ブラッドランド 下: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 (単行本)
- 筑摩書房 (2015年10月15日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480861306
感想・レビュー・書評
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日本の原爆も凄惨な歴史だけど、ドイツもソ連も、対戦中は、すっさまじく悲惨な歴史を経験してる。
ヒトラーもスターリンも、凄まじく人を殺してる。
ドイツ人も日本人もロシア人も、残虐な加害者であると同時に、惨めで哀れな被害者なんだよね。
ソ連の赤軍が、ドイツ人は人間ではないとみなして、ドイツの村で横暴の限りを尽くした話、特に、『ブリキの太鼓』で知られるギュンター・グラスの母親に暴力を振るった、というエピソードにびっくりした。p.145
そのグラスもまた、17歳でナチ党の武装親衛隊に入隊して、ドイツ国境に迫るソ連軍を迎撃する第10SS装甲師団に配属されていたという。
戦争はいやだなあ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
圧巻。
著者の胆力にやられました。
ナチス=ホロコースト=アウシュヴィッツの思考では決しておさまらない、歴史上確かに起きた地獄の惨禍、その舞台となった地を、著者は『ブラッド・ランド』と名付ける。
ナイスドイツと大国ソ連に挟まれた国々は、全体主義国家のリーダーたちの政治的意図でもって干渉を繰り返され、ただひたすらに殺戮の被害を受ける。
歴史の先端に立つ自分達は、ナチスやソ連を狂人や悪の軍団だとひとまとめに括り単純化しては、どこか遠い存在だと思いがち。しかし、それ以上に重要なのは彼らが正当な論理をもとに虐殺へ進み、倫理観を持って行動を繰り返したその「正常さ」を(誤りなのは百も承知)、
残された記録や人々の証言を照らしながら、正気をもって向かい合うこと。
まさにこれこそが歴史認識だし、ひいては本当の知識を生み出す。
もう少し早く読めばよかった… -
2022I106 239/S2
配架場所:C3 -
上巻ほど衝撃的な事実は書かれていない。記述が細かくて、疲れてしまうので、もう少し簡潔だと良い。
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壮絶な内容が延々と続く、途中までで断念
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独ソ戦下のベラルーシやホロコーストなどから始まり、ワルシャワ蜂起、敗戦を迎えたドイツなどで起きたことなど。上巻に引き続きいかに1400万人の非戦闘員が殺されていったかが記述されている。
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レビューはこちらに書きました。
https://www.yoiyoru.org/entry/2019/07/31/000000 -
・1933年から45年までの12年間、スターリンとヒトラーの政権のもと、独ソ両国の大量殺人政策によって、ポーランドからウクライナ、ベラルーシ、バルト三国、ロシア西部にまたがる地域で殺害された民間人、戦争捕虜の総数は少なくとも1400万人にのぼった。1930年代、ウクライナでスターリンが引き起こした人為的な飢饉で約330万人が命を落とし、その後の大テロルで30万人が銃殺された。1939年以降は独ソが共同でポーランドを侵略し、ポーランド国民20万人を殺害した。1941年にはヒトラーがスターリンを裏切ってソ連に侵攻、ソヴィエト人戦争捕虜やレニングラード市民など420万人を故意に餓死させた。さらに、1945年までに、占領下のソ連、ポーランド、バルト諸国でユダヤ人およそ540万人を銃殺またはガス殺し、ベラルーシやワルシャワのパルチザン戦争では報復行動などで民間人70万人を殺害した
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中欧が1930年代から40年代に経験した大量殺戮を検証し直す著書の下巻。
著者は、この地域(ポーランド・バルト3国・ウクライナ・ベラルーシ・ロシア西部国境地帯)をブラッド・ランド=「流血地帯」と呼んでいる。
上巻に続き、著者はこの地域で起きた大量殺人を丹念に洗い直す。下巻では1941年以降の流れを綴る。
アウシュビッツに代表されるような強制収容所での所業もひどいものだった。しかし、トレブリンカなどの絶滅収容所では多くの人々が証言する機会も与えられないまま、即刻ガス室に送られた。
人口の半数にあたる60万人もの人々を喪ったワルシャワ。故意に多くの市民が餓死に追い込まれたレニングラード。壊滅的な打撃を受けた都市も数多くあった。
代表者となる人を残すこともできず、後世、政治的に声を挙げることもできないまま、聞かれぬままになっている死者たちの声が、注意深く、静かな怒りを持って拾い上げられていく。
死者1400万人。
1400万の数字(それすらも控えめと著者は言うのだが)は、単なる概算された数字で済ませてよいものではない。それは1人x1400万であり、加えて数十数万数千数百数十数人の途切れた人生を含むものだ。
1人1人の生がどのようにして終わったか。それはなぜだったのか。本書は全体としての流れを追いながら、残された記録から、個々の人生の具体的な姿を追う。
最期を迎えた人々の胸を打つ記録を読めば、多くの読者は自分も1400万の1人であったかもしれないと思うだろう。その認識は大切だ。しかし、さらに大切なのは、自分がその1400万の1人を殺す方であったかもしれない、という意識だ。
信じられないほどの殺戮は、ヒトラーやスターリンなくしては起こらなかっただろう。しかしまた、ヒトラーやスターリンのみでは起こらなかったことも事実なのだ。
1人1人の生を追うことはまた、歴史問題の安直な理解に疑義を呈する。
1400万の人々は、歴史の複雑な事情の中で命を落としている。
「ナチスがユダヤ人を大量に殺した」とまとめてしまうと、「狂った」ヒトラーが「ドイツ人」の利益を横取りする「ユダヤ人」を目の敵にして始末した、という、比較的「わかりやすい」図式を生む。
しかし、「ユダヤ人」とは何だったのか。古くから例えばポーランドに住んでいたユダヤ人は、周囲に溶け込み、別段、特異な存在ではない例も多かった。
「ユダヤ人」というレッテルは、目に見えぬ不満のはけ口とされたのではないのか。
ホロコーストで殺された人々の中にも非ユダヤ人は多かった。一緒くたにしてラベリングしてしまうことで本質は隠れる。
ハンナ・アーレントが、アイヒマンを指して「陳腐な悪」と呼んだものは、アイヒマン自身にだけ宿るのではない。それは、人間を超えた怪物ではない。1人1人の中に宿るものだ。1人1人被害者たり得たかもしれないが、また、1人1人加害者たり得たかもしれない。つまり、戦時の高揚は決して過去のものではなく、現在・未来、身近になり得るということだ。
戦争で起きた悲劇を、国ごとに捉えたのでは流れは見えてこない。国には国の言い分がある。現在の政治的立場もある。死者たちはときに、現政権の「駒」としても使われる。我が国はこれほどの損害を被った。それは「ヤツら」のせいだ。
「勝った者」「生き残った者」「声の大きい者」「主義主張の強い者」だけが語る歴史には、嘘とまでは言えなくても、往々にして誇張が混じる。
そのことを冷静に慎重に見ていかなければならない。
それが1400万人、いやこれまで「戦争」によって命を奪われた人々への鎮魂ともなるだろう。
専門家にしかなしえない仕事はある。本書はその好例と言える。
そのことに圧倒される一方で、専門家がなした仕事を受けて、市民として考えていくこともまた、大切なことだと思う。