木下サーカス四代記: 年間120万人を魅了する百年企業の光芒

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  • 東洋経済新報社
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  • Amazon.co.jp ・本 (325ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784492503058

作品紹介・あらすじ

大連での旗揚げ、戦争と平和、どん底からの再出発
驚異の観客動員力を誇る「百年企業」の波乱と進化の物語

木下サーカスとは、どんな共同体なのか。
百余年の風雪に耐え、現代人を惹きつける根源に何があるのか。
木下家四代にわたる経営者の軌跡から、
旅興行を実業に変えた執念と、波乱に富む人生が浮かび上がる。

四代目社長、木下唯志は、V字回復の理由に、「一場所、二根、三ネタ」を挙げる。
「場所」は公演地の選定、公演の現場を指す。「根」は営業の根気を、「ネタ」は演目である。

この三つを地道に磨き、世界トップ級のサーカスを率いる。
生き残るための「常道」がここにある。

【主要目次】
第1章 「一場所・二根・三ネタ」 驚異の観客動員力の秘密
・北海道から九州への「場越し」
・木下家に伝わる金看板
・「空地」は政策転換の「隙間」にあり
・古典芸の高みを求める「社長見せ」
・家族一緒の移動か、単身赴任か
・海の向こうから来た曲馬団

第2章 木下アームストロング 初代・唯助の冒険から隆盛へ
・「旭座」の主、藤十郎と出会う
・西洋と日本をつなぐ曲馬
・ダルニー(大連)で旗揚げ
・西大寺の興行権を掌中にする
・「仲裁」で名を上げる
・弟の死、人生を決めた試練
・中国、ロシア、大陸巡業の苦闘
・「諜報」とロシア飛び
・大阪・千日前の興行師、奥田弁次郎
・映画館を建て、全国の興行師を束ねる
・「任侠道」を利用した原敬内閣
・昭和恐慌と「サーカスの時代」 

第3章 戦争と平和 サーカスに国境はない
・宣撫官・光三がくぐった戦火
・木下家の婿養子
・戦時下の震災、そして焦土へ
・「山より大きな獅子は出ない」
・ハワイ公演からの再起
・美空ひばりと木下サーカス
・丸テントの「革命」
・魔の「数十分の一秒」
・「大阪読売新聞」と提携
・「サーカスに国境も人種も関係ない」
・空中ブランコの申し子、谷口豊春
・光三の二代目襲名

第4章 どん底からの再出発 四代目・唯志「世界一」を目ざす
・「太平洋大学」と光宣の選択
・明治大学剣道部
・まつろわぬ人びと
・木下ブラザーズ
・大雪の夜、弘前の恋
・闘病三年、「断食修行」に懸ける
・三代目・光宣の「血の通った改革」
・負債10億円からの再出発
・イタリア製の大テントで起死回生
・「大家族」のサーカス企業化

終章 未来への布石 「多様性」を磨け
・「大阪うめきた公演」の重み
・コンテナ村の外国人アーティスト
・象をラオスに返せない!
・「種の保存」とサーカス
・「生きている実感、ありますか」

感想・レビュー・書評

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  • 岡山市表町商店街の南端に「千日前」という一画がある。ほんの20年前までには此処は6館ほどの映画館が林立する映画館街だった。60年前は、正月前後などは人混みでごった返す盛況だったと先輩から聞いている。更に遡ること100年前、映画の街はサーカスに続いてこの街で産声を上げ、戦災をくぐり抜け岡山の興行ならびに大衆文化をリードし続けた。

    今、私たち映画ファンが娯楽を楽しんでいられるのも、先人たちが健康な興行を始めたお陰だと忘れないように本書を紐解いた。因みに、本書では言及していないが、千日前商店街の大看板は昨年秋に撤去された。現在の木下サーカス本部があるビルの目の前に、新しい市民会館の建設が始まっている。新しい文化の殿堂が造られようとしている。

    もう文章は波乱万丈だ。今や世界三大サーカスの一翼を担う木下一族。118年前に岡山から幕を開けたという。サーカスという一般には知られていない仕組みと事業の継承に関するドラマがてんこ盛りである。絶対映画に出来る。映画並みの心踊る導入部を各章に設けて綴っている。‥‥それは読んでもらうとして、岡山に関する事を中心に私的メモを以下に残す。


    ・1886年、岡山市中島(旭川の中洲にある遊郭街)に芝居小屋「旭屋」が立ち上がる。木下藤十郎30歳。唯助はその養子。蓮昌寺の高市を仕切る。
    ・一代目(矢野)唯助は、西大寺観音院の裸祭りの興行の仕切りを四国や関西から取り戻した。
    ・1902年、軽業一座創設、奉天、ロシアなどを回る(木下サーカス創設)。
    ・1909年蓮昌寺の矢野巡回動物園(ライオン・カンガルー・ベンガルトラ・狼・駝鳥)に1日観覧者8千人。複数興行で、北海道・東北を回る。
    ・1916年、唯助は大阪千日前の被災した奥田社中を取り込み、甥に軽業、曲馬主体の第二部を作らせた(後の矢野サーカス)。
    ・1919年、岡山市天瀬の帝国館の向こうを張り、金馬館開設、初めて映画の昼興行を行った。大正末に若玉館も開業。さらに映画館二館、旅館、料理屋、銭湯などを同地に建設。「千日前」という歓楽街に変わる。
    ・関東大震災(1923)の時に、靖国神社で「世界無比日本アームストロング木下演芸曲馬団」の準備をしていた唯助は、被災支援で都民の心を掴む。(中原中也「山羊の歌」所収「サーカス」はおそらく木下曲馬団)大儲け。一方矢野巡回動物園は閉鎖(1926)。
    ・1943年9月鳥取大地震。弟の行治が準備中に圧死。
    ・1945年、岡山大空襲、映画館灰塵に帰す。娘婿二代目光三、中国から帰還で妻子と離れ離れ。
    ・1946年9月大阪歌舞伎座で木下サーカス復興第一公演。金馬館、文化劇場、若玉館、白鳥座の順に映画館が再築。※私たちの調査では金馬館は現在美容室になっている(昭20-33開館)、白鳥座は現在は駐車場(昭25-60開館)である。他の映画館の名前は知らなかった。
    ・光三はサーカス界で初めての大学出の団長になった。団員の意識改革、近代化に努めた。
    ・1950年、戦後初の芸能団体の渡米でハワイへ。
    ・近代化への「革命」、丸太掛け小屋から洋式の丸テントへ。会場の不便解消、歩方や太夫元のしがらみからの解消。宣伝(新聞社やテレビ)には、軍隊の宣撫活動が役に立つ。
    ・1962年一代目唯助の葬式を、千日前の文化劇場で執り行なう。花輪が千日前商店街を埋め尽くした。
    ・1973年、韓国親善公演を目指して、政府に「岡山が生んだ世界三大サーカス、木下サーカス」の保護・育成を申請している。金大中事件で頓挫。タイやソウルやフィリピンなどの海外公演に拘ったのは、光三の戦中体験に関係していたのかも。誰にも何処にも語ってはいない。
    ・1968年、司法試験を目指していた長男光宣を成田山の1週間断食に誘い、木下サーカスに入る事を決意させる。商店街入口に建設中の7階の「ニュー千日ビル」の木下興産専務へ。
    ・1974年次男唯志が父親入院を機に銀行内定を蹴り、木下サーカス入団。週休を認めさせる。
    ・1983年、光宣が三代目襲名。待遇改善、住環境の改善(トレーラーハウス)。
    ・1988年瀬戸大橋博覧会会場の公演で大赤字。※坂出は本当に人出が無かった事を思い出した。博覧会ばっかりが続いていた頃で、飽き飽きしていたし、第一岡山から高い瀬戸大橋通って行く気が全く起きなかった。三億円の赤字。
    ・唯志は岡山に英会話学校「プリンストン」を開講、3年間で黒字へ。
    ・1990年、光宣倒れる。唯志4代目就任。負債10億円。
    ・「シルク・ドゥ・ソレイユ」はプログジェット型ビジネス、「木下サーカス」は大家族ビジネスで世界一へ。
    ・2018年岡山公演、西日本豪雨のあと連日35度を超える猛暑、熱波(天井付近は40度を超える)との闘いだった。一台1千万円のエアコンを8台使い凌いだ。また、大阪関空を襲った台風21号を前に千秋楽前にこの公演を畳んでいる。公演は自然との闘いである。
    ・此処で告白するが、まだ一度もサーカスを見たことは無い。2018年も行きたい行きたいと思いながら、1人で行くのが恥ずかしくて行けれなかった。次回は何としてでも行きたい。

  • そういえば、サーカスといえば「木下大サーカス」を連想するが、木下以外のサーカスは思い浮かばない。それもそのはず。かつて、日本では多くのサーカスの興行集団が存在したが、ほとんどが経営難のため撤退、今では木下サーカス株式会社のみが生き残っているのだ。その木下は2002年にて創業100周年を迎え、現在でも好調な観客動員と経営を維持している。

    木下サーカスは、日露戦争直前の1902年に創業される。創業者木下唯助以降、代々、木下一族がトップをつとめ、今では4代目。戦争による混乱期や10億円もの負債を抱えた時期、3代目の突然の危篤状態などの危機を乗り越え、現在では営業や福利厚生面に力を注ぎ、大卒生も採用している。

    同族企業経営といえば、会社の私物化が起こることもあれば、家族ならではの団結力を見せることもある。木下サーカスの場合は、後者だった。現在の4代目はもともと、空中ブランコ担当。その経験を活かして、団員が家族と同居できるコンテナハウスや撤収時間を重視したテントの開発など、その日暮らしの旅芸人というサーカス団のイメージを覆す努力を継続している。

  • 木下サーカスを支える
    四代にわたる人たちを縦糸に
    明治から始まり
    大正、昭和、戦前、戦中、戦後の
    その時々の日本の史実を横糸に
    紡がれた
    興味深いノンフィクション

    「サーカス」という
    「言葉」に惹かれて
    読み始めたのですが
    これが 実に面白い

    著者の山岡さんの
    それぞれ方への聞き取り取材が
    遺憾なく発揮されているので
    その臨場感たるや
    ぐっと 胸に迫ってくるところが
    何度も出てきます

    巻末の「木下サーカス 四代記」の年譜が
    また秀逸です

  • 本書は、その木下サーカスの創業期から現在に至るまでの歴史をとりまとめたノンフィクションです。

    木下サーカスは1902年に中国・大連で旗揚げされ、今日まで約100年以上の歴史を有し、今でも年間120万人を動員するなど、根強い人気を誇ってます。

    しかしながら、その間、決して順風満帆だったわけではありません。

    数々の困難を歴代の経営者をはじめ、多くのスタッフが困難に向き合い、乗り越え、今日に至ります。

    困難を乗り越えるにあたり、さまざまな苦労話がありますが、共通しているのは、「お客さまに感動をお届けする」
    という、ぶれない熱い想いです。

    これは環境や分野が違っても、共通する大事なポイントだと思います。

    そういう意味で、仕事を進めるうえでも、多くのヒントを与えてくれました。

  • 経営とは
    自らやるべきこと、、
    当たり前なのだけれども、それ、経営に関わるときの意識、もつべき姿勢をつよく指摘されます。

    やるべきこと、なにやればいいのか、に迷うとき、読むべき良い書だと思いました。

    意識かわる

  • p37 地方興行師が起源のサーカス シバタ、有田、カキスマ、高玉、キグレなど数多くあったが、木下の他に現存していない

    p65 徳川幕府は、火災の類炎を防ぐ名目で歌舞伎に江戸三座(中村、市村、森田)での常設興行を認めた一方、軽業の見世物一座には空き地での営業しか許さなかった

    p68 1872年 明治5年 香具師の名目廃止の令

    p171 前後の日本のサーカスは、木下、シバタ、有田のいわゆる三タサーカスが先頭にたち、矢野、キグレが二番手、柿沼、金城、高玉などが続いていた

    p264 山より大きな獅子は出ない、怖れず、思い切ってぶつかっていけ

  • コロナに負けるな!

  • ふむ

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著者プロフィール

1959年愛媛県生まれ。ノンフィクション作家。「人と時代」「公と私」を共通テーマに政治・経済、医療、近現代史、建築など分野を超えて執筆。時事番組の司会、コメンテーターも務める。一般社団デモクラシータイムス同人。著書に『ルポ 副反応疑い死』(ちくま新書)、『コロナ戦記 医療現場と政治の700日』(岩波書店)、『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『田中角栄の資源戦争』(ともに草思社文庫)、『ゴッドドクター 徳田虎雄』(小学館文庫)ほか多数。

「2023年 『暴言市長奮戦記』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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