもつ力
    第4章 社会の役に立つことを強制される
     1 経済的に役に立つことが価値になる社会
     2 優生思想の流れ
    第5章 経験を言葉にする
     1 語りと経験
     2 「生々しさ」とは何か
    第6章 偶然とリズム―経験の時間について
     1 偶然を受け止める
     2 交わらないリズム
     3 変化のダイナミズム
    第7章 生き生きとした経験をつかまえる哲学
     1 経験の内側からの視点
     2 現象学の倫理
    第8章 競争から脱却したときに見えてくる風景
    あとがき

    参考文献

    ISBN:9784480684523
    。出版社:筑摩書房
    。判型:新書
    。ページ数:192ページ
    。定価:800円(本体)
    。発売日:2023年06月10日第1刷
    。発売日:2023年09月10日第6刷

  • 客観性を支えるのは数値である。
    数値化は序列化であり、それが能力主義を生み、さらには優生思想に繋がる。

    「働かない人が多くなると国が成立しない」といった統治者の立場でものを言う人が散見する昨今の傾向は、ホント嫌だなあ。国なんて、虚構なんだから、そこに視点を合わせることに意味はないことを知ること。視点を変えて当事者の立場になること。
    経験を語ること、それが普遍的であることを知ること。
    数値化を否定するわけではなく、それがもちろん全てではなく、生々しい経験こそが、真ん中にあるべきなのだということを教えてくれる好著である。

    石牟礼道子の「苦海浄土」に描かれた、患者の生々しい息遣いを思い出した。あれこそが、客観性の真逆にあるものであり、顔が見える社会に必要なものだ。

  • 毎日スーツを着てパンプスを履いて仕事に行くことがどうしても無理──そういう理由で一般企業への就職をあきらめた女性がいる。「そんなことくらいで」と思うだろうか。「努力が足りないのでは」と思うだろうか。しかし、多くの人にとって何でもないことだとしても、彼女が就職を断念しなければならないほどに苦痛と感じるのであれば、少なくとも彼女にとっては、それは耐え難い苦痛なのではないか。
    客観性はすべての人に同じ基準を押し付け、すべての人を同じ基準で測ろうとする。そうしたとき、前述の女性のような人は「落伍者」あるいは「怠け者」というレッテルを貼られ、世の中から切り捨てられてしまう。けれども、そのような客観性ははたして「真理」なのだろうか。
    単一のモノサシで測ろうとするから、比較と競争が生まれる。偏差値はその典型である。偏差値は学力を測るモノサシのひとつに過ぎないが、偏差値によって学校も生徒も一直線上にランクづけされてしまい、その中で競争を強いられる。偏差値が無意味だと言っているのではない。数値的な客観性によって、見えなくされているものがあるということである。
    本書の「はじめに」の中で、「障害者にも幸せになる権利はあると言うけれど、障害者は不幸だと思います」という学生の言葉が紹介されている。本来、何が幸せで何が不幸かは、人それぞれである。しかしこの学生は、幸せの基準は誰でも一緒だと考え、その基準によって障害者を不幸だと決めつけてしまっている。同時に、自分自身をもその基準に縛り付け、不毛な序列制へとみずからを追い込んでいるように見える。
    客観性に対する過剰な信仰。数字に支配された世の中。現代社会におけるマイノリティの差別と排除は、それらと切り離すことができない。著者は病気や障害を抱えた人たちへの聞き取りを通じて、「経験をその人の視点で語る」ことの意味を説く。それは一体どういうことか。
    本書で取り上げられているショウタさん(仮名)のエピソードをここに紹介したい。母子家庭に暮らす彼は、精神疾患と薬物依存の母親を世話しながら、極度の貧困生活を送っていた。だから、家にしょっちゅうゴキブリが出たり、夕食が毎晩カップラーメンなのも、彼にとっては「普通のこと」だった。しかし、友達が遊びにきたことで、彼は自分の家庭が「普通ではない」ことに気づいてしまう。そして、自分を不幸だと思い、「普通の生活」に強く憧れるようになる。ところが、母親の逮捕をきっかけに施設に入り、自分以外にもさまざまな境遇の子供がいることを知ると、「普通って何だろう?」と考えるようになる。結局、普通なんてものは存在しないんだ。そうやって彼は「普通」の呪縛から離陸する。
    人間は、一人ひとりが異なる顔を持った個別的な存在である。しかし、客観性「だけを」真理と見なしたとき、「全体」や「多数」といった顔のない主語によって、個人は抹殺される。現代社会の持つ非情さと、現代人が抱く不安。その二つの根底にあるものを、著者は見事に描写している。

  • このタイトルやオビだと、「客観性」にフォーカスされていると思いがち。
    前半は確かに「客観性」つまり、データ化されることによる弊害について述べられている。
    ただし、割と重いのが後半の、「個別の語り」で、ここからナラティブであったり、ケアや福祉的なジャンルに傾いていく。

    人間にとって、共感=安心の作用は、かなり大きなものなのだと思う。
    だから、「普通」であることをベースにして、「普通」でないことを正したり、排したりしてしまうのだろう。

    その「普通」が世間知からデータという数値に変えられていく背景も、よく分かる。

    でも、一方でそれを突き詰めていくこと、数値化された生活を送ることに疑問を抱くのも、また人間らしさなのだと言える。

    文学だって、一回性の語りだ。
    私たちはそうした、ナラティブなものの中に価値を見出してきた。

    後半の、ヤングケアラーであるショウタくんの語りは、読んでいて胸に迫るものがある。
    つい先程、オノマトペと言葉についての本を読み終えたところなのだけど、語りの中に出てくるオノマトペの使い方。リズム感。
    そこに、思考の過程が見えたような気がする。

  • 十人十色。
    一つ一つのエピソードを丁寧に見ていく個別性の大切さが論じられていた一冊。
    数で示すのは分かりやすいし、一見すると正しく見える。
    量的研究に敬意を表しながらも質的研究の矜持を感じさせられた。
    本書を読んでいて頭に浮かんだのは「戦死者数」だった。
    ニュースで「○○人が死亡」と報じられることがあるけれど、その○○人には、それぞれ個別のエピソードがある。
    その個別性を忘れてはいけないと思った。

  • タイトルに惹かれて読んでみたが、客観性についての議論は前半のみ。後半は、経験とか、ケアとかの話。「ゼロからの資本論」同様、行きすぎた資本主義の弊害が、ここにもある。

  • 大学で教鞭をとる筆者が講義において学生から多くの「客観的な妥当性はあるのか」という意見を受け取った。客観性を担保するものはデータであり、数値としてのエビデンスであるけれど、数値に過大な価値を見い出せば、個人の経験などは顧みられない社会になってしまうのではないかという思いがきっかけとなって執筆することになったという

    たしかに自分語りが疎まれる風潮が何年かまえに比べて強くなったよなとは思う。「それってあなたの感想ですよね?」なんていう言葉がもてはやされ、個人が催した感情を言葉にすれば「お気持ち」だなんて揶揄される。個人の経験や感想が忌避されるようになった。他人の気持ちを揶揄したり軽んじたりするような言葉や空気は本当に嫌いだ。人の持つ感情はそれまでの生育歴や対人関係、おかれている環境によって細かに異なるものであり、だからこそ価値があるものだ。ありきたりな表現だけど人間はロボットではないので。SNSなんて自分語りをするためのツールじゃないか

    筆者も個人の感情や経験に取り合わないことで、マイノリティとされる人たちの声がかき消されていると指摘していた。もちろん学問の分野によっては客観性は大変重要であり、そういったものを否定するわけではないと明確に記載している。そりゃあ医療や科学の分野では数字の曖昧さは時に命となるものであるから当然だ

    読んでいて納得することが多く頷きながら読み勧めていたけれど、なかでも客観性、すなわち数値にかたよった評価は数値によって人間を序列化するものであり、その数値はどれだけ社会で利益を上げる人間なのか評価される。人間が役に立つか、立たないかで切り分けられると書いてあった。社会の数値化が能力主義を生み出し、現代的な差別を生み出すとのことだった。例えば現在の障がい者の支援制度は就労がゴールになっているという。障がい者も就労し、納税することを求められる。経済的に役に立つかどうか、すなわち生産性という尺度で人間が測定される。そして生産性は他人と比較され、その比較は国や組織が行う。誰かと競っているように見えても、国や組織に品定めをされているのだというところに驚きと強い納得があった。障がい者の就労支援って、そういうことだよな…働いて国に税金を納めてほしいんだよなと思ったのだ

    この本では客観性と数値を盲信することへの危惧を示し、私たち一人ひとりの生きづらさの背景に、客観性への過度な信頼があること。数値が過剰な力を持った世界において、人々が競争に追いやられること。その流れのなかで個別の経験の生々しさがが軽んじられがちになったこと。個人の語りを細かく聞くことで見えてくる経験や偶然性、必然性や多様さ、それらを捉えるための手段。そして誰もが取り残されることのない世界のかたちを考えることが記されている

    いま形づくられている社会や制度がどれだけ大切にされるべき個人のことを抑圧しているか、その抑圧のしくみがこの本には書いてあった。当然のことだけれど個人が集まれば集団であり集団が大きくなればやがてはひとつの国になる

    個人の幸福を無視して大勢の幸福は訪れない

  • 前半はタイトルに沿った内容で、"客観"とは何なのか、ということを教えてくれる。数値や法則に依る客観性こそが真理であるという考え方は、ここ200年ほどのものらしい。そもそも客観性が重要視されるようになったのはいつからか、なんて考えたこともなかった。それほどに、何かにつけデータを求めるのは今や当たり前のことになっている。
    そして、数値、法則を第一とすればそれは統計(確率)が社会を支配することにつながる。グラフの両極端なところは切り落とされ、中央の平均や最多値が「事実に近い近似値ではなく事実そのもの」となってしまう。数字に置き換えられない、計れないものは意味をなくし、それが「生産性がある人間かどうか」といった優生思想にもつながってしまうという。個々の経験も顧みられなくなり、データの背景やグラフの両端にある具体的な事例は"主観"として退けられる。
    「エビデンスはあるんですか?」に答えられない経験談を、不要なものとしていいのだろうか?そこに、"落とし穴"がある。

    後半は、この「経験談」をどう読み解くか、という論になっており、正直タイトルに直接は沿っていない。著者の経歴を見ればそこへ向かうことはおかしくはないけれども、"交わらないリズム"という独自用語が急に出てきて「??」となった。カタカナ用語も多く、少々置いてきぼりにされた感がある。

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著者プロフィール

1970年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程満期退学。基礎精神病理学・精神分析学博士(パリ第7大学)。現在は、大阪大学人間科学研究科教授。専門は現象学、精神医学。著書に『治癒の現象学』(講談社メチエ)『レヴィナス』(河出ブックス)『摘便とお花見-看護の語りの現象学』『在宅無限大』(医学書院)『仙人と妄想デートする 看護の現象学と自由の哲学』(人文書院)などがある。

「2023年 『客観性の落とし穴』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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