NHKの人気番組「課外授業 ようこそ先輩」をもとにしたドキュメント本です。
「ようこそ先輩」は、業界の第一人者が母校の小学校に行って授業
を行うという番組ですが、菊地氏が行った二日間の「課外授業」は、
谷川俊太郎のたった七行の詩「生きる」を題材に、子ども達に本の
表紙をつくってもらう、という装幀家ならではの内容でした。
ちなみに、「生きる」は、以下のような詩です。恥ずかしながら、
私も青年時代に大好きな詩でした。
「生きる」 谷川俊太郎
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと
菊地氏はこの詩を生徒達に読ませ、一行一行、自分ならどう考える
かと問いかけます。それが「自分を読む」ということで、読んだ自
分を文字の形や色にすることが装幀という仕事なんだと子ども達に
教えるのです。
一日目に子ども達がつくった表紙の多くは、木漏れ日や握手してい
るところなど、この詩の言葉そのものに影響を受けたものでした。
それらの作品に「詩のほんとうの姿が見えていない」とダメ出しを
した菊地氏は、「自分自身の『生きる』の一行を見つけること」を
一日目の終わりの宿題にします。
これは「生きるとはどういうことかを一行で定義せよ」と言ってい
るに等しいです。とても難しい問いですね。自分ならどう定義する
かとドキドキさせられます。本書は、このようにして自分自身のイ
メージを持ち、それを表現することの大切さを教えてくれるのです。
教育論として読めるところも本書の魅力になっています。本質的な
ことをどうやって人に伝えるか。どう他者の可能性を引き出すか。
子ども達に対する菊地氏の真剣な姿勢は、部下や生徒や子どもやお
客さんという、「教える対象」を持つ人にとって、きっと多くの学
びに満ちていることでしょう。
あとがきで、「一瞬の目の輝きをいくつ見せてもらったか。あんな
輝きを人にもたらす装幀をつくりたい。ぼくの『生きる』の一行、
それは、『装幀をすること』」と菊地氏は締めくくっています。
この熱さ、純粋さ、上から目線でなく、人として子どもと真摯に向
き合う姿勢は、本書に一貫して流れているものです。それが読む人
の胸を熱くし、自分自身の「生きる」って何だろう、と素直に自ら
を振り返る機会を与えてくれるのです。
是非、読んでみてください。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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イメージをもつことは、かわいいとかきれいとかだけではなくて、
「どうかわいいのか、なぜきれいなのか」、それをことばにしては
じめてイメージを持ったと言えると思うんだよ。
イメージをことばにする。そのことばをイメージに戻すんです。こ
とばはとても個人的で、手前勝手になりやすい。しかし、ことばの
形である文字は書体や色によって意味と印象を生みだします。自分
のことばがどうしたら人に伝わるか、相手の立場になって、自分を
通訳することです。
イメージ力を鍛える!それが自分のためであり、人のためでもある。
ひとりひとりが自分を生きるためにイメージ力を鍛えることが大事
なんですよ
本を読むってことは自分自身を読むことなんだ。一行一行、自分な
らどうか考えること。それが自分を読むことになる。
ひとりひとりが自他に対するイメージをもち、それを関係の中で刻
々と刷新していくことが生きることだ。・・・自分のイメージを自
分のことばでコミュニケーションをはかる。その持続こそが、生き
る、ということだと思う。その戦いからおりたら死んだと同じ。傲
慢な言い方かもしれないがイメージ力があれば、不可能な条件でさ
え道は見つかると思う。
教育ってその人のステキなところを見つけてあげて、ステキなとこ
ろを応援することだと思う。
生きているっていうことは五感が自分の手の中にあることなんだ。
生きるってことは、自分の「生きる」を侵そうとするものと戦うこ
と
「わからない」というのは問いへの立派な答えのひとつなんだ。問
いそのものを疑うことを求めている。・・・答えがない、わからな
いと心底思うとき、人はそれでも生きていくにはどうしたらいいか
考える。
君たちに宿題を残します。・・・宿題は、ここにいる二十七人ひと
りひとりが自分自身をイメージすること。夢や希望、こうありたい
自分、こう考える自分・・・。それを実現するには、家族や仲間、
そして社会で理解され、共感されなくてはいけない。人はひとりで
は生きられないのだから、自分のイメージをどんなことばや行為で
示せばいいか考え、考え、生きてください。
君自身をみつけるためにたくさん本を読んでください。自分という
ものは外に転がっているものではない。自分の中に潜んでいる、そ
れを読み出すのが読書です。
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●[2]編集後記
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東京には黄砂と花粉が吹き荒れ、ついに、昨日から私も花粉症が始
まってしまいました。いつもは3月になってからですから、今年は
2週間くらい早いですね。これも温暖化の影響でしょうか。
花粉症というのは、花粉を身体が受け付けないということです。ア
レルギーというのは、受け付けないものを取り込まないようにする
ための生体の防御反応です。人間の側からすれば「取り込まない」
ですが、植物の側からすれば「取り込まれない=食べられない」で
す。
考えてみれば、アレルギーを起こすものは、花粉にしろ、卵にしろ、
次世代を生み出すものですね。次世代は何があっても敵から守る。
そういう植物の断固たる意志がアレルギーを生み出しているように
思えます。
一方、果実は食べられるためにありますね。果肉を食べてもらって、
中の種子は排泄してもらう。動物の排泄物が肥料になる上、自分で
は行けなかったところまで連れていってもらえるのですから、本当
に賢い仕組みを植物は考えたものだと感心します。この果肉には、
通常、アレルギーがあるとは聞きません。リンゴや桃アレルギーっ
てあるのかもしれませんが、私は聞いたことがありません。これも
次世代を残すための知恵なのでしょう。
スギやヒノキは人間が利用するために植えたものです。でも、林業
がうまくいかなくなって、手入れもされないまま、放置されていま
す。放置されたスギやヒノキは、光が当らないから、本当に遅々と
しか成長しません。それでも必死で花をつけ、花粉を飛ばします。
自分の代は人間にいいように使い捨てにされてしまった。次の世代
は人間に負けないよう、花開いて欲しい。そういう植物の怨念とも
祈りともつかない思いが、花粉症の爆発的増加を生み出しているよ
うな気がしてなりません。
花粉症の季節になるとスギやヒノキが目の仇にされますが、たまに
はスギやヒノキの身になってイメージしてみることも大事だと思う
のです。